第9話 境界庁の影
突如として現れたスーツ姿の男が放つ威圧感は、先ほど討伐した琴鬼の妖気とは全く種類の異なるものだった。
無機質で、冷徹で、一切の情を挟まない。
徹底して管理された『組織の力』。
男の胸元で光るエンブレムは、かつて黒崎玄馬が所属していた政府直属の組織『境界庁(特別怪異対策庁)』の標章だった。
「……拘束、だと?」
春人は疲れの残る体に鞭打ち、構えを崩さずに男を睨みつけた。
男は薄い唇に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「そう身構えないでほしいな。僕たちは別に君の命を奪いに来たわけじゃない。ただ、許可なく霊眼を開き、怪異を討伐する野良の『境界守』を放置しておくわけにはいかないんだよ。この国の秩序を守るためにね」
「秩序……? 学校の生徒たちが精気を吸い取られてたんだぞ! 放置してたらどうなってたか――」
「だからこそ、僕たち境界庁が管理するべき案件だった」
男の言葉は淡々としており、どこか機械的ですらあった。
「君のような素人が首を突っ込めば、境界の歪みを無駄に広げることになる。……さあ、大人しくついて来てもらうよ。神代春人くん。君の血脈と『界鈴』は、我が庁の厳重な管理下におく」
男が胸元から黒い金属製の手錠のような道具を取り出した、その瞬間――。
「――相変わらず、犬の臭いがきつくて鼻が曲がりそうだぜ」
どっ、と重厚な足音が響き、崩れかけた音楽室の扉の向こうから影が一つ踏み込んできた。
二刀を腰に差し、煙草の煙を吐き出しながら現れたのは、黒崎玄馬だった。
「黒崎さん……!?」
「よう、坊主。なかなかいい手際だったじゃねえか。特訓の成果は出たみたいだな」
玄馬は春人の前に立ち、庇うようにして境界庁の男と対峙した。
その三白眼には、明らかな敵意と蔑みが宿っている。
「……ほう。誰かと思えば、元第三特務課の『裏切り者』、黒崎玄馬か」
スーツの男は眉ひとつ動かさず、冷ややかな視線を玄馬に向けた。
「落ちぶれたものだな。かつてのエージェントが、いまや未登録の子供のお守りとは」
「ハッ、お前らみたいな上のイエスマンに飼われるよりは、よっぽど風通しがよくてね。……おい、境界庁の狗。この坊主は俺の預かりだ。手出しするなら、容赦なく斬るぞ」
玄馬が右手の刀の柄に手をかけると、空気がビリビリと肌を刺すような緊張感に包まれた。
実戦を知り尽くした元エージェントの殺気が、狭い音楽室の中に満ちていく。
だが、スーツの男は焦る様子もなく、淡々と懐の通信機に手を当てた。
「……なるほど。元同僚と刃を交えるのは本意ではないが、違法分子の保護と抵抗者の排除は規定通りだ。バックアップを呼ぶとしよう」
「チッ、相変わらず手回しだけは早いな……!」
玄馬が苦々しく舌打ちした、その時だった。
『――ふふ、騒々しいわね』
音楽室の窓から、ふわりと軽やかに舞い降りる白い影があった。
銀髪と九つの尾を夜風になびかせる白夜だった。
「白夜……!」
「玄馬、ここで境界庁の連中と大立ち回りを演じるのは得策じゃないわ。裏の怪異どもだけでなく、表の組織にまで目をつけられたら身動きが取れなくなる」
白夜はフッと艶やかに微笑むと、白い着物の袖を大きく一振した。
「引き揚げるわよ!」
一瞬にして、部屋全体を濃密な白い霧が包み込む。
視界が完全に遮られ、境界庁の男の制止の声が霧の向こうへと遠ざかっていく。
「くっ……妖術か!」
「坊主、脱出するぞ! 走れ!」
玄馬に腕を引かれ、春人は白夜の生み出した霧の中へと飛び込んだ。
◇◇◇
数分後。
夜の冷気が心地よい、神代家の庭へと無事に転移を完了していた。
「なんだったんだ、あいつは……」
春人は庭の芝生に崩れ落ち、激しい疲労感とともに天井を見上げた。
怪異との戦いだけでも手一杯だというのに、今度は政府の機関まで敵に回りかねない状況になってしまった。
「言ったろ、坊主。境界庁ってのは、妖怪を倒すことよりも『境界守の血脈や力を管理・統制すること』を最優先にする連中だ」
玄馬が苦々しい表情で煙草を揉み消す。
「お前が『界鈴』を持ち、霊眼を開いた以上、あいつらは間違いなくお前を拘束しに来る。お前の存在そのものが、あいつらの作った『管理システム』のイレギュラーだからな」
「そんな……じゃあ、俺はどうすれば……」
「決まっているでしょう」
白夜が静かに歩み寄り、春人の前に屈み込んでその瞳を覗き込んだ。黄金色の瞳には、力強い光が宿っている。
「強くなるのよ、春人。妖怪からも、境界庁の追っ手からも、誰も文句を言わせないくらいにね。お前はただの高校生じゃない。現世と幽界の均衡を護る、最後の『境界守』なのだから」
その言葉が、疲弊した春人の胸の奥にゆっくりと染み渡っていく。
退けられた中級怪異、学園で待つ心愛の顔、そして立ちはだかる境界庁という巨大な壁。
春人はポケットの中の界鈴を強く握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
「……ああ。逃げてばっかりじゃ、何も守れないもんな。……黒崎さん、境界守って俺以外にもいるのか?」
「いねえよ。あいつらなんか言ってたのか?」
黒崎は寒い顔をして、深くタバコを吸い込んだ。
「境界守りを管理するって、他にもいるのかと思ったんだ」
「……神代の血を引く本物の『境界守』はもうお前だけだ。……あいつらが言う管理っていうのは、組織にいる他の能力者を指しているんだ。『野良』ってのはな、境界庁の管理下にない無許可の能力者全員を指す蔑称だよ。奴らに言わせりゃ、歴史あるお前の家系だろうが『登録してないなら野良犬と同じ』ってわけだ」
「そうか、それじゃ俺たちはあいつらとは違う本物にならなきゃいけないんだな」
茜色の空の下、少年は自らの宿命と、これから訪れるさらなる激闘に向けて、改めて静かな誓いを立てたのだった。




