第21話 その名も『パンジー高子』
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午後の日差しが、じんわりと街の石畳を温めていた。
道端にはひとりの少女が立っている。
彼女の首からぶら下がる看板は、まるで「生活苦」という名の旗印のように風になびいていた。
遠目には、善意の募金箱が横に置いてあっても不思議ではない雰囲気だった。
【出張マッサージ承ります。60分=6000ゲイル】
それをぶら下げていたのは、ルナ――中学二年生の少女である。
肩まで伸びた黒髪は、そこそこ手入れが行き届いており、顔立ちはどこか気品さえ漂わせている。
だが、その看板を見れば誰しもが思う。
「なにがあったんだ? この子に……」と。
その隣に坐するは、身長こそルナの腰ほどしかないが、態度だけは山のようにデカいてんとう虫モンスター、テンである。
たまに妙なイントネーションの関西弁を流暢に喋るテンは、ルナの良き相方であり、突っ込み役であり、突発的な面倒ごとはなるべく回避したい、実に頼もしい相棒である。
「今日は、なかなか客が食い付かへんなー」
テンが腹の模様を揺らしながら、ぽつりとつぶやいた。
「そうね。でも、もうお金無くなってきちゃったから、この辺りで稼いでおかないとね」
その声には空腹からくる切実さが込められていた。ルナの腹も、タイミングよく「ぐぅ」と小さく鳴った。
――そう、彼らは懐が寂しくなると、出張マッサージで小遣い稼ぎをしていたのだ。
言うまでもなく施術するのはルナだ。
もちろん、やっているのは肩や背中をほぐす、いたって健全なやつである。
もともとルナのマッサージの腕は、幼少期から父・優作をほぐしまくって鍛えられたものだった。
父の誕生日には、毎年手作りの「肩たたき券」をプレゼントし、優作の涙を誘う演出をしていた。
そのおかげで体のツボの位置は体得していたのだ。
その後、父親を練習台にして、趣味の独学でタイ古式マッサージを習得したほどだ。
優作としては、娘の成長が嬉しい半面、背中の骨格を研究対象にされる人生になるとは思っていなかったはずである。
そんな彼女の頭上に、突如、暗い影が落ちる。
頭を擡げて視線を真上に向ける。
影を作っていたのは、地球の重力すらたじろぎそうな巨体を持つ女だった。
その女は、象の耳と豚の鼻を備えた、全身ブルーの肉壁のようなモンスターだ。
身長約二メートル。
肩幅は歩道の幅。
腹は三段腹。
もはやそれは「動く肉塊」である。
「ほ〜う、お嬢ちゃん、マッサージしてくれるのかい?」
その重低音の声が、地響きのようにルナの背骨を震わせた。
声というより、波動に近い。
「デカッ!」
テンが思わず叫ぶ。
虫が持つ本能が警鐘を鳴らしているのか、頭の四本の触角がうねうねと蠢く。
完全に危険信号発動である。
「ふわぁ〜」
あまりの巨漢にルナの口からは、魂が一部抜けかけたようなため息がこぼれる。
「あたしの身体もほぐせるのかい?」
肉の塊が、眉間にしわを寄せると共に、豚の鼻から息を吹きかける。
まるで「この身体を揉めないとは言わせないわよ」とでも言いたげだ。
「ひえ〜」
先ほどから生理的悲鳴しかあげていないルナ。
もう少しで腰を抜かしそうになったところを、テンが思いっきり腕を引っ張る。
「ルナ、こっち来い」
二人は素早くその場を離れると、巨漢女の鼻息圏外まで退避した。
テンとしては、この距離でもまだ安心とは言いがたかった。
「あんないかつい肉の塊やで、いくらなんでもあかんやろ。おまえの指が折れるで」
テンの言葉はまっとうだ。
誰がどう見ても、あの体は筋肉ではなくコンクリートである。
揉むというより、開拓事業に近い。
だが、落ち着きを取り戻したルナは凛とした表情でテンを見つめる。
「でも、今日の初めてのお客さんだよ。この後、来るとも限らないし……。なんとか頑張ってみるよ」
その目には、「腹が減っては戦ができぬ」という名言を信仰する者だけが宿す真剣さがあった。
プロ意識などという高尚なものではない。
ただただ腹が鳴っていたのだ。
それがいまの彼女を突き動かしていた。
ルナは女のもとへと、歩を進める。
「はい、大丈夫です! 任せてください」
このとき、テンは見た。
少女の背に、絶望に立ち向かう勇者を。
それはまるで超巨大戦艦に突っ込んでいく宇宙戦艦ヤマトのように……。
もちろん、テンがヤマトを知る由もないが……。
「そう、じゃあ、家がすぐそこだからついてきて」
