第4.5話 牙を研ぐ日々
秋の夜気は冷たく、神代家の裏庭に降り積もる木の葉をカサリと揺らした。
人工の照明などない闇の中、月光だけが頼りの空間で、春人は荒い息を吐きながら両足を大きく踏み締めていた。
「――隙だらけよ、春人!」
冷涼な声とともに、銀色の閃光が視界の端をかすめた。
反射的に体を捻ったが、次の瞬間、衝撃的な冷たさが春人の左肩を打ち据える。
「ぐっ……!」
バランスを崩して地面に膝をついた春人の鼻先に、ひらりと舞い降りた白夜の白い着物の裾が触れた。
彼女はため息まじりに呆れたような視線を向けてくる。
九つの尾が、夜風の中で優雅に、しかしどこか苛立ちを孕んだように揺れていた。
「これじゃあ、牛鬼どころか、雑魚の口裂け女にも返り討ちに遭うわね。お前の身体はまだ『境界守』の器に馴染みきっていないわ」
「……言われなくても、分かってるよ……!」
春人は歯をくいしばりながら立ち上がった。
牛鬼を退けてからというもの、春人は学校の授業の合間を縫い、放課後には白夜と、そして夜には元境界庁のエージェントである黒崎玄馬の元で、文字通り死に物狂いの特訓を重ねていた。
『界鈴』の音色に自分の精神を同調させ、霊眼を通じて流れ込んでくる膨大な情報の処理速度を極限まで引き上げる。
頭では分かっていても、実戦の極限状態ではわずかな迷いが命取りになることを、牛鬼の戦いが痛いほど感じていたからだ。
「おい、坊主。いつまでそこでヒロインの尻に敷かれてやがる」
庭の隅、古い木製の縁側に腰掛け、煙草の煙をくゆらせていた玄馬が低く笑った。
その三白眼が、鋭く春人を射抜く。
「妖怪との戦いってのはな、スポーツじゃねえんだよ。相手の殺意を真っ向から受け止め、その流れを自分の力に変換する。……お前の爺さんから教わらなかったか? 『視るな、感じろ。そして理を断て』ってな」
「じいちゃんはそこまでカッコいい言い方しなかったぞ……!」
「はっ、あいつらしいぜ。だが、言ってる意味は分かるはずだ。お前のその『霊眼』は、ただ敵の形を映す鏡じゃねえ。この世界と幽界を繋ぐ理のほころびそのものを見抜くための目だ」
玄馬が立ち上がり、腰の二刀の柄に手をかけた。
ガキン。
金属が擦れ合う鈍い音が静まり返った庭に響く。
「ほら、口を動かしてる暇があるなら体を動かせ。今夜は俺が相手だ。容赦なく斬りに行くから、死にたくなければその『界鈴』で俺の刀の妖気を弾き返してみな」
「……マジかよ」
冷や汗が背中を伝う。
だが、春人は逃げなかった。
ポケットの中で、ひんやりとした『界鈴』を強く握りしめる。
昨日までの、ただ流されるように生きていた高校生の自分はもういない。
この町を守るために、そして自分の意志でこの世界に立つために、強くならなければならない。
「いつでも来いよ、黒崎さん!」
春人は低い姿勢で身構え、自らの意識を研ぎ澄ませていく。
チリィン――。
誰が鳴らしたわけでもないのに、春人の胸の内で界鈴が澄んだ音を響かせた。
夜の闇の中で、少年が牙を研ぎ澄ます戦いは、朝が訪れるまで果てしなく続いていったのだった。




