第3話 牛鬼との戦い
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校舎の裏手に広がる空が、不気味なほどの紫黒色に染まっていく。
それは自然の気象変化などではない。
現実世界を侵食する「幽界」の瘴気が漏れ出している証拠だった。
遠くの空気が歪み、蜃気楼のように景色が揺らめく。
地鳴りのような重低音が、アスファルト伝いに足の裏をビリビリと震わせた。
(……なんだ、これ……っ)
春人は自身の胸元――ポケットの中で冷たく静まり返っているはずの『界鈴』が、まるで生き物のようにドクン、ドクンと脈打つのを感じていた。
冷や汗が背中を伝う。
昨日までの平和な日常なら、こんな現象に直面すれば脳がフリーズしていただろう。
祖父の死。
無数の黒い影。
そして白夜と出会い、口裂け女と対峙した今、春人の五感はかつてないほど研ぎ澄まされていた。
「おい、坊主! ぼさっとしてる暇はないぞ!」
黒崎玄馬が鋭い声を飛ばす。
その手には、抜身の二刀が冷たい月明かりを反射して禍々しく光っていた。
「あいつが来る。この町の結界の綻びを嗅ぎつけて、一番乗りで『獲物』を狩りに来た荒くれだ」
玄馬が顎をしゃくったその先――校舎の向こう、住宅街の屋根を飛び越えるように、巨大な影が跳ねた。
ドスンッ!
重い地響きとともに電柱がへし折れ、アスファルトがひび割れる。
砂煙が舞い散る中、そこに現れたのは、人間の常軌を逸した巨体を誇る異形の怪物だった。
――牛鬼
伝承に語られるその姿は、悍ましいまでの威圧感を放っていた。
体躯は軽自動車をも凌駕するほどに巨大。
頑強な筋肉の鎧をまとった牛の胴体。
爛々と赤く光る凶悪な眼球を持つ鬼の顔が不気味に接続されている。
口元からは不揃いな牙が剥き出しになり、そこから垂れる涎が地面をジリジリと焦がしていた。
纏う妖気だけで、周囲の空気が凍りつくような錯覚に陥る。
『――ククク……臭うぞ。新しい『境界守』の匂いがな……!』
牛鬼が低く地を這うような声を漏らす。
人間の言葉を喋っているのではない。
頭の中に直接、直接的な殺意と飢餓感が流れ込んでくるような感覚だった。
「っ……頭が……!」
春人は思わずこめかみを押さえて膝をつきかけた。
圧倒的な格上の存在が放つ精神的プレッシャー。
これが、妖怪の上位に君臨する者たちの力なのか。
雑魚だと言われた口裂け女とは、やはり次元が違う。
「……おい、坊主」
玄馬が前方を睨み据えたまま低い声で言った。
「あんなデカブツを前にして足がすくむのは当然だ。だがな、妖怪をただの『化け物』だと思うなよ」
「……どういうことだよ、黒崎さん」
「あいつらにはな、人間と同じように『名前』がある。それも、人間が適当につけた名前じゃねえ。幽界が、歴史が、その存在に刻み込んだ本当の名――『真名』だ」
玄馬は腰の二刀に手をかけ、苦い笑みを浮かべた。
「昔の退魔師は、その真名を暴くことで奴らの気脈を断ち、力を削ぎ落として封じてきた。お前の爺さんから、そういう古臭い技も叩き込まれてねえのか?」
「聞いてねえよそんなの……!」
「はっ、まあいい。幸い、お前のその『目』なら見えるはずだ。あいつらの纏う妖気の奥底に、歪んだ文字の澱みがな」
玄馬の言葉に、春人ははっと息を呑む。
ドスンッ!
目前の地面を揺らして牛鬼が巨体を動かす。
「見せてみろ、坊主。あの巨体の奥にある本当の名をな!」
玄馬が叫び、牛鬼へと飛び出していく――。
恐怖で足の腱が縮み上がり、逃げ出したいという本能が脳髄を焼き尽くそうとする。
(ここにいたら殺される。俺はただの高校生だぞ……?)
