【第2話】 早く届けるための一泊
夕方になっても、二部屋目は冷たいままだった。
レイノは湿った寝具を持ち上げ、諦めて元の位置へ戻した。乾かすには薪が足りない。昨夜使った一室を維持するだけならともかく、火を二つに分ければ、どちらも中途半端になる。
まずは一室。次に客が来たら、前と同じ結果が出るか確かめる。
そう考えた直後、休憩所の扉が勢いよく開いた。
期限付きの荷を抱えた配達人が、雪を蹴るように入ってくる。肩から提げた荷袋を庇いながら扉を閉め、外套の雪を二度払っただけで、もう留め具へ手を伸ばした。
「火を借ります。雪が弱まったら出ます」
言葉は明瞭だったが、足元がわずかに流れていた。荷袋を下ろそうとして金具を一度取り落とし、拾うまでの間に目を細める。
レイノは扉の前へ回った。
「今から峠を下りるつもりですか」
「下りる。止まっている時間はない」
「何を、いつまでに届けるんです」
配達人は警戒するようにレイノを見た。
「期限付きの荷だ。届け先まで、通常なら朝から半日。今夜進めるだけ進めば、遅れを縮められる」
「通常なら、ですね」
「吹雪が弱まった。進める」
「進めても、その足では判断を間違えます」
彼女の目が鋭くなる。
「止める権利があるのか」
「ありません。けど、ここへ入った人を休ませる責任は引き受けています」
「頼んでいない」
「なら、配達を成功させるための提案です」
レイノは戸口から退いた。力ずくで塞ぐ気はないと示したうえで、昨夜使った部屋を指す。
「今夜進めば、暗い雪道で速度を落とす。判断を一つ誤れば、荷まで遅れる。ここで夜明けまで眠って、明るくなってから取り戻す方が早い可能性があります」
「可能性では予定を変えられない」
「何時に出れば間に合いますか」
配達人は少し黙り、頭の中で距離を割り直した。
「夜明け直後。支度に手間取らず出られるなら、まだ取り戻せる」
「荷は湿気と火から離して置きます。留め具を外さず確認できる位置にする。食事と水は寝る前に済ませて、朝は起きたらすぐ動けるようにします」
「朝、動ける保証は」
「保証はできません」
レイノは正直に答えた。
「ただ、昨夜は動けなかった客が、朝には歩いて出ました。同じ部屋を使います。あなたが試すかどうかは、自分で決めてください」
配達人は客室と扉の外を交互に見た。雪は弱まっている。だが空はもう暗く、街道の先は白く霞んでいた。
「……一晩だけだ」
「分かりました。俺はレイノです。ここの管理をしています」
「ミレナ。長距離の配達をしている」
名を告げたミレナは、すぐ荷袋を持ち直した。
「レイノ。荷はどこへ置く」
客と宿主。
それ以上でも以下でもない距離が、名前とともに初めて形になった。
レイノは実績のある一室だけを使った。
寝具の乾きを確かめ、暖炉の火を整え、冷気が這う壁から寝台を離す。荷袋は寝台から手の届く場所へ置いたが、濡れた外套とも火元とも離した。朝は扉までまっすぐ動けるよう、床の荷物も片づける。
「横になってください」
「眠れなくても、夜明けには出る」
「眠れない理由があれば言ってください。寒さ、痛み、音、どれでも」
「細かい宿主だな」
「眠れないまま出られるよりはましです」
ミレナは反論せず、外套を畳んで寝台へ横になった。
ほどなく、部屋の冷気が薄れた。
火勢は変わらない。それでも寝台の足元まで温度が安定し、寝具が身体を支える感触も前夜と同じように整っていく。
来た。
レイノは息を止め、窓際と床を確かめた。別の客にも作用している。偶然ではなかった。
胸の奥から喜びがせり上がったが、寝台のミレナは眉を寄せたままだった。
「寒いですか」
「寒さはましだ」
「なら、痛みは」
「ない。身体が重いだけだ」
呼吸は浅く、眠りへ落ちる寸前で何度も戻っている。前夜の客は、部屋が変わった途端に緊張がほどけた。今回は違う。
レイノは寝具の端を直し、枕代わりの畳んだ布を低くした。足元の温度も確かめる。どれも大きく崩れてはいない。
同じ条件を作ったのに、足りない。
焦りが指先へ出た。寝台をもう少し壁から離すべきか。薪を足すか。布を重ねるか。
「さっきから、同じ所を触っている」
目を閉じたまま、ミレナが言った。
「寝具だけの問題じゃないかもしれません」
「今さらか」
「今、気づきました」
悔しさを飲み込みながら答える。ミレナは薄く目を開けた。
「携行食は食べましたか」
「昼に少し」
「少しって、どれくらいです」
「二口」
「それは食べたうちに入りません」
「止まる時間が惜しかった」
レイノは荷袋の脇に括られた包みを見る。硬い携行食がほとんど残っていた。
