第34話 赤い夕陽に吠えろ!
学童を後にし、ルナはバロンとともに団源太のジムへ向かった。
テンはというと、子供たちに囲まれてしまい、「一緒に遊ぼう!」と無邪気な笑顔でせがまれた結果、結局その場に置いてくることになった。
本人はかなり楽しそうだったので、まあ問題ないだろう。
ジムに戻ると、デビッドは案の定まだ戻っていなかった。
団源太が、川のほとりで陽が落ちていく空を物憂げに見つめている。
ルナは、なんとなく嫌な感じがした。
「もう一度探そう、バロン」
そう声をかけると、バロンは鼻をひくつかせ、ものすごい勢いで走り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ルナも慌ててその後を追う。
バロンの大きな体が風を切るたびに、地面の砂ぼこりが舞い上がる。
かなりの距離を走っているが、バロンの足取りは一向に緩む気配がない。
ついていくのが精一杯だ。
「テンがいたら絶対に置いてけぼりだったわ」
そんなことを呟きながら必死に走っていると、視界が一気に開けた。
目の前に広がるのは海。空と水面の境界がぼんやりと霞んでいる。
その海を見下ろす崖の上に、デビッドの姿があった。
彼は波の音に包まれながら、断崖の縁に立っている。風に吹かれる黒いシルエットは、いまにも海に飲み込まれそうだった。
――まさか!?
「待ってー!」
ルナは必死に叫びながらデビッドに駆け寄る。
だが、彼女の声が届くよりも早く、デビッドは崖から身を投げた。
「きゃぁあああ!」
想像したくなかった事態が目の前で起きてしまった。
ルナは、頭の中が真っ白になってしまい、膝から崩れ落ちる。
その瞬間――
黒のニューファンドランド犬、バロンが弾丸のように飛び出した。
巨大な黒い影が、しぶきを上げながら海へと飛び込む。冷たい水を切り裂きながら力強く泳ぎ、デビッドへと向かっていった。
「バロン!!」
デビッドの体を、大きな顎が優しく、しかし確実に捉えた。バロンは、驚くべき力でデビッドの巨体を引き上げ、浜辺へと運んできた。
「バロン! すごいぞ、おまえ!」
崖を駆け下りながら、バロンの偉業を讃えるルナ。
バロンは濡れた体をブルブルッと豪快に揺らした。 水しぶきが夕陽を受けてキラキラと光り輝く。
「デビッド! デビッド!」
ルナは、白浜の上で気絶しているデビッドに必死に声をかけ続けた。
しばらくして瞼がわずかに動き、徐々に意識を取り戻す。
そして、ぼんやりとした目で周囲を見回すと、信じられない言葉を呟いた。
「……なんだ、死ねなかったのか」
その言葉を聞いた瞬間、ルナの拳が無意識に握りしめられた。
そして――
「バカーーーッ!」
これでもかというほどの罵声とともに、ルナの拳がデビッドの頬を打ち抜いた。
しかし、しょせんは女子中学生のパンチ。プロの格闘家には、蚊に刺された程度にしか感じない。
だが、デビッドは驚愕していた。見ず知らずの少女の拳に……。
「このすっとこどっこいがッ! なに甘ったれてんのよ!」
怒りと涙が入り混じった声。
元チャンピオンだかなんだか知らないが、こんな情けない男は我慢ならない。
「……あんたねぇ――」
それから、ルナは学童の子供たちの話をした。
ターヤのことを慕い、彼女が残した言葉を胸に刻んでいる子供たちのことを。
デビッドは黙って聞いていた。
そして、思い出したのだ――ターヤの最後の言葉を……。
『デビッド、あたしが死んでも、ずっと落ち込んでちゃダメだよ。あなたの雄姿を、いつまでも天国から見させてね』
言葉が頭の中に谺する。
切れ長の目から、大粒の涙がこぼれた。嗚咽をもらしながら、震える肩を抱え込む。
そんなデビッドを見つめながら、ルナは静かに口を開いた。
「あたしね、小さいころ猫を飼ってたんだ」
デビッドはうつむいたまま、じっと耳を傾ける。
「ところが、ある日その猫が死んじゃって……毎日、毎日、ずっと泣いてたの。そしたらね、パパが言ったんだよね」
潮風が吹き抜けていく。
夕焼けが、二人の影を長く映す。
「ルナ、彼との別れを悲しむのではない。彼と出会えたことに感謝するんだ、って」
デビッドがゆっくりと顔を上げる。
「ターヤと……出会えたこと……」
彼の脳裏に、ターヤとの思い出が次々とよみがえる。
初めて出会った日。
笑い合った日々。
夢を語り合った夜。
そして最後の言葉――。
デビッドは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
波が、足元に優しく触れる。
そして――
「うぉおおおおおおお!!!!」
突然、赤い夕陽に向かって吠えたのだ。
「ありがとよ、ルナ」
デビッドは、海へ沈む陽をまっすぐに見据えた。
「もう、大丈夫だ」
そこにはもう、酒に溺れていた男はいなかった。
夕陽を見つめる、かつての王者デビッドの姿があった。




