【第18話】 客室にも休む時間を
「次の客は、明日の夕方から入れます」
レイノがそう告げると、高天井の客室を見ていたセリオは帳簿から顔を上げた。
「前の利用から一日も空きませんが、問題ありませんか」
「寝具と間仕切りは交換します。室温も次の客に合わせる。朝から作業すれば間に合います」
前の大型客のために整えた一室を、使わないまま空けておくのが惜しかった。補強床も可動間仕切りも、安定収益から費用を出して作った設備だ。別の休み方へ対応できる可能性があるなら、空室日を挟まず確かめたい。
翌朝、レイノは大型寝具を外し、脚を伸ばして眠る次の客に合わせて幅の狭い寝床を長く配置した。視線を完全に遮る間仕切りは減らし、明るさを好むという希望に合わせて上部を開ける。
見た目は、前日までとは別の客室になった。
「これならいける」
「見た目はな」
ガルドは床へ膝をつき、外した寝具の裏へ指を当てた。
「まだ湿ってる」
「新しい寝具には替えた」
「床と壁は替えてない」
レイノは返事をしながらも、予定どおり試験客を迎えた。
大きな身体が広い扉をくぐる。前の利用者より細身で、長い荷を肩へかけていた。客は室内を一周し、長い寝床へ目を向けたが、荷を下ろさなかった。
「明るさは悪くない」
「寝床の長さはどうですか」
「足りる。だが、ここは湿っている」
客は鼻先をわずかに動かした。
「別の者の匂いも残っている。身体を伏せれば、もっと強く感じるだろう」
レイノは床へ手をついた。表面は乾いている。だが、顔を近づけると、前の利用者が一晩過ごした熱と湿気が、板の奥へ残っているのが分かった。
「室温と寝心地は、今から合わせられます」
正式に用意した客室と寝床へ意識を向ける。新しい姿勢を受け止め、明るい空間で警戒を解けるよう、宿屋能力を重ねようとした。
寝具の感触は変わった。空気も少し暖かくなった。
それでも、湿った匂いは消えない。
板に含まれた水分も、前の客の熱を抱えた壁も、そのままだった。
客は荷を持ったまま扉へ身体を向けた。
「待つことはできる。だが、この状態で眠るつもりはない」
「別の客室を用意します」
レイノはすぐに答えた。
「今夜はそちらへ。ここは、こちらの都合で急がせました。申し訳ありません」
客が出ていくと、室内には交換したばかりの寝具だけが残った。
使える形へ変えたつもりだった。
実際には、見える物だけを取り替え、客へ続きを試させようとしていた。
「空室を作りたくなかったんだ」
レイノは床から手を離した。
「だから、能力で新しい条件を重ねれば済むと思った」
「済まなかったな」
ガルドは責めるでもなく、湿った床板を指で叩いた。
「なら止めろ。重ねるほど、何が残ってるのか分からなくなる」
「今日から、この部屋への追加は止める」
口にした途端、悔しさが形になった。客を休ませるための能力を、空室を減らすための上塗りに使いかけたのだ。
扉の外から、低い「ぶるる」という音がした。
モフルが室内をのぞいている。レイノが手招きすると、数歩だけ入ってきた。
「モフル。どこが嫌だ?」
寝台を指す。壁際も示す。
モフルは寝台へ近づき、すぐ扉へ戻った。次に壁際へ走り、途中で向きを変える。床、寝具、間仕切りの間を落ち着きなく往復し、灰白色の毛が身体へ張りついていった。
「案内してくれ。見る場所を――」
「やめろ」
ガルドが工具袋を床へ置いた。
金属音を立てないよう、留め具を手で押さえる。モフルへ近づかず、扉までの道を空けた。
「今のこいつは、場所を選べてない。湿気も匂いも温度も混ざってる。入れて探させる状態じゃない」
モフルはレイノの合図へ応じず、扉から外へ飛び出した。廊下の角まで逃げ、そこから身体の半分だけを出してこちらを見る。
「故障の場所は?」
「分からん。こいつにも分かってない」
ガルドは客室の端へ細い板を置き、作業区域と通路を分けた。
「乾くまで入れない。作業音を出す場所にも近づけない。確認は人間がやる」
モフルは低い足取りで板を置いたガルドを見ていた。工具を振るう大きな人間ではなく、逃げ道を残した相手を確かめ直すように、耳だけを毛の間から出している。
午後、セリオは予約表の一行を指で押さえた。
「完全に乾かすなら、次の利用まで少なくとも一日は止める必要があります。条件によっては、さらに延びます」
「その分、特殊客室の稼働率は下がる」
「はい。切り替えのたびに予約を止めれば、料金にも反映が必要です」
レイノは空の客室を見た。
満室は嬉しい。使われない設備は不安になる。だが、今朝の客は、荷を下ろすことさえできなかった。
「何時間までなら売れる部屋になるか、じゃない」
「では、何を基準にしますか」
「匂いと湿りが残らず、次の客の条件だけを作れるまでだ」
