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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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【第4話】 最初の宿泊料

 レイノは、残った薪を一本ずつ床へ並べた。


 二室を一晩暖めるなら、長くは持たない。物置の食料も同じだ。客を休ませるたびに減り、代わりに増えるものは何もない。


「無料で泊め続けたら、次に来た人を断ることになる」


 口に出すと、胸の奥に残っていたためらいが、別の形へ変わった。


 料金を取るのは、困っている者を追い返すためではない。次の一泊を用意するためだ。


 レイノは古い板切れを食事を取る場所へ持ち込み、二つの客室を見比べた。寝台、寝具、暖かさ。使える物を一つずつ数え、その横へ金額を書こうとする。


 だが、手が止まった。


 一室目の寝台は古い。二室目は配置を変え、隙間風を塞いだばかりだ。食事も、残置食料で作れる温かいものに限られる。


 寝具一枚にいくら。薪一本にいくら。食事一皿にいくら。


 足していけば補給費は残るが、古い家具ばかりの宿へ払う額としては高く見える。安くすれば、泊めるほど食料と薪が減っていく。


「俺は、何を売るんだ?」


 答えの出ないまま、昼を過ぎた。


 扉を叩く音がしたのは、風が強くなり始めた頃だった。


 入ってきた旅人は、肩へ雪を積もらせていた。靴には泥と凍った雪がこびりつき、荷物を下ろす動きも重い。


「泊まれると聞いた」


「二室だけですが、使えます。温かい食事も出せます」


 レイノが答えると、旅人は客室の奥を見た。古い壁と、使い込まれた寝台。表情には期待より疑いが浮かんでいる。


「いくらだ」


 レイノは準備していた額を告げた。


 旅人の眉が上がった。


「この建物で?」


「寝具は乾いています。部屋も一晩暖かさを保てます。眠れば、疲れもかなり――」


「それは見れば分かるのか」


 言葉に詰まった。


 能力の働きは、寝台の外見には出ない。暖かさは触れれば分かるが、翌朝の身体までは今ここで示せない。


 旅人は腰へ手を当て、短く息を吐いた。


「明日の昼までに峠を下りたい。眠れたら助かる。だが、効くか分からないものへ余分には払えない」


「食事と寝床のほかに、追加の寝具と持ち出し用の保存食も――」


「いらない。それを付けて高くなるなら、今夜は火のそばで座って休む」


 旅人は荷物へ手を伸ばした。


「待ってください」


 レイノは板切れに書いた数字を見た。


 寝具を増やす。保存食を付ける。手持ちの物を並べ、豪華に見せようとしていた。だが、この客が欲しいのは品数ではない。


「寒さと痛みなら、どちらがつらいですか」


「腰だ。あと、眠気が抜けない」


「食事は多い方がいいですか。温かくて、軽い方がいいですか」


「軽い方だ。朝に腹が重いのは困る」


 なら、先にそこを変える。


 レイノは板切れの数字を消した。


「基本料金に、一泊分の暖かい寝床と、消化しやすい温かい食事を含めます。追加の寝具と、持ち出し用の保存食は別です」


 最初より低い額を示す。ただし、食料と薪を使っても、わずかに補給費が残る金額だった。


「翌朝に動けるようにするところまでが、基本です」


「動けなかったら?」


「そのときは、どこが悪かったかを俺が確かめます。ですが、今夜の分を無料にはできません。この宿を続けるために必要な額です」


 旅人はしばらくレイノを見た。


 やがて、硬貨を取り出して卓上へ置く。


「追加はいらない。基本だけだ」


 金属の音が、小さく響いた。


 レイノは硬貨へ目を落とした。受け取ったことのない重さに見えた。


「確かに。客としてお受けします」


 その言葉とともに、整えた客室と、そこへ用意した寝具、今夜使う薪が、一つの宿泊としてつながる感覚があった。


 レイノは厨房で、柔らかく煮た食事を温めた。量を増やすより、冷えた身体へ負担をかけないことを優先する。客は最初こそ少ないと感じたようだったが、湯気へ顔を近づけ、一口食べると黙って匙を進めた。