そんな弱音が頭をよぎる。
だが、その瞬間だった。
胸元の『界鈴』が、まるで春人の恐怖を叱咤するかのように、鋭く澄んだ音を鳴らした。
ちりん。
冷たい銀の響きが、頭の中に渦巻いていた雑音と恐怖を綺麗に切り裂いていく。
脳が急激にクリアになる。
恐怖が消えたわけではない。だが、足の震えがぴたりと止まった。
『……ん? 今の鈴の音は……ガキ、お前が新しい境界守か!』
牛鬼の巨大な赤い目が、すっと春人を捉えた。
殺意の矛先が自分に向くのが分かる。
逃げ場はない。この巨体を前にして、生半可な覚悟では一瞬で挽肉にされるだろう。
「おい、ビビッてる暇はないぜ、神代の坊主!」
ザッ!
音を立てて、庇うように玄馬が春人の前に躍り出た。
その背中は、退魔師としての百戦錬磨の場数を踏んできた者にしか出せない圧倒的な頼もしさに満ちていた。
「あいつは百鬼連盟の尖兵、手加減なしの化け物だ。俺が正面から足を止める。その隙に、お前はあの野郎の名前を探せ!」
「……っ、分かってます!」
春人は歯をくいしばりながら立ち上がっ
昨日の今日で、こんな化け物と命のやり取りをすることになるとは思っていなかった。
だが、ここで逃げれば、自分の後ろにある街も、日常も、すべてがこの怪物の胃袋に消えていく。
「行くぞ……!」
春人は深く息を吸い込み、ポケットから銀色の『界鈴』を取り出した。
鳴らせば、世界が変わり、自分が「そちら側」の人間であることを完全に受け入れることになる。
だが、迷いはもうなかった。
チリィン――!
澄み切った鈴の音が、夕闇の静寂を切り裂いて響き渡った。
瞬間、春人の視界が劇的に変化する。
世界がモノクロームに染まる。
牛鬼の身体から噴き出すドス黒い妖気の流れ、そして肉体の核となるエネルギーの奔流が、まるで立体的な回路のようにくっきりと「視える」ようになった。
――これが、祖父から受け継いだ力。
そして、開眼したばかりの『霊眼』の領域。
『小賢しい真似を……! 人間の分際で調子に乗るなァ!!』
牛鬼が激昂し、巨大な前足を振り上げた。
アスファルトを引き裂きながら放たれた一撃が、凄まじい風圧を伴って玄馬へと叩きつけられる。
「甘いぜ!」
玄馬は怯むことなく二刀をクロスさせ、牛鬼の巨腕を受け止めた。
ガキィイイイッ!
まるで金属同士が激突するような凄まじい衝撃波が周囲に爆ぜる。
玄馬の足元が衝撃で深く沈み込み、アスファルトがクモの巣状に砕け散った。
元エージェントといえど、この巨体の膂力を受け止めるのは容易ではない。顔に脂汗が滲んでいる。
「くっ……! 坊主、さっさとしろよ! 腕が折れちまう!」
「今見てる!」
春人は霊眼を限界まで集中させ、牛鬼の全身を舐めるように見つめた。
通常の見方ではただの硬い装甲にしか見えないその巨体に、澱んだ文字のようなものがうっすらと浮かび上がっているのが見える。
――あれが、妖怪の「真名」の痕跡……!
しかし、上級妖怪である牛鬼の真名は複雑に絡み合い、簡単には読み取れない。幾重にも張り巡らされた呪縛のような文字が、春人の視神経を焼き切らんばかりに痛ませる。
(見えろ……! あいつの本質を、本当の名前を……!)
鼻腔を突くような獣の臭い。玄馬の苦悶の声。
極限のプレッシャーの中、春人の額から冷たい汗が滴り落ち、それが顎から地面へと吸い込まれていく。
時間がない。玄馬の防御が崩れれば、次は自分たちが押しつぶされる。
だが、澱んだ文字の澱みは霧のように揺らめき、どうしても完全な形で見えてこない。圧倒的な格上の存在を前に、春人の脳裏に焦りと絶望がよぎる。
(駄目だ……! 形が崩れて、名前が見えない……っ!)