超巨大戦艦が、ニコッと笑う。巨漢に似合わぬ穏やかな笑顔。
しかし、手技に満足できなかった時の顔を想像すると、ルナは内心少しだけ逃げ出したくなった。
「ほんま、いけんのか?」
のっしのっしと歩く背中を追いながら、テンがぽつりと漏らす。
「う〜ん、やるだけやってみるわ」
ルナの返事は、まさに勇者のそれだった。
* * *
超巨大戦艦の基地に着いた。
玄関は、まるでその持ち主の肉体を模したように分厚く、そして重そうだった。
ドアが開くと、むわりとした熱気とともに、家の中の空気が一気に外へ逃げていく。
まるで「逃げるならいまのうちだぞ」と忠告してくれているかのように。
「ただいま〜♪」
その声は、予想のはるか上をいく可愛い声だった。
先ほどの地響きのような声とは大違いだ。どっちが地声だろうか。
「ミルマスー いるの〜?」
玄関を上がって歩く廊下の先。右の部屋のドアを開ける。
すると小学生くらいの子供が机の上で絵を描いていた。
どうやらこの母の息子のようだ。
その子は、母と同じ鼻と耳を持っていた。
しかし、肌は青色の母と違い、茶色の縞模様。いわゆる瓜坊模様である。
歳はテンと同じくらいだろうか。
「なんだ、いるなら返事くらいしなさいよ~」
母は半ばあきれ顔でため息をつく。
* * *
「あ〜、今日も疲れた〜」
ズシーン
巨体が寝室の布団にうつ伏せで倒れ込むと、その衝撃で畳がまるで荒れ狂っている海のように波打つ。
同時に重たい音が地層を貫いた。
もし近所に地震計でもあれば、たぶん針が一瞬だけ振り切っていたと思う。
ルナとテンは、その光景を前にしばし口をあんぐりと開けたままフリーズ。
そして視線を交わす二人は、無言で会話していた。
『おい、やっぱ早まったんちゃうか?』
『そうね……。逃げよっか?』
『アホか! 今更逃げたら殺されるで!』
『……』
ルナは、意を決してマッサージを開始した。
ここまで来たら、あとは腹をくくるしかない。
「では、マッサージを始めさせていただきます。特にどのあたりがお疲れですか?」
「全身」
(って言ーよね……。これは悪戦苦闘しそうだわ~)
ルナの心の声が、おもわず喉から漏れそうになる。
ルナはそっと彼女の背中に手を置く。
……が、案の定硬い。いや、もはや石。山の斜面を指で押しているような気分だ。
次いで腕、腰、足へと順番に触れてみる。
どこもかしこも筋肉の塊。
太ってはいる。だが、それはただの贅肉ではない。
分厚い筋肉が、鎧のように詰まっていた。
「すごい筋肉ですね。何かやっていらっしゃるんですか?」
「プロレス」
「へ~、プロレスなんですね……。……えっ、プロレス!?」
思わずオウム返す。どんなスポーツかと思ったが、まさかプロレスとは!
ルナは彼女の身体を見て深く納得した。
むしろ、この体でプロレス以外をしていたら、それはそれで謎である。
「そう、プロレスで稼いでるの。リングネームはパンジー高子。いまも試合を終えてきたところよ」
「すごい! 試合を終えたばかりなのに、アザひとつない。さすがプロだわ」
ルナは、危うく「顔に似合わず可愛い名前ですね」などと言いそうになったが、ギリギリのところで賞賛のセリフに切り替えた。
パンジーの背中に、ルナは肘を立てる。
ぐぐぐっ、と全身の筋肉を総動員して押し込む。
「もっと強めでお願い」
「へ?」
今度は肘に全体重を乗せる。
「うぐぐぐぐぐ」
「ん〜、良い感じね」
(このくらいの強さか……こりゃひと苦労だぞ)
ルナの脳内では、次第にマッサージではなく「修行」の文字が浮かび上がっていく。
もはや山伏の鍛錬に引けを取らないレベルだ。
四つん這いになって背中をひとつひとつ肘で潰すように押していく。
すると、パンジーは目を閉じ、ぽつぽつと語り出した。
「最近、ミルマスが元気ないのよね〜。口も聞いてくれないし」
「うおおおおぉっ」
ルナが気合いの入った声とともにパンジーの腕を持ち上げ、ぐいっと伸ばす。
「少し前までは、試合から帰ってくると走って迎えにきてね~。試合結果を尋ねてきたものなんだけどね〜」
「おりゃああああ」
今度はパンジーの足に腕を絡みつかせ、海老反りにする。
さながら逆エビ固めである。
もはや、どっちがプロレスラーかわからない。
しかし、パンジーは余裕で話し続ける。
「何か悩み事でもあるのかしら」
そう言うと、鼻をほじった指先でうずらの卵大の鼻くそを飛ばした。
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