「時間は一定になりません」
「一定に見せるために、客へ我慢させる方がまずい」
セリオは帳簿の余白へ線を引いた。
「停止時間を予約条件へ入れます。前利用の条件、交換する部材、乾燥と換気の完了確認。それが済むまで次の予約は確定しない」
「稼働率の損失は隠さない?」
「隠して再利用を拒まれる方が高くつきます」
廊下の角では、モフルがまだこちらを見ていた。
セリオはその動きを帳簿へ書きかけ、手を止める。
「モフルの反応は、異常箇所の記録にはしません」
「じゃあ、何として残す?」
「複数の条件が混在していた可能性を確認するきっかけです。次回も同じ動きをするとは限りませんから、人間側の清掃と乾燥確認を省く根拠にはしない」
モフルは自分の名に耳を向けたものの、近づかずに背を向けた。
「記録どおりには動かないな」
「そのようですね」
セリオは帳簿へ短く書き直した。
そこからの作業は、客室を早く埋めるためではなく、次の条件を混ぜずに作るためのものになった。
ガルドは寝具の台、吸湿材を入れる枠、遮光板の留め具を同じ寸法へ揃えた。壊れた一枚だけを外せる形にし、専用の複雑な金具は使わない。
「次は暗さを好む客だ。板を増やしたい」
「増やすのはいい。だが、ここへ固定するな。外せなくなる」
「寝床の形は?」
「台を組み替える。詰め物まで一体にするな。湿った部分だけ交換できなくなる」
清掃と換気が続いた。吸湿材を替え、扉と高窓を開け、寝具を外したまま床と壁の熱が抜けるのを待つ。
レイノは能力を追加しなかった。
乾いたように見えるたび、自分で床へ横になる。鼻先に残る匂いを確かめ、壁際の湿気が消えていなければ、予約表の停止時間を延ばした。
二日目の朝、ようやく室内から前の条件が抜けた。
吸湿材を備えた寝床は低く広く組み直され、遮光板が高窓からの光を柔らかく遮っている。空気は乾きすぎず、壁際には湿気がこもらない。
レイノは、新しく用意した寝床、温度、湿度、遮光、荷物を置く位置だけへ意識を向けた。
前の客室を消すのではない。
空に戻した室内へ、次の一泊を積み上げる。
寝床が身体を面で支えるように落ち着き、遮光板の内側では物音が低く遠のいた。吸湿材を通る空気が、重くならず一定に保たれる。
夕方、待機していた客が改めて扉をくぐった。
今度は入口で止まらなかった。室内を一周し、壁際へ顔を近づける。それから長い荷を床へ置いた。
「前の匂いはない」
「湿りは?」
「気にならない。光もこれなら休める」
客は遮光板の内側へ入り、低い寝床へゆっくり身体を預けた。寝床は沈みすぎず、広い身体を均等に受け止める。
警戒したままだった肩が下がる。
荷へ伸ばしていた手も、やがて床へ落ちた。
前日には荷を下ろすことさえできなかった客が、同じ部屋で目を閉じた。
レイノは声を上げそうになり、両手で口を押さえた。隣にいたガルドが一度だけこちらを見る。
「今度は静かにできたな」
「前回、怒られたからな」
「学ぶのが遅い」
翌朝、客は身体のこわばりもなく立ち上がった。寝床の詰め物に偏りはなく、吸湿材にも過剰な水分は残っていない。遮光板と留め具にも緩みはなかった。
ガルドが作業区画を分けていた板を外し、安全な通路だけを残す。
廊下で待っていたモフルは、低い呼び声へ耳を向けた。
「モフル」
ガルドはそれ以上呼ばず、通路の先を指した。
モフルはすぐには動かなかった。工具袋とガルドの足元を見比べ、自分で通路へ入る。途中で一度立ち止まったが、引き返さず客室まで進んだ。
寝床には乗らない。壁際と扉の間を確かめ、遮光板の陰にある一角へ座る。
毛が、ゆっくり膨らんだ。
脚も耳も隠れ、灰白色の球になる。
「そこなのか」
ガルドが言うと、球体の内側から「むぅ」と声が返った。
レイノは笑いを抑えられなかった。
「完成だ」
「部屋がか?」
「部屋だけじゃない。空ける時間まで含めてだ」
セリオの帳簿には、交換部材、清掃、換気、乾燥、停止時間、再開条件が並んだ。次の予約は、前の客が出た時刻ではなく、環境リセットの完了後から受ける。
空室は、何も生んでいない時間ではない。
前の一泊をきちんと終わらせ、次の客だけの休息を作るために、客室そのものを休ませる時間だった。
レイノは交換された寝床と、丸くなったモフルを見渡した。
一人のために作った特殊な一室が、別の身体、別の眠り方を受け入れられる客室へ変わった。
連続予約はしない。竜ほど巨大な客へも、屋外の区画へも、まだ使えない。
それでも今は、同じ部屋で異なる客を、別々の条件のまま休ませられる。
レイノは停止時間が書き込まれた予約表を手に取り、満足そうに頷いた。
「使わない日じゃない。次の客のために働いてる日だ」




