新たな世界は、新しくないはずだ
「では、本部までご同行ください」
彼は目を細めた。
「断る」
「これ以上、仕事を増やさないでください……お願いします。一緒に来てください。あなたを助けるためです。自分がどこにいるかも、わからないでしょう?」
「その通りだ。女、ここはどこだ」
警官のまぶたが二度ぴくついた。
「知りたいことは、本部で全部お話しします」(これ以上仕事を増やしたら、テーザー銃を使うわよ)
「わかった……」(何かしてきたら、殺す)
警官はパトカーまで歩き、ドアを開けた。
「どうぞ」
彼はじっと見つめたまま、首を傾げた。
数秒後、警官は頭を抱えた。
(これは……手当てが出てもいいはずだ)
「これは自動車。荷馬車だと思えばいい。あなたの世界にも荷馬車くらいはあったでしょう?」
「これは荷馬車じゃない。馬がいない」
「いらないの」
「なら荷馬車じゃない」
「いいから乗って!」
彼は舌打ちをして、四つん這いでパトカーに乗り込んだ。警官は待たずに、ドアを叩きつけるように閉めた。
「女! この中に閉じ込める気か……」
彼女も乗り込んでくるのを見て、口を閉じた。
「……何でもない」
彼女が車のエンジンをかけると、振動を感じた。それでも平静を保っていたが、車が動き出すまでのことだった。
最初の反応は、座席に強くしがみつくことだった。それだけで済んだはずだが、彼女の運転はまるで借金取りから逃げているかのようだった。
彼はドアにしがみついていた。表情は完全に平静を保っていたが、手には血管が浮き、取っ手はわずかに凹んでいた。
彼にとってこの道のりは……一つの体験だった。
車がなぜ止まったかと思えば、次の瞬間には撃ち出されるように走り出すのか、彼にはわからなかった。
だが、その一度の停止の間に、何もない場所に立つ巨大な扉と、それを取り囲む大勢の人々を目にした。
本部に着いた頃には、肺に空気が無理なく入るようになった気がした。
警官が降りて、ドアを開けた。
「ついてきて。こっちよ」
彼はついていった。
(一瞬、貴族にでもなった気分だった)
中に入ると、同じ制服を着た人間が大勢いた。
「健康診断のために、三階まで上がらないと」
「わかった」
だが、触れてもいないのに扉が開き、彼女が小さな金属の箱へ入っていくのを見るまでのことだった。
「……考え直した。俺は大丈夫だ」
(またか……)
「これはエレベーター。上に行くためのものよ」
「どう見ても拷問部屋にしか見えないものに入るつもりはない」
(この人、一体どこから来たのよ……)
「じゃあ……階段を使いましょう」
渋々、彼女は階段で三階まで彼を案内した。
息を切らしながら、扉を開けた。
「入って……」
彼が入ると、そこはひどく清潔で真っ白な部屋だった。
「ケイコ! リターナー連れてきた。健康診断お願いできる? 服が乾いた血だらけなの」
「お疲れ、アキラ。奥にいるから、連れてきて」
アキラは彼を連れて奥へ向かった。
「はい、連れてきた。終わったら教えて。それまでは呼ばないで。じゃあね」
「いやいやいや……終わるまでいてよ」
「必要ないでしょ。プロなんだから、ケイコ」
「あー……でも、この子まだ記憶戻ってないんでしょ?」
(帰らせてよ、ケイコ……)
(まだ帰さないわよ、アキラ……)
(早くしてくれないか……)
三人は互いに顔を見合わせた。
「ちょっと、君……って、待って。名前、聞いてないの?」
「こっちでの記憶がないのよ。わざわざ聞いてどうするの?」
「ずっと『君』って呼ぶわけにもいかないでしょ」
「名前ならある」
アキラはため息をついた。
「そう……教えてもらえる?」
「真情 在ある」
「わかった……データベースで家族を探すわね」
「アキラ……逃げられると思わないでよ。まだこの子の身体検査、終わってないんだから」
「探す必要はない。家族はいない」
二人は黙り込んだ。
「一応探すわ。仕事だから。検査が終わったらね」
「それじゃ、真情さん。服を脱いでもらえます?」
在は二人の顔を交互に見た。
「……何だって?」
「怪我がないか確認するために必要なの」
ケイコの笑顔は何の効果もなく、在を一歩後ずさらせただけだった。
「私はプロですから……」(おバカさん)
「わかった……」
在はコートを脱いだ。フードが外れ、ひどく乱れた赤褐色の髪があらわになった。
続けてシャツを脱ぐと、鍛え抜かれ、無数の傷跡が刻まれた体が現れた。
ケイコがアキラを横目で見た。
「口、閉じて」
アキラは顔を背けた。
ケイコは手袋をはめ、彼に近づいて傷を確認した。
「これは変ね……こんなに傷があるはずないんだけど」
