第6話 境界守の初陣、そして
チリィン――ッ!
澄み渡る銀の鈴の音が、旧校舎の凍てついた静寂を切り裂いた。
それは恐怖を断ち切り、境界守最後の継承者としてこの世界に立つための、魂を奮い立たせるための最初の合図だった。
「来るぞ……!」
春人は低い姿勢で身構え、指の間に挟んだ『退魔札』にぐっと魔力を込める。
これまでの自分なら、この不気味な群れを目の前にして腰を抜かしていただろう。
だが、白夜との過酷な体捌きの訓練と、黒崎玄馬から叩き込まれた実戦の理屈――そのすべてが、今の春人の肉体と精神に確かな芯を通していた。
『――グ……ガァアアッ……!』
廊下を埋め尽くす無数の黒い異形たちが、一斉に牙を剥いて飛びかかってくる。
狙いは最前線に立つ春人、そしてその背後に庇う三雲心愛だ。一歩も引くことは許されない。
「見えた……!」
霊眼を全開にした春人の視界の中で、群れの動きがまるでスローモーションのように引き延ばされる。
無数の影が織りなす妖気の渦の中から、個々の怪異が持つ核。その急所となる歪みの点が鮮明に浮かび上がった。
春人は左足を軸にして体を鋭く回転させ、右手を一閃する。
「破ッ!」
ビシィッ! と乾いた破裂音とともに、放たれた退魔札が蒼白の軌跡を描いて最前列の異形の胴体を貫いた。
『ギェアアアアッ……!』
人間の耳には届かない魂の絶叫を残し、その影は光の粒子となって霧散していく。
しかし、減るどころか残りの異形たちの殺意がさらに跳ね上がり、四方八方から襲いかかってきた。
「甘い……!」
春人は慌てず騒がず、黒崎から教わった「相手の殺意の波をいなす動き」を思い出す。
あえて敵の突進の勢いを利用し、身を翻してその懐へ滑り込む。懐からもう一枚の護符を取り出し、間髪入れずに叩き込んだ。
「浄、滅……!」
連撃。蒼い閃光が旧校舎の薄闇を次々と照らし出し、這い回る怪異たちを根こそぎ打ち払っていく。
バタバタと消滅していく異形の群れは、まるで夜霧が朝日に溶けるように、わずか数秒の間に跡形もなく消え去ってしまった。
やがて、廊下に静けさが戻る。
春人は荒い息を吐きながら、両手に構えていた札を下ろし、膝をつきかけた体をどうにか踏み留めた。
「はぁ、はぁ……っ……」
全神経を集中させた反動で、頭がガンガンと痛む。だが、足の震えはもうなかった。
しっかりと地に足をつけ、自分がこの旧校舎の安全を守り切ったという実感が、胸の内で熱い達成感に変わる。
「……神代くん?」
背後から、震えるような小さな声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは壁に背中を預け、目と耳を両手で必死に塞いでいた三雲だった。
彼女は恐る恐る指の隙間から周囲を見渡し、信じられないものを見るような目で春人を見つめている。
「いまの……なに? 私はいったい、何を見てたの……?」
霊感のない一般人である心愛には、異形の姿そのものは見えていなかったはずだ。
だが、先ほどの凄まじい気圧や冷気、そして春人が何もない空間に向かって戦っていた異様な光景は、彼女の網膜と恐怖心にしっかりと焼き付いていた。
「あーいや、その……」
春人は慌ててポケットに界鈴をしまい込み、誤魔化そうと言葉を探す。
しかし、ここで適当な嘘をついてごまかせるほど、心愛は鈍くなかった。
「嘘はなしだよ、神代くん」
三雲はゆっくりと立ち上がり、震えながらもまっすぐに春人の目を捉えた。
そのボブカットの髪がわずかに揺れ、瞳には涙ではなく、強い光が宿っていた。
「この前からずっと変だった。商店街のことも、今日のことも……。あなたが何か、すごく危なくて、でも重要なことに巻き込まれてるって分るの。私を子ども扱いして隠そうとしないで」
その真っ直ぐな言葉に、春人は息を呑んだ。
遠ざけようとすればするほど、彼女は一歩踏み込んでくる。それは危険なことだ。彼女をこれ以上、裏世界の争いに巻き込むわけにはいかない。
だが同時に、独りきりで重荷を背負っていたはずの自分の世界に、こうして体当たりで向き合ってくれる存在が、どれほど心強いかも痛いほど分かってしまった。
「……話すよ」
春人は小さく息を吐き、覚悟を決めたように三雲を見据えた。
「全部、話すから。だから――これ以上、一人で勝手に首を突っ込むなよ」
「……うん。約束する」
夕闇に包まれつつある旧校舎の廊下で、二人は小さく頷き合った。
「それと、これを新聞に書いてはダメだ。その約束を守ること」
「……それは。善処するとしか」
えへへといつもと同じ笑顔を見せた三雲に、春人は少し安堵していた。
それは、春人にとっての「日常」と「非日常」の境界線が、少しだけ書き換わった瞬間だった。
だが、彼らはまだ知らなかった。
この学園の影に潜む異変は、まだほんの始まりに過ぎないということを――。




