第10話 黒板の前の密約、教室の裏の化かし合い
昨夜の激闘と境界庁との対峙から一夜が明けた。
私立明照学園2年B組の教室は、いつもと変わらない朝の賑やかさに包まれている。
朝のショートホームルーム前、春人は自分の席で深く溜息をつき、顎を手に乗せて窓の外を眺めていた。
(境界庁……『野良』を管理する政府の機関、か)
昨夜、黒崎と白夜のおかげでなんとか撤退できたものの、事態が解決したわけではない。
ポケットの中で手で触れる『界鈴』の感触だけが、あの夜の冷たさを鮮明に思い出させる。
春人は前方の席に目を遣った。
ボブカットの髪を気にしながら時折チラチラとこちらを振り返ってくる三雲心愛と目が合い、彼女は小さく口パクで「大丈夫?」と合図を送ってきた。
「……大丈夫なわけ、ないだろ」
春人がぽそりと呟いたその時、教室の前扉がガラリと開いた。
「はい、みんない着席してー。今日は連絡事項がふたつあります」
担任のベテラン教師が入ってくると、ガヤガヤとしていた教室が一瞬で静まり返った。
「まずひとつ目。実は今日から、ウチのクラスに副担任として新しい先生が赴任することになった。神楽坂先生だ。入ってきてください」
促されて教室に入ってきた人物を目にした瞬間、春人の心臓が跳ね上がった。
そこに立っていたのは、細身の仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、爽やかな笑みを浮かべた背の高い男だった。
そう昨夜、旧校舎の音楽室で冷ややかに手錠を取り出した、あの境界庁のエージェント。
「みなさん、はじめまして。今日から副担任としてみなさんの進路指導や生活面をサポートすることになりました、神楽坂レイジです。よろしくね」
爽やかな声と整った容姿に、女子生徒たちから「かっこいい!」「若っ!」と歓声が上がる。
神楽坂は満足そうに微笑みながら教室を見渡すと、まっすぐに春人と視線を交錯させた。
その瞳の奥にある絶対的な冷徹さは、昨夜のそれと全く変わっていなかった。
(なんで……!? なんで境界庁の奴が学校の教師になってんだよ……!)
春人が背中に嫌な汗を流していると、神楽坂はスッと人差し指を口元に当て、春人にだけ伝わるように小さく笑みを深めた。
「さて、神楽坂先生の紹介はこれくらいにして……もう一つの連絡だ。実は今日、一人転校生がきている」
「ええっ、転校生も!?」
「今日すごいな!」
教室が再びざわめく中、神楽坂はどこか含みのある笑顔で扉へと向かって声をかけた。
「どうぞ、入ってきてください」
ゆっくりと開いた扉の隙間から、一人の少女が足を踏み入れてきた。
その瞬間、教室中の時間が止まったかのような静寂が訪れる。
明照学園の指定制服を完璧に着こなした、息をのむほど美しい腰まで伸びた艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。そして、すべてを見透かすような神秘的な黄金色の瞳。
「初めまして。今日からこちらのクラスにお世話になります、神城白夜と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
凛とした声が教室に響き渡る。
春人は目を見開き、開いた口が塞がらなかった。
(ば、白夜ぁぁぁぁぁっ!?)
「ま、マジかよ……超絶美少女じゃん……!」
「転校生、すごすぎるんだけど……!」
「どこの国のこ?」
男子生徒たちの興奮した声が一気に爆発する中、白夜は教壇の上からスッと春人へ視線を送ると、フッと妖艶に微笑んでみせた。
「先生、私の席はどこかしら?」
「ああ、白夜さんの席は……そうですね、神代くんの隣の席が空いていますから、あそこに座ってください」
担任が事もなげに指示を出す。
白夜は優雅な取り立てで春人の隣の席へと歩み寄り、制服のスカートをふわりとなびかせて着席した。
「……白夜、お前なにやって」
春人が極限まで声を潜めて問い詰めると、白夜は前を向いたまま、可憐な笑みを崩さずに小声で返してきた。
「当たり前でしょう? 境界庁の狐……じゃなかった、狗が学校に潜入したのを察知したのよ。お前が一人で手籠めにされたら困るでしょう?」
「手籠めって言い方やめろ。ていうか、どうやって学校の手続き通したんだよ!」
「九尾の術式を舐めないでちょうだい。戸籍の書き換えなんて造作もないわ」
「さらっと犯罪自白するな!」
二人の小声の密談を、離れた席から鬼の首を取ったような目で見つめている人物がいた。
三雲心愛だ。
彼女はノートに猛烈な勢いで『誰あの色気出してる美少女!?』と書き殴り、春人に向けて目力で圧をかけてきている。
一方、教壇の上に立つ神楽坂は、黒板に名前を書きながら冷ややかな視線を二人に送っていた。
(一般人を巻き込まないための潜伏……だが、向こうも大妖・九尾の狐を護衛につけてきたか)
神楽坂はチョークを置くと、爽やかな教師の笑みに戻って春人を指さした。
「神代くん。転校生の白夜さんはまだ学校の施設に詳しくないだろうから、今日の放課後、君が校内を案内してあげてね。……ついでに、君から面談をしよう。僕と『進路』について少しじっくり話をしようか」
それは、一般人の生徒たちの前で断ることを許さない、完璧なチェックメイトの通告だった。
「……はい。分かりました、神楽坂先生」
春人は奥歯を噛み締めながら、低く返事をした。
放課後の校内案内という名目の、境界庁との化かし合い。
そして、隣で意気揚々と制服を着こなす九尾の狐と、後ろから鋭い視線を送る新聞部員。
平穏だったはずの春人の学校生活は、かつてないカオスと緊迫感に包まれたまま、運命の放課後へと動き出そうとしていた。