「これのことか?」
在は明らかに一番新しい傷を指した。
「その傷、いつできたんですか、在さん?」
「死んだ時」
アキラはそれを聞いて振り返った。
「失敗したリターナーだ!」
「まだわからないでしょ、アキラ……もう、勝手に決めつけないの」
(へえ……死の話をしても気にしないのか……変な世界だ)
在がズボンを脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょ、ちょっと! 何してるの!?」
「健康診断だ。プロだと言っていただろう」
「そうです。アキラ、また後ろ向いて。絶対に振り返らないで!」
アキラは本当に振り返るつもりはなかった。
だが、背後の様子が気になって仕方がなかった。
「脚と太ももにも傷がありますね、真情さん」
「大変な仕事だったからな」
「ここにまで傷があるなんて、ずいぶん大変な仕事だったんですね」
「そこは個人的な領域だ」
その瞬間、アキラが振り返り、背中を確認しているケイコを目にした。
「振り返らないでって言ったでしょ!」
ケイコがカーテンを閉めた。
「真情さん、かなり汚れてますね」
「死んだ時に体を洗う余裕はなかった」
「そうですよね……この服に着替えてください。もう終わりです」
「元の服の方がいい」(何本もナイフを隠してある)
「お願いですから……清潔な服にしてください。元の服は持って帰って構わないので」
在は服を着た。生地が薄すぎるように感じた。
「アキラ、もう覗いていいわよ」
「覗いてない!」
ケイコが書類に記入し始めた。
「アキラ……名前で家族を探すの?」
「他に手がかりがないから」
「問題はね……この体、本来こうなってるはずがないの。イベント前の若者の体だなんて、どうしても思えない」
「イベント?」
ケイコは言葉を選びながら在を見た。
「普通のリターナーなら、もう一つの人生の痕跡が少し残る程度なの。その人生の結果を全部背負った体で戻ってくるなんてことはない」
「わからないな。俺の体が、俺の生きてきたものを示さないなんてことがあるのか?」
二人は二秒ほど顔を見合わせた。
「まあ……それはもう、あなたの問題ね、アキラ」
「いやいやいや! これ、どう説明すればいいのよ!?」
「それがまさにあなたの仕事でしょ」
「ぐぬぬ……」
ケイコが紙を一枚渡した。
「健康状態は良好。命に別状なし。病気も見つからなかったけど、念のため分類官のところに連れていった方がいいわね」
少し身を寄せて、耳打ちした。
「かなり鍛えられてる身体ね」
「黙ってよ、ケイコ!」
ケイコは笑ってから、もう一度紙に目をやった。そこには何も書かれていなかった。
「そういえば、真情さん。歳はおいくつですか?」
(見当もつかない……)
「17から19くらい……たぶん」
「わかった……変な大人に手を出されないように、17って書いておくわね」
「あ……な、なんでそんなこと言うのよ!?」
アキラは髪を揺らして首を振った。
「ついてきて、在さん。私のオフィスに行くわよ」
「わかった」
「頑張ってね、アキラ……ちゃん」
「ぐぬ……」
二人はエレベーターまで行ったところで、彼女は先ほどのことを思い出した。
「来て……二階まで降りましょう」(信じられない)
階段を降りたあと、二人は広い部屋に入り、小さなブースまで歩いた。
「座って待っていて」
(時々敬語になったり、ならなかったりするな……)
在は腰を下ろした。
そこから、彼の知らない拷問が始まった。
時間はゆっくりと過ぎていく。
やがて彼は、アキラが指で、音のする板のようなものを叩いているのを眺め始めた。
カタ……カタ……カタ……
数分後。
カタカタカタカタ。
「何も見つからない!」
「どういう意味だ」
「真情って名字が、どこにも見つからないのよ!」
「板を叩いて人を探せるのか」
「これはコンピュ……そうよ、そのために使うの」
「ああ……なら無駄だ。生きている家族はいないと言っただろう。それに、この姓は俺の持ち主がつけたものだ」
「……何?」
アキラは思わず立ち上がった。
「どういう意味よ、それ」
「それ以外に何がある? 家族は死んで、俺は売られた。俺を買った連中が、名前と名字をつけた」
「一体どんな世界から来たのよ」
「俺の世界だ」
(『俺の世界』と言うのはまだ変な感じがするが……こうして生きている今となっては……)
アキラはもう一度画面に目をやった。
「これは……嫌な感じね。もう心配しなくていいから。普通の世界に戻ってきたんだから」
「会ったばかりの人間に体を調べられるのが、どこが普通なんだ」
