第2話 口裂け女の噂
夕陽が完全に沈み、夜のとばりが下りた神代家。
その居間に、なぜか見ず知らずの美少女がちょこんと座っていた。
「……で?」
春人はテーブルを挟んだ向かい側に座り、目の前の存在からじっと視線を外せずにいた。
白い着物。頭から生えたふさふさの狐耳。
そして背後で優雅に揺れる、幾重もの巨大な白い尾。
どう見ても人間ではない。
人間ではないが、さっき路地裏で会った『口裂け女』のような禍々しい気配はない。
むしろ、そこはかとなく神聖ですらある。
「冷たいお茶くらい、出すものじゃないのかしら? 人間」
「……ここは俺の家なんだが」
「だからこそよ。家主なら客人を労うのが礼儀というものだわ」
ふわっと姿が消えたかと思うと、すぐに姿を現した。ふん、と鼻を鳴らして白夜は茶碗を手に取った。
いつの間にか冷蔵庫から麦茶を出して淹れていたらしい。
その手際の良さに、春人は突っ込む気力も失くしていた。
「改めまして、白夜よ。見ての通り、五百年ほどを生きる白狐の妖怪。そして――」
白夜は茶碗を置くと、黄金色の瞳をまっすぐに春人へ向けた。
「お前の祖父である源斎とは、古い馴染みよ。彼が亡くなったと聞いて、この町の様子を見に来たのだけれど……まさか、孫であるお前が『界鈴』を受け継いでいるとは思わなかったわね」
「じいちゃんが……お前を知っていたのか?」
「当たり前よ。あの頑固ジジイめ、私が幽界から表界へ来るたびに『勝手な真似をするな』と説教してきたんだから」
どこか懐かしむような、それでいて少し寂しげな響きが白夜の声に混じった。
春人は頭を押さえる。
昨日まで平穏な高校生だった。
それが一晩で妖怪が現れ、祖父の秘密を知り、挙句の果てには狐の妖怪と茶を飲んでいる。
現実逃避したくなるような展開だった。
スマホの画面に映る時間。昨夜からの記憶はすべて現実だと告げていた。
「……じゃあ、昨日の夜に見た化け物、さっきの口裂け女は何なんだ?」
「『現世の歪み』よ。ここ最近、この町のあちこちで結界がほころび始めているの。人間たちの信仰が薄れ、古い神社の手入れが行き届かなくなり、都市開発で霊脈が切り刻まれた結果ね」
白夜はスッと立ち上がり、窓の外の夜空を見上げた。
「結界が弱まれば、幽界の瘴気が表界に漏れ出す。そうすると何が起きるか……人間たちの恐怖や噂、負の感情が妖怪の姿を借りて実体化するのよ。さっきの口裂け女も、ただの都市伝説が『怪異』として形を成しただけの、いわば雑魚にすぎないわ」
「雑魚……あんなのがかよ」
「あれでもまだ可愛い方よ。もっと上の存在が動き出せば、こんな町など一晩で消し飛ぶわ」
さらりと言ってのける白夜に、春人は冷や汗を拭う。
だが、祖父が夢の中で言っていた言葉が脳裏に蘇る。
『境界が壊れ始めている』
あれは幻覚などではなく、警告だったのだ。
「……俺に、どうしろって言うんだ」
「どうもしないわよ。ただ、お前が『界鈴』を鳴らした瞬間から、お前はただの子どもではなくなった。一族の血筋と神器が、お前を『最後の境界守』として選んだのだから」
白夜は春人の肩にふわりと手を置いた。
人間の体温とは違う、どこかひんやりとして、それでいて温かい不思議な感触だった。
「安心しなさい。お前一人にはさせないわ。この私が、右も左も分からないひよっこ境界守を指導してあげる。……もっとも、お礼に美味い油揚げくらいは毎日作ってもらうけれどね」
「……話が勝手に進むな」
深々とため息をつきながらも、春人は否定しなかった。
ここで目を背ければ、きっと大切な何かが壊れてしまう。
そんな予感がしたからだ。
こうして、神代春人の奇妙で慌ただしい非日常の生活が幕を開けたのだった。
◇◇◇
翌日。
私立明照学園の校内は、いつもと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。
廊下を歩く生徒たちの笑い声、遠くから聞こえるチャイムの音。
昨日の今日でなければ、世界が狂ったなどとは夢にも思わないだろう。
(すっかり景色が変わっちまったな……)
春人はポケットに手を入れたまま、重苦しい足取りで教室へと向かっていた。
道中、電柱の陰や植え込みの隙間から、昨日と同じように人間には見えない異形の影がこちらを覗き見しているのが分かる。
だが、鈴の気配をまとっているせいか、昨夜のように直接襲いかかってくる気配はない。
問題は、この異常事態にどう対処するかだ。
「町の外れで怪異の気配が強まっているから調査するわよ」
放課後になったらこい。白夜から言われている。
初めての『現場』。
恐怖がないと言えば嘘になるが、どこか覚悟のようなものが胸の奥に芽生えていた。
「あ、神代くん!」
思考の海から引き戻すように、背後から元気な声が飛んできた。
振り返ると、ローファーの音を響かせながらパタパタと小走りで近づいてくる少女がいた。
私立明照学園・高等部二年、三雲心愛。
ボブカットの髪を揺らし、首には一眼レフカメラを下げる。
