【第5話】 使い切れる分だけ
レイノが硬貨を握って入口へ向かったとき、扉の向こうから重い物を引きずる音がした。
食料を買いに出る当ても、売ってくれる相手の心当たりもない。そんな状態で得た最初の売上を、まだ卓上で眺めていたところだった。
扉を開けると、冷たい風とともに木箱が押し込まれてきた。続いて入ってきた女は、濡れた外套の肩を払いもせず、箱の蓋を開ける。
白い乳製品の塊と、土のついた根菜、葉の張った野菜が詰まっていた。
「何人泊められる。食事は一日何食。支払いは今できる?」
挨拶より先に三つの問いが飛んできた。
「二室で少人数です。食事は宿泊客へ一食。支払いはできますが――」
「なら、これを全部買ってほしい」
女は箱を軽く叩いた。
「悪天候で先の売り場へ運べなくなった。乳は日を置けない。野菜も、この湿気で傷ませたくない」
レイノは箱の中を見下ろした。
残置食料では作れなかった、白く濃い乳製品。煮込めば甘みの出そうな根菜。刻めば彩りになる葉物。
温かい煮込み。柔らかな焼き物。朝に胃へ重くない粥。携帯用に固く焼いた薄いパンへ挟む具。
次々と献立が浮かび、口元が緩んだ。
「全部なら、いくらですか」
「先に名前を。私はファナ。麓で食材をまとめてる」
「レイノです。この休憩所を宿として管理しています」
名乗ったファナは、改めて室内を見回した。二つの客室へ続く廊下、狭い厨房、物置の扉。品定めする視線に遠慮はない。
「客は二人まで?」
「今は、それ以上増やしていません」
「保存できる場所は?」
「冷えた物置と、厨房の棚だけです」
「乳は何日で使い切る?」
レイノは答えかけて止まった。
全部買えば、しばらく食卓に困らない。傷む前に料理へ回し、残りを保存食にすればいい。価格を下げてもらえれば、最初の売上でも手が届くかもしれない。
「安くしてもらえるなら、全部――」
「安くすれば、腐らないの?」
ファナの言葉が、浮かれた考えを切った。
レイノは乳製品の表面を確かめ、野菜の量を数え直した。宿泊客は多くない。棚も箱も足りない。能力で食事と寝床を結びつければ、客の休息は良くなる。
だが、未調理の食材が長持ちするわけではない。
全部買えば、数日後には自分が捨てる側になる。
「……無理です」
「何が?」
「全部買うことです。安ければ得だと思いました。でも、使い切れない。あなたが避けたい廃棄を、こっちへ移すだけになる」
豊かな献立が一度遠のき、悔しさに奥歯を噛んだ。それでも、箱を抱え込む方が間違っている。
「使い切れる量だけ、適正な価格で買います」
ファナの眉が寄った。
「それじゃ残りが助からない」
「全部を俺一人へ押しつけたら、次も同じ価格では買えません」
「次があるとは限らない」
「だから、次を潰さない買い方をします」
話している間に、峠を下る旅人が一人、宿泊を求めて入ってきた。二室目へ案内してから、レイノは厨房へ箱を運び、食材を傷み方で分けた。
乳製品と葉物は今夜の食事へ使う。根菜の一部は薄く切って乾かし、残りは火を通して数日持たせる。持ち運びやすい物は、明朝出発する客へ売る品に回せる。
「宿で買うのは、この範囲です。残りは箱を分けてください。傷みやすい物から別の売り先へ回せるように」
「この天気で麓へ戻れと言う?」
「戻ってほしいとは言っていません」
窓の外では、風が雪を横へ流していた。
「今日は正式に泊まってください。宿泊料はいただきます。その代わり、今夜の食事と寝床を出します。残りの食材をどう動かすかは、明朝の天候を見て決める」
ファナは窓と箱を見比べた。
「食材を売りに来て、宿代を払うの?」
「仕入れと宿泊は別です。曖昧にすると、次の取引でどちらかが困ります」
「細かい宿主だね」
「眠れない理由と赤字になる理由は、細かく見ないと残るので」
ファナは鼻から息を抜いた。
「分かった。ただし、買う分の値段は下げない」
「下げてほしいとは言いません。量を減らします」
短い沈黙の後、ファナは箱の中身を分け始めた。
「何人分、何日持たせる?」
「今夜二人分。明日の携帯食を一つ。残りは俺と次の客へ数日分です」
「それなら、この根菜は多い。代わりに乳を少し増やす。葉物は今日中に使うこと」
「分かりました」
二人の手元で、廃棄寸前だった一箱が、今夜食べる物、数日残す物、翌朝売る物へ分かれていった。
夕方には、厨房から乳の甘い香りが立った。