「あー……かなり普通よ」
「俺に言わせれば、俺の人生の方が普通だったが」
「じゃあ……こっちの世界は、もっと普通の普通なの!」
アキラは気持ちを落ち着けるように、ため息をついた。
「とにかく……なんで思い出せないのかわかれば、あなたにもわかるはずよ」
「ほとんど覚えているが」
「その人生じゃない! 元の人生よ!」
「ん……つまり、俺はこの世界で生きていたと言いたいのか」
「そう、それ!」
アキラは、これから説明することを完全に理解しているとでも言うようなポーズを取った。
「五か月前から、行方不明だった人たちが現れるようになったの。何年も前から消えてた人もいれば、一年くらいの人もいた。まるで魔法みたいに。調べてみたら、消えた人は全員、別の人生を生きていたの」
「はあ……」
「『はあ……』じゃないでしょ。まるで私が頭おかしいみたいに。あなたが、記憶が完全に戻らないまま現れた最初の人ってわけじゃないの」
「そうなのか?」
「そうよ……私が連れてきたの。自分を王様だと思ってる若者でね……まあ、実際に王様だったんだけど。でも、こっちではもう違う。自分が誰なのか思い出すのに、二日くらいかかったわ」
「あまりいい話には聞こえないな」
「たいていの人はそう思うわ。でも、もうあの世界にはいないの。今はこっちに戻って、現実の世界で生きてる」
「それは複雑そうだな」
「どうして?」
「あっちの世界で生きた人生を、認めていないように聞こえるからだ」
「いやいや、違うわよ。あっちの人生にも、ちゃんと重みはある。でも、それで別人になるわけじゃない。私たちは、ものすごく強烈な経験が……」
アキラはうつむき、視線を机の上へ落とした。
そこには、一枚の写真があった。
「……その人自身を変えた。そう考えてる」
「それが言いたいことだ。変わるのは当然だろう」
「……どうしてそう言えるの? あの人たちには、こっちでの人生もあったのに」
「あっちの世界にも人生があった。二つの人生で、一人の人間だ」
「いや……違う違う違う。あっちの人生は、元の人生を強くするものであって、変えるものじゃない」
在は立ち上がり、汚れたコートを羽織った。
その重みと、隠したナイフの感触に、わずかに力が抜けた。
「それを決めるのはあんたじゃない。実際にその人生を生きた本人が決めることだ」
アキラは二度瞬きをした。
それから、机の上の写真に手を伸ばした。
写真には、今より若いアキラと、年上の赤毛の男が写っていた。
一度、そっと指でなぞった。
……その直後、写真を机に何度も叩きつけ始めた。
「ああああああ!!」
在は思わず一歩下がり、反射的に手をナイフへ伸ばした。
「もう! いいから!」
写真を持ち上げると、傷一つついていなかった。
(ガラス、割れないのか……?)
「あんたも! 人生を知ってるみたいな口をきくのはやめなさいよ!」
「……わ、わかった」
アキラは椅子に崩れ落ちるように座った。
「それ、脱いで。汚いから」
「嫌だ」
「ぐぬ……もういい。あなたをどうするか考えないと。家族は見つからないし」
「だから言っただろう……」
「はいはいはい。本当の名前を思い出したら、もう一度探すから。とりあえず……もう遅くなってきたわね」
「心配はしていない……確か、ここに何か……」
在はコートの中を探り、二本のナイフを避けながら、いくつかの硬貨を見つけた。
「これで宿くらい払えるか?」
アキラは二度瞬きした。
「待って……考えたこともなかった。なんであんた、そんなにあっちの世界の物を持ってるのよ」
「これを持ったまま死んだからじゃないか?」
「もう死んだ話はやめて……それと、それじゃホテル代は払えないわよ」
「そうか……なら……」
在は立ち去ろうと振り返った。
「どこか外で寝る」
「いやいやいや。あー……今日はダメ。今日だけよ。もうすぐ勤務が終わるし……明日は分類官のところに連れて行かないといけないから。今日だけ、うちに泊めてあげる」
在の反応は、完全な不信感そのものだった。
「何もしないから!」
「……手を出す気か?」
「それはもっとない!」
「……休むときに、無防備になるのには慣れていない」
「鍵のかかる予備の部屋があるから」
「誰かの近くで眠るのにも慣れていない」
「同じ部屋で寝るわけじゃないでしょ」
「……慣れてない」
「知らないわよ! 外で寝かせるわけにはいかないの。それに、あんたを連れてきたのは私。迷い猫みたいに放っておけるわけないでしょ」
アキラは勢いよく立ち上がった。
「はい、行くわよ!」
「勤務はまだ終わってないんじゃなかったのか」
「あ」




