【第17話】 大きな客のための一室
「ここなら、身体は休められると思います」
レイノは屋外休息区画の低い風除けを示した。
旅人は、その向こうに残る広い敷材と水場をしばらく見つめた。立ったままでも、肩の位置がレイノの頭よりはるかに高い。背負った荷は小さな戸棚ほどあり、太い腕で抱えるように支えている。
「身体は、な」
低い声が返った。
「だが、荷を置けば宿から見えなくなる。眠れば街道から丸見えだ。食事も湯も、他の客が避ける時間まで待つことになるだろう」
「それは……」
「魔物なら、それでいいのかもしれん。俺は金を払って、一晩眠りたい」
責める口調ではなかった。それだけに、レイノの胸へまっすぐ刺さった。
先日作った区画は、魔物を留めずに休ませるためのものだ。安全に水を飲み、脚を休め、次へ進ませる。その成功を、体格が大きいというだけで知性ある旅人へ当てはめかけていた。
「すみません。客室ではありませんでした」
レイノは頭を下げた。
「一番、休みにくいのはどこですか。身体の大きさだけじゃなく、眠るときに困ることを教えてください」
旅人は少しだけ目を細めた。
「横向きに眠る。脚を曲げても、人間用の寝台二つでは足りん。荷は手が届く場所に置く。食事は一度に多く食べると身体が重くなる。それと、眠っているところを見られるのは好かん」
「なら、寝床、荷物、食事、視線を分けて考えます」
「湯は?」
「それもです。無理に通常客と同じ時間へ入れる必要はありません」
口にしながら、レイノの頭には上級客室の壁を抜き、二室をつなぐ形が浮かんでいた。
広い窓。厚い寝具。浴場へ近い廊下。あそこなら豪華さも損なわない。
「ガルド。上級客室の隣室との壁を――」
「抜かん」
背後から即答が飛んだ。
ガルドは旅人の足元を一度見てから、レイノを上級客室へ連れていった。床板を叩き、柱へ手を当てる。
「壁を抜けば柱を移す。柱を移せば床へ荷が寄る。この客が寝返りを打つたび、二室分の床が受ける」
「補強を入れれば」
「下から入れる場所がない。浴場側まで開けることになる。今ある客室を壊して、一人分を作る案だ」
レイノは口を閉じた。
使える豪華客室を巨大化しようとすれば、通常営業まで止まる。客の身体へ合わせるために、別の客の寝床を失うのでは意味がない。
「なら、どこなら作れる」
「厩舎の隣だ」
ガルドは廊下の先を顎で示した。
そこには資材の整形や寝具の乾燥に使っている高天井の作業区画がある。床は荷を置く前提で造られ、外から直接入れる扉も広い。
「補強する範囲を絞れる。浴場へは裏の動線を使える。間仕切りを動かせるようにすれば、荷も内側へ置ける」
「客室らしくなるか?」
「客室にするのは、お前の仕事だ」
突き放すような言葉だったが、ガルドはすでに床の端を測り始めていた。
レイノは作業区画の中央へ立った。高い天井だけを見れば広い。だが、資材棚と道具台に囲まれた今のままでは、ただの大きな空間だ。
「寝る場所だけ作るんじゃない」
旅人の言葉を思い返しながら、指を折る。
「寝床。荷物。食事。視線。浴場までの移動。この五つを、一晩の中でつなぐ」
「六つだ」
ファナが言った。
「食事を一回で出さない」
彼女は旅人の体格を見上げても、量の多さには驚かなかった。
「人間の三倍を一皿に積む案なら断る。食べた直後に横になれないなら、休息を潰すだけだ。温かい物を分けて出す。何回なら負担が少ない?」
「三回なら助かる」
「供給量は増やしすぎない。構成を変える。肉だけ増やすのもなしだ」
「客の前で即座に削るなよ」
「翌朝動けなくなる量を出す方が失礼だろ」
旅人が喉の奥で笑った。
「その女の言うとおりだ」
その日の午後、セリオは帳簿を作業台へ置いた。
「通常客と浴場の利用が重ならない時間を設定します。食堂は最初と最後の食事だけ使い、中間は客室側へ運ぶ形にしましょう」
「採算は合うか?」
「一人分の試験利用として料金を設定します。無料にすると、次に何を準備すべきか判断できません」
柔らかな口調のまま、セリオは数字を書き込んでいく。
「ただし、同じ料金で何人でも受け入れるとはしません。今回は一名。到着時刻、使用設備、食事回数、清掃範囲を記録します」
「例外だから断る、とは言わないんだな」
「例外だからこそ、責任のない善意で始めるべきではありません」
レイノは提示された条件を読み、最低限守りたい項目を一つ加えた。
「眠れなかった場合は、通常料金にしない。試験で不便を押しつけて同じ額は取れない」
「その条件なら、記録にも意味があります」
セリオは反対せず、料金欄の横へ短く書き足した。
ミレナは街道から作業区画までの経路を歩き、曲がり角で何度も振り返った。
「正面からは入れない。荷車置き場側を空ければ通れる。ただし、一般客の到着と重ねると詰まる」
「何時なら動かせる?」
「夕方前。輸送隊が厩舎へ入るより先なら、曲がり角を一度で抜けられる」
「じゃあ、その時間を受け入れ枠にする」
「明日は私が先に街道を見てくる。雪が残っていたら到着を遅らせる」
レイノが礼を言うと、ミレナは区画の広い扉を見上げた。
「中を広くしても、ここまで来られなければ客室じゃないからな」
