【第3話】 毛玉が選ばない二室目
ミレナの姿が雪の向こうへ消えると、レイノは物置の戸を開けた。
残置食料は減っている。薪も、二部屋を一晩中暖められるほど余裕があるとは言い難い。それでも、次の客を一室へ押し込め続けるわけにはいかなかった。
「増やすのは客じゃない。使える部屋を、もう一つだ」
食料を増やす方法はまだない。ならば今ある物資で、受け入れられる寝床だけでも確実に増やす。
レイノは二室目から、比較的乾きのよい寝具を選び出した。暖炉の熱を無駄にしないよう扉の開閉を減らし、寝台は見た目の収まりがよい壁際へ寄せる。濡れた外套を掛ける場所と、寝床までの動線も一室目に近づけた。
火を入れてしばらくすると、部屋の冷たさが薄れた。
寝具へ触れれば、表面の湿気もない。身体を預けたときの沈み方も悪くなかった。ただ、客を受け入れていない今は、あの感覚まではない。
「よし。これなら――」
寝具の端が、内側から持ち上がった。
レイノは言葉を止めた。
灰白色の長い毛が、布の隙間からもぞもぞとあふれてくる。短い脚が一本、次にもう一本。最後に小さな耳がのぞき、丸い生き物が寝具の上へ転がり出た。
「……毛玉?」
毛玉は答えず、その場で身体を縮めた。
「そこは今、客用に整えたばかりなんだけどな」
レイノが手を伸ばすと、毛玉は跳ねるように壁際へ逃げた。だが、部屋の外へは出ない。寝台の下を抜け、床を数歩歩き、別の場所で丸くなろうとする。
毛が少し膨らんだかと思うと、すぐ身体へ張りついた。
「ぶるる」
低い音を漏らし、毛玉は寝具へ戻った。前脚だけを毛の外へ出し、布を二度蹴る。
「気に入らないなら、入らなければいいだろ」
もう一度近づくと、毛玉は寝台の向こうへ逃げた。捕まえようと思えば追い込めそうだったが、そのたびに出口から離れ、壁際の狭い隙間へ身を寄せる。
レイノは足を止めた。
外へ逃げたいわけではない。ここへ残りながら、近づかれるのを嫌がっている。
小さく割った携行食の残りを床へ置いてみたが、毛玉は鼻先を向けただけだった。食べ物より、寝台と床を行き来している。
やがて毛玉は扉の隙間を抜け、廊下へ出た。
「待て。そっちは――」
追いかけた先は、実績のある一室だった。その日の午後に休憩所へ入った少数の客が使う寝床の端へ潜り込み、毛玉は呼吸の音を確かめるように身体の向きを変える。
客が身じろぎすると一度毛を縮めたが、逃げはしなかった。寝具の足元で何度か場所を選び、ようやく半分ほど丸くなる。
柔らかい布が欲しいだけなら、二室目でもよかったはずだ。
「部屋を選んでるのか?」
毛玉は耳だけを動かした。
返事ではない。それでも、二室目を完成だと決めたばかりのレイノには、その背中がひどく不満そうに見えた。
胸の奥がざらついた。
乾かした。暖めた。動線もそろえた。見た目には使える状態まで整えた。それなのに、正体不明の毛玉は使わない。
「だったら、もっと――」
二室目へ戻り、寝具へ手を置く。もう少し保温を高める。寝心地を深める。そう意識しかけて、レイノは指を止めた。
前夜も、同じ部屋なら同じように休めると思い込んだ。だがミレナには、寝具と室温だけでは足りなかった。
今度も同じだ。
能力を重ねれば、何が悪いのか分からないまま隠してしまう。
「先に、俺が寝るべきだな」
客へ使わせる前に、自分で確かめる。それができない部屋を、宿泊可能とは呼べない。
レイノは二室目の寝台へ横になった。
最初は悪くなかった。寝具は乾いている。背中も支えられ、火の暖かさも届いている。
だが、しばらく動かずにいると、足元から小さな揺れが伝わってきた。
一定ではない。止まったと思えば、少し遅れてまた震える。身体を起こして床へ手を当てると、古い床板の一部がわずかに浮き、建物のどこかで風を受けるたびに震えを拾っていた。
「これか」
寝台の位置を変えながら横になる。揺れの弱い場所はすぐ見つかった。
