第4話 試練の始まり
牛鬼が消え去ったアスファルトの上には、ただ冷たい夜風だけが吹き抜けていた。
荒い息を整えながら立ち上がった春人の耳に、パチパチパチと軽快な拍手の音が届く。
「お見事、お見事。まさか初陣の相手にあの牛鬼を選ぶなんて、さすがは境界守の末裔ね」
闇の中からひらりと舞い降りたのは白夜だった。
その黄金色の瞳には、どこか感心したような、それでいて愛おしむような光が宿っている。
「白夜…… 」
からかうような笑みを浮かべつつも、白夜は春人の近くに歩み寄ると、ひんやりとした手で彼の額に滲んだ汗をそっと拭った。
その仕草はどこか母親のようでもあり、守護者のそれでもあった。
春人は少し気恥ずかしさを覚えて顔を逸らす。
「ふん、相変わらずいい気なもんだな、白狐の姉ちゃん」
黒崎玄馬が二刀を鞘に納めながら、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「こっちは死線をくぐってきたってのに、のんびり観戦とはいい身分だ」
「あら、黒崎。あなたこそ、あの程度の牛鬼相手に少し手こずっていたんじゃないかしら? 老けた証拠よ」
「はっ、冗談言うな。俺の二刀流の冴えはまだまだ現役だぜ」
軽口を叩き合う二人を見ながら、春人はふぅと大きく息を吐き出した。
戦闘の緊張感が急速に薄れ、代わりに全身を襲ってきたのは猛烈な疲労感だった。
足の力が抜け、その場にへたり込みそうになる。
「おい、大丈夫か、坊主」
「……なんとか。でも、足がもう限界です」
玄馬が肩を貸そうと歩み寄ってきたその時、夜の静寂を切り裂くように、パトカーのサイレンの音が遠くから近づいてきた。
ウー、ウー、と甲高い赤い回転灯の光が、住宅街の路地を照らし出す。
「……っ、境界庁の狗どもか!」
玄馬の表情が険しくなる。
現場の異変(霊的波紋)を察知した政府の特別怪異対策庁が、討伐あるいは証拠隠滅のために動き出したのだ。
建物の破壊もかなりあった、騒ぎになるのも仕方ない。
警察の姿を借りて動く彼らに見つかれば、春人は「保護」という名の身柄拘束――あるいは危険分子としての処分を受けることになる。
「ここはいささか分が悪いわね。退くわよ、二人とも」
「だな。これ以上あいつらに面倒な姿を見せる必要はない」
白夜が手を軽く振ると、その場に薄く白い霧が立ち込めた。
玄馬が春人の肩を掴み、その霧の中へと押し込む。
「いっとくが、坊主。今回の件で、お前はもう『一般人』には戻れねえ。覚悟はいいな?」
「……分かってますよ」
春人がそう呟いた瞬間、視界が真っ白な光に包まれ、次の瞬間には静まり返った神代家の縁側に立っていた。
サイレンの音は遠ざかり、そこにあるのはいつもの古びた庭と、夜風に揺れる木々の音だけだった。
◇◇◇
翌日。私立明照学園。
「――でさ! 昨日、商店街の裏ですごい地響きがして、空が変な紫色になったの知ってる!?」
昼休みの教室。
三雲は自分の席から春人の机へと身を乗り出し、興奮気味にまくし立てていた。
ボブカットの髪を揺らし、その瞳はオタク特有の輝きに満ちている。
昨日の牛鬼襲来の余波を、彼女の『特ダネレーダー』はしっかりとキャッチしていたらしい。
「い、いや、知らねえよ……。家でテレビ見てたし」
「絶対嘘だ! 神代くん、最近絶対何か隠してるでしょ! 昨日の夕方だって、急いで走っていったのを見た人がいるんだから!」
「……気のせいだろ」
しらばっくれる春人に、三雲は不満げに頬を膨らませた。
しかし、その表情はすぐに真剣なものへと変わる。
彼女は周囲をチラリと見渡し、声を少し潜めたね。
「ねえ、神代くん……最近、この町変なのよ。私の周りだけじゃない。ネットのオカルト掲示板でも、『妖怪を見た』とか『神隠しに遭いかけた』って書き込みが急増してるの。これって、もしかして……本当に何かが始まってるんじゃないかな」
三雲の勘の良さは時々恐ろしいほど鋭い。
一般人でありながら、世界の裏側で起きている異変の核心に、彼女は少しずつ近づいていた。春人は返事に窮し、ただ窓の外の青空に目をやった。
(このままじゃ、またいつか本当に危ない目に遭うかもしれない……)
妖怪の存在、そして境界の崩壊。
それは春人だけの問題ではなく、この町に生きるすべての人間に関わる問題だった。
「……三雲」
「ん? なに?」
「あまり、危ない場所には近づくなよ。夜遅くに出歩いたりもしないことだ」
「……なんか、お母さんみたいなこと言うね。でも、心配してくれてるの?」
「……まあな」
照れくさそうに視線をそらす春人を見て、三雲はふふっと嬉しそうに笑った。
「ありがと。でも、私はスクープのためならどこへでも行くんだから! ――あ、そうだ!」
何かを思い出したようにパッと手を叩いた時、教室の扉がガラリと開き、担任の教師が入ってきた。
午後の授業の始まりだった。
◇◇◇
放課後。
春人は足早に下校し、神代家へと戻っていた。
居間では、白夜が緑茶を優雅にすすりながら、縁側に差し込む秋の夕陽を眺めていた。
「おかえり、春人」
「ただいま。……で、今日はこれからどうするんだ?」
「フフ、休む暇なんてないわよ。昨日の牛鬼はあくまで『尖兵』。あいつを送り込んだ黒幕――『百鬼連盟』の強硬派や『黄泉教団』の連中が、次の手を考えている頃だわ」
白夜はスッと立ち上がり、その美しい銀髪を揺らした。
その背後で、九つの尾がふわりと優雅に広がる。妖怪としての圧倒的な威厳と、どこか妖艶な美しさが同居していた。
「お前はまだ『界鈴』の力の一部しか引き出せていない。これから毎日、私と黒崎で地獄の特訓よ」
「……地獄って聞こえたんだが」
「聞き間違いじゃないわ。覚悟しなさい、最後の境界守さん」
からかうように微笑む白夜の顔には、確かな信頼と優しさが隠されていた。
春人は小さく息をつき、ポケットの中の『界鈴』にそっと手を触れた。冷たい金属の感触が、不思議と心の底から湧き出る勇気に変わっていく。
人間と妖怪。
決して交わらないはずの二つの世界の境界で、少年は静かに決意を固める。
「……上等だよ。やってやろうじゃねえか」
茜色に染まる空の下、境界守の継承者としての戦いは、今まさに本格的な幕を開けたのだった。