「分かってる。今回は外まで含めて一室だ」
「そこまで言うなら、曲がり角にも寝具を敷きそうだ」
「眠れない理由があるなら考える」
「考えるな」
数日間、宿は通常営業を続けたまま、作業区画だけが姿を変えていった。
ガルドは床下へ補強を加え、荷重を分散させた。壁際には固定家具を置かず、厚い板を組み合わせた可動間仕切りを据える。倒れた場合にも出口を塞がない向きまで決められた。
大型寝具は、単に人間用を並べる形にはしなかった。旅人に一度横になってもらい、肩と腰が沈む位置を確かめる。レイノは詰め物の厚さを変え、脚を曲げても端へ押し出されない幅へ調整した。
「もう少し肩側を高くできますか」
「ここか?」
「そこだ。低いと腕が痺れる」
「なら、先にそこを変える」
作り直した寝具へ旅人が体重を預けると、床が低く鳴った。
レイノは反射的にガルドを見た。
「想定内だ」
「今の音、本当に?」
「確認した。次に床板へ手を出したら、お前を外へ出す」
工具音が響くたび、モフルは毛を身体へ張りつかせ、食堂側へ逃げた。呼んでも戻らない。完成確認の日も、入口から離れた場所でこちらを見ている。
「モフル、来るか?」
「ぶるる」
「嫌らしい」
レイノは無理に連れてこなかった。大型の旅人が腕を動かすたび風が起こり、間仕切りも低く鳴る。モフルにとって、安全を確かめるにはまだ早い。
完成した夕方、レイノは改めて旅人の前へ立った。
「この区画を、今夜の客室として正式にお貸しします」
旅人は広い扉をくぐり、補強床を踏みしめた。荷を自分の手で間仕切りの内側へ置き、腕を伸ばせば届く距離を確かめる。外からは寝具も荷も見えない。
食事の器が通る幅は確保され、浴場へ向かう裏動線には他の客がいなかった。
レイノは大型寝具だけへ意識を集中させなかった。
この客室に実際に用意した寝具。室温。荷を手元へ置ける配置。食事を運ぶ経路。視線を遮る間仕切り。それらが一晩の休息としてつながるよう、宿屋能力を重ねていく。
強くするのではない。
大きな身体へ、無理なく合うようにする。
空気がわずかに柔らかくなり、寝具が旅人の肩と腰を受け止めた。間仕切りの内側では、廊下の足音が遠のく。
旅人が身体を横たえるたび、床が鳴った。レイノはそのたび補強箇所へ目を向ける。
「レイノ」
ガルドが低く呼んだ。
「確認は終わってる」
「でも、今の沈み方は」
「許容内だ。お前が今から触れば、客の寝床を揺らす」
レイノは床へ伸ばしかけた手を止めた。
旅人は荷へ片手を置いたまま、ゆっくり脚を曲げた。肩が寝具へ沈み、太い息が一つ漏れる。
やがて、荷を握っていた指がほどけた。
全身が寝具へ預けられる。
外から隠された一室で、大型の旅人は初めて警戒を解いた。
「収まったんじゃない」
レイノの声が思わず弾んだ。
「この人が、自分から休めた」
「静かにしろ。今から眠る」
ガルドに言われ、レイノは口を押さえた。それでも笑いを抑えきれず、間仕切りの外で拳を握る。
入口の先では、工具音が止んだことを確かめたモフルが、ようやく数歩だけ近づいていた。旅人の呼吸音に耳を向け、すぐには丸くならず、逃げられる距離を残して座る。
翌朝、旅人は自分の力で立ち上がった。
床板に割れはなく、間仕切りも傾いていない。寝具には大きく沈んだ跡が残っていたが、詰め物の偏りは許容範囲だった。
「肩は?」
「痺れていない。腰のこわばりも減った」
「食事は無理なく入ったか」
「三回に分けたのがよかった。出発前にも食べられる」
ファナは残量を見て頷いた。
「次も同じ量で出せる。増やす必要はないな」
ミレナが外から戻り、旅人の荷へ視線を向けた。
「今なら曲がり角を通れる。輸送隊が来る前に出れば止まらない」
「助かる」
旅人は料金を支払い、荷を背負った。出発前に一度だけ、間仕切りの内側を振り返る。
「屋外で横になれと言われると思っていた。ここなら、また客として泊まれる」
「次も同じ条件なら、受け入れられます」
レイノはそこで言葉を区切った。
「ただ、別の身体や別の休み方まで大丈夫とは言いません。今回は、あなたのための一室です」
「それで十分だ」
旅人はミレナの案内で広い扉を抜け、街道へ出ていった。
セリオは帳簿へ一泊の結果を書き込む。
「試験利用として残します。料金、時間、食事、設備、安全確認。次回も同条件なら判断材料になります」
レイノは空になった客室へ戻った。
高い天井。補強された床。動かせる間仕切り。大きな寝具。
人間用の豪華さを引き延ばした部屋ではない。利用者の身体と一晩の過ごし方から、必要な機能を組み直した最初の客室だ。
間仕切りを動かせば、配置は変えられる。寝具を交換すれば、別の姿勢にも合わせられるかもしれない。
だが、まだ可能性にすぎない。
「次は、同じ部屋を別の条件へ変えられるかだな」
レイノが間仕切りへ触れると、入口にいたモフルは短く「ぷる」と鳴いた。近づいてはきたが、大型寝具へ乗ることはなく、自分で選んだ壁際に座った。
「分かってる。今日はこれで完成だ」
レイノは手を離し、旅人が一晩眠った跡を見た。
宿へ身体を合わせてもらうのではない。
客が休める形へ、宿の方を変える。
その最初の一室が、確かにここへ残っていた。




