第8話 鳴り響く鎮魂歌
三階へと続く階段を上り切った瞬間、世界の位相がズレたかのような強烈な違和感が春人を襲った。
壁を伝う湿気は氷のように冷たく、空気はねっとりと肌にまとわりつく。
歪んだ空間の奥、突き当たりに位置する『開かずの音楽室』の重厚な木製扉。その隙間から、ドロリとした紫黒色の瘴気が生き物のように溢れ出していた。
(……なんだ、この圧倒的な不快感は)
牛鬼のときのような破滅的な暴力性とは違う。
人の心の隙間に入り込み、精神を内側から腐らせるような、粘着質で陰湿な妖気。
ポツン、ポツン――。
締め切られているはずの音楽室の中から、狂った音律のピアノ線が弾かれる音が漏れ聞こえてくる。
不協和音の旋律が、春人の脳髄を直接揺さぶり、精神の平衡を乱そうと迫る。
(惑わされるな……! 界鈴で波長を合わせろ!)
春人は左手をポケットに入れ、界鈴をギュッと握りしめた。
チリィン――。
脳内に響く澄み切った鈴の音が不快なピアノの音律を打ち消し、乱れかけた視界がクリアに戻る。
白夜との特訓で叩き込まれた精神の同調。
敵の精神汚染を撥ね退けた春人は、そのまま右足で音楽室の扉を豪快に蹴り飛ばした。
バガァンッ!
「そこまでだ、学校を荒らす不法占拠者!」
開け放たれた音楽室の中は、異様な光景が広がっていた。
月明かりすら届かない漆黒の室内。
机や椅子は壁際に押しやられ、部屋の中央にぽつんと置かれたグランドピアノの前に、「それ」は鎮座していた。
人の形模した黒い影。だが、その背中からは何本もの伸びた不気味な触手が天井へと伸び、校舎全体へと瘴気を撒き散らしている。
そして、鍵盤を叩くその指先は、皮膚が剥げ落ちた骨むき出しのものだった。
『――キキキ……邪魔ヲ、スルナ……』
『――ワタシノ……ワタシノ演奏ヲ……聴ケぇぇッ!』
怪異が振り向く。
その顔面には目も鼻もなく、ただ巨大な「耳」だけが不気味に蠢いていた。
生徒たちの精気を吸い上げ、怨念を取り込んで急成長した中級怪異――『琴鬼』だ。
琴鬼が骨の指で鍵盤を強く叩きつけると同時に、衝撃波のような不協和音の刃が春人に向かって放たれた。
「くっ……!」
春人は反射的に横へ跳んだ。
直後、先ほどまで春人が立っていた入り口の壁が、目に見えない刃で切り刻まれたように激しく崩落する。
(黒崎さんの教えを思い出せ……! 相手の殺意の軌道を見極めろ!)
着地と同時に霊眼を限界まで見開く。
琴鬼が繰り出す音波の攻撃は、目には見えない。だが、霊眼を通せば空間を歪める「空気の揺らぎ」として鮮明に捉えることができた。
迫り来る三本の音波の刃。
春人は最小限の体捌きでそれを紙一重でかわし、一気に敵の懐へと肉薄する。
「そこだっ!」
懐から取り出した二枚の『退魔札』に霊力を込め、琴鬼の胸元へ向かって叩きつける。
「破ッ!」
『ギャアアアアッ!?』
蒼い光が琴鬼の胸を焼き、怪異が大きく体勢を崩した。
だが、長年蓄積された怨念の肉体は頑丈で、これだけでは倒し切れない。琴鬼は狂乱し、背中の触手を槍のように伸ばして春人を突きたてようとする。
(目で見ようとするな。心で聴け……敵の真名を!)
かつて牛鬼戦で白夜が言った言葉が、脳裏に強く蘇る。
春人は迫り来る触手の恐怖をねじ伏せ、絶叫するように胸の奥の界鈴を鳴らした。
キィィィン――ッ!
澄み渡る金属音が室内に満ちた瞬間、琴鬼の全身を覆っていた黒い瘴気のヴェールが剥がれ落ち、その核に刻まれた文字が鮮明に浮かび上がった。
――『狂騒の残響・鳴り響く琴鬼』
「見えた……!」
春人は左手で界鈴を高く掲げ、全身の霊力を声に乗せて叫んだ。
「我が血脈と鈴の音に誓う! ――『狂騒の残響・鳴り響く琴鬼』よ、その仮初めの形を解き放て!!」
ドォンッ!
真名を暴かれた琴鬼の体が内側から光り輝き、叫び声を上げる暇もなく崩壊していく。
グランドピアノの鍵盤がガラガラと音を立てて砕け散り、部屋を満たしていた濃密な瘴気が一瞬にして浄化されていった。
「はぁ……はぁ……つ、倒した……のか」
額の汗を拭い、膝に手を突く春人。
特訓の成果は嘘をつかなかった。
中級怪異相手に、一人で完全に勝利を収めたのだ。確かな手応えと自信が、身体の底から湧き上がってくる。
――だが、その勝利の余韻は唐突に打ち破られた。
「へえ……未登録の境界守様が、お見事な手際だね」
パチ、パチ、パチ。
嘲るような拍手の音が、誰もいないはずの廊下から響いた。
春人が弾かれたように振り返ると、そこには漆黒のスーツに身を包んだ一人の男が立っていた。
その胸元には、精巧なゴールドのバイザーを模した――『境界庁』のエンブレムが光っている。
「……誰だ?」
「君たちのような違法な能力者を監視・管理する者だよ。神代春人くん」
男は冷たい笑みを浮かべ、胸ポケットから警察手帳に似た黒いIDカードを提示した。
「政府直属・特別怪異対策庁、第三特務課所属。……君を『未登録の危険分子』として保護、ならびに拘束させてもらう」
冷ややかに告げられたその言葉に、旧校舎の空気が再び凍りついた。