前夜は避難者全員で食料を分け、温めたパンと残置食料を口にしてから眠った。今回は客室だけを再現することに気を取られ、客の腹を見ていなかった。
「俺の失敗です」
「宿主が客の食事まで責任を取るのか」
「眠れない理由なら、取ります」
残置食料は多くない。ミレナの携行食を勝手に使うわけにもいかない。
「その携行食を使ってもいいですか。量は増やせませんが、温かくして食べやすくします」
「明日の分は残す」
「全部は使いません。今夜、眠れる分だけです」
ミレナは包みを差し出した。
「夜明けに遅れたら、次は泊まらない」
「その条件で構いません」
硬い携行食を小さく割り、残置食料と合わせて水で煮る。豪華な料理にはできない。だが、冷えたまま噛むより早く口にでき、身体も温まる。
湯気の立つ器を持って戻ると、ミレナは半身を起こした。
「少ないな」
「朝に重く残さない量です」
「多く出せないだけでは」
「それもあります」
言い訳をしなかったことで、ミレナはわずかに口元を動かした。
最初の一口を飲み込み、間を置かず次を運ぶ。温かさが喉を通るたび、強張っていた肩が少しずつ下がった。
食べ終えると、レイノは器を受け取った。
「荷の確認は一度だけにしてください。留め具は外れていません。朝、起きたらすぐ見られます」
「寝ている間に動かすな」
「触りません」
「火を強くしすぎるな。中身は熱に弱い」
「荷から距離を取っています」
必要な確認を終えると、ミレナはようやく横になった。
変化はすぐに現れた。
先ほどまで浅く途切れていた呼吸が、ゆっくり長くなる。腹の力が抜け、寝具へ預けた肩が沈んだ。部屋の暖かさまで一段なじんだように、火から遠い場所の冷えが薄れていく。
レイノは寝具へ触れ、暖炉を見て、空になった器へ目を落とした。
「食事もか」
声が弾んだ。
寝具と室温だけでは足りなかった。客が口にする物、その後に余計な移動をせず眠れる流れまで整って、初めて一泊になる。
思いついた条件が次々と頭に浮かぶ。食べる時刻、量、温度。出発前に何を残すか。
だが、物置を覗けば、残置食料は明らかに減っていた。
成功したからといって、同じことを何人にでもできるわけではない。
レイノは物置の戸を閉めた。
「次は、食料をどうするかだな」
喜びは消えなかった。ただ、その喜びを続けるには、能力とは別の仕事が必要だった。
翌朝、レイノが火を確かめていると、寝台の布が跳ねた。
ミレナは上体を起こし、そのまま迷いなく立ち上がった。昨夜は床へ足を置くたびに重心がぶれていたが、今は踵までまっすぐ力が通っている。
荷袋の前へしゃがみ、留め具を順に確かめる。前夜に取り落とした金具も一度で固定した。
「視界は」
「霞んでいない」
「脚は重くないですか」
ミレナはその場で二度踏み込み、身体をひねって荷の重さを確かめた。
「軽い。少なくとも、昨夜より判断が速い」
窓から外を見て、雪の流れと明るさを読む。次に扉を少し開け、路面を確認してから閉じた。
「下りで速度を上げられる。昨日の遅れを全部取り戻せるとは言わないが、止まった分を無駄にはしない」
レイノの口元が緩んだ。
「本当に違いますよね。食事を入れた後から、部屋の効き方まで変わった。なら、寝具と室温だけじゃなくて――」
「結論は、配達してからだ」
ミレナが短く遮った。
「ここで身体が軽くても、道で保たなければ意味がない」
「その通りです」
興奮のまま成功を決めつけかけていた。レイノは素直にうなずく。
「結果は、まだ分からない」
「分かったら伝える」
ミレナは荷袋を背負った。扉の前で一度だけ振り返る。
「次に泊まるかは、その結果次第だ」
「次も泊められる食料が残っているかは、俺の仕事次第です」
「なら、互いに結果を出すしかないな」
客と宿主の距離は残っている。それでも、昨夜とは違った。レイノの言葉を試す価値があると、ミレナは自分の身体で確かめていた。
扉が開き、朝の冷気が流れ込む。
ミレナは白い峠道へ踏み出した。足取りは速いが、急いで崩れてはいない。荷の揺れを一度確かめると、進む方向を迷わず選び、そのまま下りへ入っていく。
レイノは姿が見えなくなるまで見送った。
配達が間に合ったかは、まだ分からない。能力の条件も、別室で使えるかどうかも分からないままだ。
それでも、一つだけ増えたものがある。
この宿は、凍えた人間を朝まで生かすだけではない。眠り、食べ、判断を取り戻して、仕事へ戻すことができる。
レイノは冷えた廊下へ戻り、使用済みの器と、減った食料を見比べた。
「二部屋目の前に、次の一食かもしれないな」
宿にする仕事は、寝台の上だけでは終わらなかった。