レイノは根菜を柔らかく煮て、乳製品を溶かした。葉物は火を止める直前に加える。量を増やすより、冷えた身体へ負担なく入る濃さに整えた。
宿泊中の旅人は、湯気の向こうから器をのぞき込んだ。
「昨日までと匂いが違うな」
「今日、仕入れました。重すぎるなら残してください」
「残すかどうかは食べてから決める」
向かいでは、ファナが匙を口へ運び、味より先に器の量を見ていた。
「乳を使いすぎてない?」
「一人分を濃くしすぎない方が、客へ毎回出せます」
「分かってるならいい」
食事場所の隅で、灰白色の毛玉が鼻先を上げた。
乳の匂いへ引かれ、短い脚で器へ近づく。レイノが少量だけ別の皿へ移すと、逃げ道を確かめながら口をつけた。
「それ、食料庫へ入る?」
ファナが手を止めた。
「今のところ壁裏と客室です。厨房へ自由に入れるつもりはありません」
「当たり前。食材を荒らすなら、箱を床へ置けない」
毛玉は声に反応して身体を縮めたが、皿からは離れなかった。
旅人が食事を終え、立ち上がる。足を引きずるほどではないが、肩が落ち、瞬きが遅い。
「眠気と身体の重さなら、どちらがつらいですか」
「眠気だ。食べたら一気に来た」
「なら、今夜は寝具を増やしません。身体が沈みすぎないように位置だけ変えます」
旅人が客室へ向かった瞬間、毛玉の耳が動いた。
乳製品の皿には、まだ一口分が残っている。それでも毛玉は鼻先を上げ、客の後を追った。
「食べないの?」
ファナが呟く。
毛玉は振り返らず、客室へ滑り込んだ。寝台の周囲を一度回り、旅人が横になると、寝具の端へ身体を寄せる。
レイノは毛玉ではなく、客の顔色と呼吸を見た。枕の位置を変え、足元の布を少し緩める。
「苦しくありませんか」
「平気だ。さっきより肩が楽だ」
「なら、このままにします」
毛玉は寝具の端で二度向きを変え、ようやく毛を膨らませた。
戸口から見ていたファナは、厨房に残された皿へ視線を戻した。
「食べ物だけが目当てじゃないんだね」
「俺にも、何を感じているかまでは分かりません。ただ、気に入らない寝床なら使いませんし、疲れた客の近くへ行くことがあります」
「それで客の状態が全部分かる?」
「まさか。毛玉が動いたら、俺が確認します」
ファナは小さく頷き、床の食材箱を壁際へ寄せた。毛玉が通れる距離は残しながら、蓋はきっちり閉める。
翌朝、旅人は日の出前に起きた。
寝台から立ち上がり、肩を回してから、卓上に並べた携帯食を手に取る。根菜と乳製品を使い、持ち歩けるよう水分を抑えたものだった。
「これも売り物か」
「はい。宿泊料とは別です」
「一つもらう。昼までに食べられる物が欲しかった」
硬貨が増え、携帯食が一つ減った。
旅人は荷物を背負うと、昨日より軽い足取りで扉へ向かった。毛玉は見送りにも来ず、暖かい寝具の端で丸くなっている。
「愛想はないな」
「客商売をしている自覚はないので」
旅人が笑って出発した後、ファナも客室から現れた。
昨夜より背筋が伸び、濡れていた外套は乾いている。彼女は厨房の棚、分けた食材、卓上の硬貨を順に見た。
「食事になって、売り物にもなった。残りも数日で使い切れる量だね」
「はい。買った分は無駄にしません」
「次も全量は頼まない方がよさそうだ」
「客数と季節を見て、買える量を先に伝えます」
「固定の日程も価格も、まだ決めないよ」
「それで構いません。次に余りそうな物があれば、傷む前に量を教えてください」
ファナはすぐには答えなかった。やがて、自分が分けた空箱を一つ手に取る。
「今回みたいに、使い道と支払いをその場で決められるなら、また持ってくる」
「次は、今日より早く献立を決めます」
「その前に、何人分かを決めて」
「そこからでした」
レイノは棚を見た。
乳製品、根菜、葉物。昨日までの保存食中心の並びに、数日分の色と香りが増えている。今夜も温かい食事を出せる。次の客には、残り物ではなく、疲れ方に合わせて選べる材料がある。
「食卓が増えた」
「客数は増えてない」
「分かっています。でも、作れる一泊は増えました」
声が弾み、レイノは早くも鍋へ視線を向けた。
定期の仕入れではない。薪の当てもない。長く保存する設備もない。
それでも、最初の売上は食材へ変わり、廃棄されるはずだった物は、客を休ませる食事と売れる商品へ変わった。
次は、季節と客数に合わせて無理なく買える条件を作る。
空だった棚を前に考えるのではない。使い切れる食材を前に、次の一泊を考えられるようになっていた。