「足りませんか」


「いや。これ以上だと、すぐ寝られない」


 食べ終えた頃には、客の肩から力が抜けていた。


 レイノが一室目の寝具を整えていると、灰白色の毛が布の間から盛り上がった。


「毛玉。いつ入った」


 毛玉は寝具から顔を出し、レイノを見ると身体を縮めた。すぐに寝台の向こうへ逃げる。


 客が戸口で足を止めた。


「何だ、それは」


「壁裏にいる正体不明の生き物です。捕まえてはいません」


「客の寝床へ入るのか」


「俺も今、それを問題にしているところです」


 料金を受け取った直後だ。レイノが寝具へ手を伸ばすと、毛玉は床へ飛び降り、壁際へ逃げた。


 だが、部屋から出ない。


 客が荷物を置いても、そちらへは近づかなかった。食事の匂いが残る廊下にも向かわず、寝台の下を回って、反対側から再び布の端へ潜り込む。


「ずいぶん図々しい魔獣だな」


「そこは同意します」


 毛玉は前脚だけを出し、寝具を一度蹴った。


 レイノは追い出すのをやめ、客へ向き直る。


「今、一番強いのは腰の痛みですか。それとも眠気ですか」


「眠気だ。立っていると頭が遅れる。腰は横になればましになる」


「なら、先に寝てもらいます。寝具は増やしません。腰が沈みすぎないよう、位置だけ変えます」


 枕元をわずかに直し、食後すぐでも身体を横へ預けやすいよう寝具を整える。部屋の保温は一晩分に限定し、火を使いすぎない。


 毛玉はその間、寝台の端から動かなかった。レイノの手が近づくと毛を縮めるが、壁裏へは逃げない。


「毛玉。客の邪魔はするなよ」


「ぶるる」


「返事だけは立派だな」


 通じてはいない。それでも毛玉は客の足元へ寄り、布の端で身体を丸めかけた。


 客は警戒していたが、追い払う気力も尽きたらしい。


「噛まないなら、そのままでいい」


「嫌ならすぐ呼んでください」


 客が横になると、毛玉は少し場所を移した。荷物へは行かず、呼吸の近くで何度か身体の向きを変える。


 やがて客の息が深くなった。


 レイノは扉の近くに腰を下ろした。毛玉は彼がいることを確かめるように耳を動かしたが、逃げなかった。


 小皿へ、温めた穀物をほんの少しだけ入れる。レイノは寝台から離れた場所へ置き、自分も距離を取った。


 しばらくして、毛玉が身体をほどいた。


 床へ降り、皿の周囲を一周する。鼻先を近づけ、廊下とレイノを交互に見た後、少しだけ口を付けた。


 食べ終えても壁裏へ戻らない。


 毛玉は寝台の端へ戻り、レイノから見える位置で毛を膨らませた。脚も耳も隠れ、灰白色の球になる。


 レイノは客の静かな呼吸を聞きながら、卓上の硬貨を思い出した。


 売ったのは寝台ではない。薪でも、食事一皿でもない。


 食べる順番と量を選び、部屋を暖め、身体に合う寝床へ整える。その全部を組み合わせて、翌朝に進める状態を作る。


 それが一泊の値段だった。


 翌朝、レイノが客室へ向かう前に扉が開いた。


 旅人はすでに荷物をまとめ、外套の留め具を締めていた。前日のような重い動きではない。腰を確かめるように伸ばし、そのまま迷いなく立つ。


「早いですね」


「目が覚めた。まだ暗いと思ったが、頭が動く」


 旅人は荷物の紐を引き、結び目を一度で締めた。


「腰は?」


「残っている。だが歩ける。昨日は、この結び目を二度やり直した」


 レイノは思わず笑った。


「なら、基本料金の範囲には収まったようです」


「自分で言うか」


「そこを確かめる宿なので」


 旅人は鼻で短く笑い、扉へ向かった。外の風を確認してから、振り返る。


「帰りもこの道を通る。部屋が空いていたら、また基本で頼む」


「追加の保存食は?」


「必要ならそのとき買う。最初から付けるな」


「分かりました」


 旅人が雪の道へ出ていく。足取りは速すぎず、遅くもない。昨日のように身体を引きずってはいなかった。


 姿が見えなくなるまで見送った後、レイノは卓上へ戻った。


 硬貨を手のひらへ載せる。


 薪へ変えられる。食料へ変えられる。次の客へ出す温かい一皿と、一晩の火に変えられる。


「売れた」


 指で硬貨を握る。


「俺の宿の一泊が、初めて売れた」


 声が抑えられなかった。


 壁際から小さな耳がのぞく。毛玉はレイノの声に驚いたように身体を縮めたが、完全には隠れなかった。


「悪い。でも、これは喜ばせてくれ」


 硬貨をもう一度見つめ、レイノは板切れへ新しい料金を書き直した。


 暖かい寝床と、軽い温かい食事を含む基本料金。追加の寝具と持ち出し用の保存食は別料金。


 客数は増やさない。二室で確実に提供できる分だけにする。


 最初の売上だけで、食料と薪の問題が消えたわけではない。次に必要なのは、この硬貨を補給へ変えてくれる相手だった。


 それでも昨日までとは違う。


 減るだけだった宿の中に、次の一泊を作るためのものが、初めて残っていた。

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