今度こそと思った直後、首筋を冷たい空気が撫でた。
寝具の表面は暖かい。だが壁際の隙間から細い冷気が落ち、横になった身体へ沿って流れている。立って確認したときには気づかなかった。見栄えよく壁へ寄せた寝台が、冷気の通り道へ客を置いていたのだ。
レイノは仰向けのまま天井を見た。
「見た目だけ整えて、悪い場所へ寄せたのか」
悔しさに奥歯を噛む。
寝具は確かに暖かくなっている。だが床の揺れは消えていないし、壁の隙間も塞がっていない。
毛玉は原因を教えたわけではない。ただ、落ち着けないと拒んだだけだ。
そこから先を見つけるのは、宿主の仕事だった。
レイノは寝台を、床の振動が弱い場所まで移した。見栄えは少し悪くなるが、眠れない配置よりましだ。壁際の隙間には、使える布と残った詰め物を押し込み、冷気の流れを止める。
材料を足す余裕はない。床そのものを直すこともできない。だから揺れる場所を避け、今ある物で隙間だけを塞ぐ。
作業中、毛玉は廊下の物陰からこちらを見ていた。
レイノが動くたびに毛を縮め、道具を床へ置く音には耳を伏せる。それでも壁裏へ逃げ切らず、手元を追っている。
「捕まえないよ」
意味が通じた様子はない。
ただ、レイノは寝台から離れ、扉までの道を空けた。近づいても追わず、毛玉が自分で選べる距離を残す。
しばらくして、短い脚が物陰から出た。
毛玉は二室目へ入り、床を一周した。寝台の下をのぞき、壁際で鼻先を動かし、寝具の上へ飛び乗る。
一度丸くなり、また起きる。
場所を半歩変え、身体を沈める。
今度は毛がゆっくり膨らんだ。
脚も耳も灰白色の毛へ埋まり、寝具の上に完全な球ができる。
「……丸くなった」
声が弾んだ。
レイノは思わず一歩近づき、毛玉がびくりと縮んだのを見て止まった。
「悪い。近づかない」
毛玉はしばらく動かなかった。やがて、もう一度ゆっくり膨らむ。
その姿を見ていると、胸の奥から笑いがこみ上げた。能力の反応を得たときとは違う。自分が見落とした欠点を見つけ、実際に直した結果が、目の前で形になっている。
だが、これだけで完成にはしない。
その夜、少数の客の一人に事情を説明し、修正した二室目を使ってもらった。食料と薪には余裕がないため、受け入れ人数は増やさない。実績のある一室と二室目へ分けるだけに留めた。
毛玉は客が入ると寝具から降り、壁際へ退いた。人の動きを警戒しながらも、部屋の外までは逃げなかった。
翌朝、二室目の客は呼びかけるまで目を覚まさなかった。
「夜中に寒くなりませんでしたか」
「気づかなかった。床も揺れていたのか? 眠っていたから分からん」
客は肩を回し、寝台から立ち上がる。足元に迷いはなく、壁際を避ける様子もない。
「途中で目は覚めましたか」
「一度も。前より静かに眠れた」
レイノは寝具へ手を置いた。
暖かさは残っている。隙間を塞いだ布も外れていない。寝台を置き直した場所には、不規則な振動がほとんど届いていなかった。
二室目が、実際に客を眠らせた。
「二つだ」
口元が勝手に緩む。
「使える部屋が、二つになった」
能力は設備の仕事を強める。だが、欠点そのものを消してはくれない。暖かい寝具があっても、床が揺れ、冷気が流れ込めば眠れない。
だから先に、眠れる場所を作る必要がある。
人が動き始めると、毛玉は壁裏へ戻った。けれど、レイノが二室目の寝具を整え直している間、完全には姿を消さなかった。
壁の隙間から小さな耳だけがのぞき、手の動きを追っている。
「毛玉。次も気に入らなかったら、蹴る前に教えてくれると助かるんだけどな」
「ぶるる」
不満そうな音だけを残し、耳が引っ込んだ。
通じたとは思えない。それでも、ただの物音や侵入者ではなくなっていた。
レイノは整った二つの寝台を見比べ、それから減った薪と食料へ目を向ける。
寝床は増えた。
だが、泊め続けるための物は増えていない。
次に必要なのは、三室目ではなかった。