学園のちょっとした有名人――いや、問題児だった。
「よお、三雲」
「よおじゃないわよ! ねえ、聞いてよ神代くん!」
心愛は息を切らせながら春人の前に立ち塞がると、スマホの画面を突きつけてきた。
画面に映っているのは、とあるローカルニュースのまとめサイトだ。
『またも発生! 商店街裏手の路地裏で目撃された謎の白昼夢怪談』
『目撃者多数! 耳まで裂けた女が消えた!?』
「これ、昨日だよ! 私がずっと追ってる都市伝説のスクープなんだけど、目撃現場の近くに神代くん、いなかった?」
「……は? なんで俺が」
「だって、昨日あのあたりのコンビニで帰りの君を見かけたって友達が言ってたもん! しかもさ、最近このへんで変な噂が絶えないのよ。夜中に鈴の音が聞こえるとか、黒い影が這いずり回ってるとか……これ絶対、何か裏があるって!」
心愛の目は爛々と輝いていた。
彼女は根っからの都市伝説オタク。
怪奇現象やオカルトの類を見ると血が騒ぐ厄介な性質なのだ。
一般人でありながら、妙な勘と行動力だけは異常に高かった。
「勘違いだろ。そんなの都市伝説の域を出ないよ」
「むー! 神代くんはいつもそうやってロマンがないんだから! いい? 幽霊も妖怪も、科学で解明されていないだけで絶対に存在するの! 私のこの『特ダネレーダー』がびんびん言ってるんだから間違いな――」
「おっと、そこまでだお嬢ちゃん」
その時、不意に割り込む低い声がした。
二人の間に割って入ってきたのは、黒いコートを羽織った長身の男だった。
無精髭を生やし、鋭い三白眼の男――黒崎玄馬。祖父の知り合いでよく顔を合わせた人だ。
「黒崎さん……」
「おや、神代の坊主か。……そこのお嬢ちゃん、ペラペラと表で怪異の噂を喋り散らすもんじゃないぜ。お前の後ろ、すでに厄介なのが一匹お供しているぞ」
玄馬の言葉に、心愛はびくりと肩を震わせた。
「え……な、なにこの人、急に変なこと言って……」
「三雲、ここは俺に任せて先に行ってろ」
「ちょ、神代くん!」
春人は半ば強引に心愛をその場から遠ざけると、玄馬の方へ向き直った。
人目のつかない校舎の裏手に移動した二人は、周囲に誰もいないことを確認してから息を吐いた。
「どうしたんですか、黒崎さん。こんな学校の近くまで来て」
「お前こそ、のんびり学校になんか通ってる場合か? 昨日の夜、お前の家周辺で大きな霊力の波紋が観測された。……『界鈴』を鳴らしたな?」
「……昨日、祖父の遺品を開けたら勝手に」
玄馬は深々とため息をつき、頭を掻いた。
「やれやれ、あのジジイも余計なものを残していきやがった。……だが、事態は一刻を争う。昨日の波紋を嗅ぎつけて、連中が動き出してる」
「連中?」
「あぁ。『境界庁』の連中だ。俺は元・境界庁のエージェントであり、現在はフリーの二刀流退魔師としてこの街の裏側に身を置いててな」
その組織名を聞いた瞬間、春人の脳裏に昨日の祖父の警告と、白夜の言葉が重なった。
「境界庁……政府の組織ですよね。何で俺たちが狙われるんです?」
「あいつらの理念は『妖怪の根絶』だ。表界の秩序を守るためなら、人間だろうが妖怪だろうが、自分たちの都合の悪い存在はすべて排除する。特に、お前のような『境界守の継承者』の存在は、あいつらにとって邪魔でしかないのさ。下手をすれば、お前自身が『危険分子』として処分対象になりかねない」
冷徹な現実が春人の肩に重くのしかかる。
妖怪から身を守るために目覚めた力は、今度は人間であるはずの政府組織からも狙われる理由になってしまったらしい。
「さらに言えば、この『口裂け女』の噂は序章にすぎない。もっと凶悪な大物が、この街に狙いを定めてる」
「大物って……?」
「裏の話だが『牛鬼』が来るって噂だ。幽界の荒くれどもを束ねる厄介なのが、もうすぐこの港町へ上陸する。あいつが現れれば、この街の境界は完全に崩壊するだろうな」
玄馬の言葉が終わるか終わらないか、その時だった。
――ズウン……ッ!
足元が大きく揺れた。
地震ではない。空気が一瞬で重くなり、頭の芯が痺れるような強烈な悪寒が走る。
空を見上げると、夕暮れの茜色は見る見るうちにドス黒い紫色の雲に侵食されていた。
遠くの空から、獣の咆哮のような不気味な地響きが聞こえてくる。
「……まじかよ、もう来やがった」
玄馬が険しい顔で腰の二刀に手をかける。
「おい、坊主! 覚悟はいいか? ぬるい日常は終わりだ。ここから先は、命がいくつあっても足りない本当の戦いだぜ」
春人はポケットに手を突っ込み、その中で静かに光を放つ『界鈴』をぎゅっと握りしめた。
恐怖がないと言えば嘘になる。
だが、昨日の夜とは違う。
自分の足で立ち、自分の意志でこの世界を守らなければならないという熱いものが、胸の奥で確かに燃え上がっていた。
「……分かってますよ。行きますよ、黒崎さん!」
少年は牙を剥く非日常へと、踏み出す。
物語の歯車が、音を立てて狂い始めた瞬間だった。