その時だった。
『――焦る必要はないわ、ひよっこ境界守』
凛とした、どこか冷涼な鈴を転がすような声が、緊縛した空気を切り裂いた。
「っ……!?」
音のした方へ春人が視線を走らせると、崩れかけたビルの屋上――その手すりの上に、ふわりと軽やかに舞い降りる白い影があった。
銀髪をなびかせる白夜だった。その黄金色の瞳が、冷徹なまでの美しさを湛えて牛鬼を見据えている。
「白夜……! なんでここに……!」
「あなたが心配だからに決まってるでしょう? 本当に手のかかる継承者ね」
白夜はフッと艶やかに微笑むと、春人の脳裏に直接響くような強い口調で告げた。
「いいこと、春人! 妖怪という生き物はね、自らの本当の名を他人に暴かれ、声に出して呼ばれることを極度に恐れるわ。名前とは、彼らの存在そのものを縛る『呪い』だから!」
「名前を……呼ぶのか?」
「そうよ! 目だけで読もうとするから見えなくなるの。相手の存在の根っこを『心で聴きなさい』! そして見出した真名を、お前のその声に乗せて叩きつけるのよ! 界鈴の音と一緒にね!」
白夜の言葉が、春人の霧がかった頭をより一層綺麗にクリアにさせていく。
『小賢しい雌狐め……! 蚊帳の外の分際で、調子に乗りおってァ!!』
白夜の乱入に激昂した牛鬼が、凄まじい殺意を込めた巨腕を春人へと振り下ろした。
「くそっ! これ以上は!」
玄馬もすでに二本の足を相手にしており、全ての足の攻撃を防ぐことはできそうになかった。
逃げ場はない。
だが、春人の足の震えはもう止まっていた。
(目で見ようとするな。心で聴くんだ……!)
春人は大きく息を吸い込み、限界まで細めていた瞼をカッと見開いた。そういえば祖父も昔同じ言葉を言っていた気がする。
『目で見ようとするな。心で聴くんだ。あいつらもかつては、この世界に生きる願いを持っていたのだから』
――心で聴く。
春人はふっと息を吐き、瞼を半分に細めた。
ただ敵として見るのをやめ、世界を構築する理の一つとして、目の前の怪異を捉え直す。
瞬間、視界のピントがピタリと合った。
牛鬼の胸の核に刻まれた、歪んだ文字の並びが鮮明に浮かび上がる。
――『丑寅の荒御魂・怨嗟の牛鬼』
「見えた……!」
春人は叫んだ。
『これを使え!』
白夜が投げたのは祖父が遺した『退魔札』。ひとつ取り出し、手に挟む。
霊眼で捉えた真名を、自らの声に乗せて叩きつける。これが、境界守に伝わる最大の秘術――『真名術』。
「『丑寅の荒御魂・怨嗟の牛鬼』よ、その仮初めの形を解き放て!!」
キィィィン……ッ!
春人の手にした界鈴が激しく共鳴し、眩い銀の光の波が放たれた。
その光が牛鬼の体に直撃した瞬間、怪物の動きがピタリと止まる。
『なっ……!? 貴様、なぜ我が真名を……ッ!?』
牛鬼の巨体が激しく震え始めた。
自らの存在を規定する真名を暴かれたことで、その強固な妖気が内側から崩壊していく。形を保てなくなり、黒い霧のように肉体が霧散し始める。
「今だ、黒崎さん!」
「おっしゃあ! 終わりだ、化け物!」
玄馬が地面を蹴り飛ばし、一気に跳躍した。
二刀に全霊の妖力を込め、崩れかけた牛鬼の核めがけて一閃――!
ゴアッ……!
濁った咆哮を残し、牛鬼の巨体は完全に砕け散り、サラサラとした灰のようになって夜空へと消えていった。
静寂が戻る。
周囲の紫黒色の空も、嘘のようにスッと晴れ渡り、いつもの穏やかな夜空が顔を出す。
「はぁ……はぁ……」
春人は膝をつき、荒い息を吐き出した。
全身の力が抜け、立っているのがやっとの状態だった。
だが、その胸の奥には、恐怖を乗り越えた確かな達成感と、これから始まる長い戦いへの覚悟が熱く灯っていた。
「やるじゃねえか、坊主」
玄馬が近づいてきて、乱暴に春人の頭をわしゃわしゃと撫でた。
その顔には、先ほどまでの険しさとは違う、どこか誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「初めての実戦で特級の牛鬼を相手取って生還するとはな。……やっぱり、あのジジイの血筋だぜ」
「……死ぬかと思いましたよ」
苦笑いを浮かべながら、春人は空を見上げる。
街は平和な眠りについており、誰もさっきまでここで何が起きていたかを知らない。しかし、これはまだ始まりにすぎないのだ。
界鈴がちりんとなる。
白夜がこちらを見て笑った気がした




