【第16話】 餌のない休息路
「餌は、今日で終わりにする」
ファナは残った箱の蓋を閉じ、留め具を掛けた。
臨時の屋外区画では、回復した魔物たちが再び街道の先へ顔を向けている。だが進みきれず、何度も同じ斜面へ戻ってきていた。水を飲み、敷材の上で休めることを覚えたせいか、前日より区画の近くに留まる時間も長い。
「余剰品でも限界か」
「限界になる前に止める。次も余るとは限らないし、人間用の仕入れを削ってまで続けたら、もう余剰じゃない」
ファナの声に迷いはなかった。
レイノは区画へ戻ろうとする魔物を見つめた。休ませたこと自体は間違っていない。立てなかった個体が歩けるようになり、荷車も時間を区切れば通せるようになった。
それでも、この場所へ留め続けるのは違う。
「休ませた結果、ここから離れられなくするのは宿じゃないな」
「なら、進めない理由を探す」
ミレナはすでに外套の留め具を締めていた。
「群れが戻ろうとする方向を遠回りして見る。近づきすぎれば動きを変えるから、今日は追わない」
「一人で行くのか」
「遠い方まで見るなら、その方が速い。日が落ちたら詰所に泊まる。明日の昼までには戻る」
レイノが何か言う前に、ミレナは携帯食の袋へ手を伸ばした。ファナがその手首を軽く払う。
「それは二日分」
「一泊しかしない」
「予定どおりならな。水はこっち。重い方を下に入れろ」
「私の荷袋だ」
「潰して戻される食べ物は、私の損だ」
ミレナは短く息を吐き、ファナが選んだ袋を詰め直した。まだ互いの判断を全面的に任せる関係ではない。だが、荷の状態を巡って言い争っている時間はなかった。
「宿は縮小営業を続ける。通行は今までどおり、私の代わりに時間を決めて開けないで」
「分かった。戻ったら最初に道の話を聞かせてくれ」
「食事より先に?」
「走った後なら、食べながらでいい」
ミレナはわずかに口元を緩め、街道の脇道へ消えていった。
翌日の昼過ぎ、彼女は泥の付いた靴で戻ってきた。
「進めない理由があった」
食堂の卓へ広げられた簡単な見取りの上で、ミレナの指が二か所を示す。
「旧い水場が泥で埋まってる。その先の岩陰も崩れてた。群れは休める場所を探して、そこで向きを変えて戻ってきてる」
「直せば進むか」
「たぶん。でも、先に現場を見た方がいい」
その日のうちには向かわなかった。ミレナを休ませ、翌朝、日帰りできる範囲まで全員で街道を進んだ。
旧い水場は、もはや水場には見えなかった。斜面から流れた泥が浅い窪みを埋め、雪解け水が細い筋となって脇へ逃げている。少し先にあった岩陰は半分が崩れ、折り重なった石の間から湿った土が覗いていた。
「掘り直せる」
レイノは泥の端へしゃがみ、流れの向きを確かめた。
「水を戻して、岩をどければ――」
「やらん」
ガルドが即座に切った。
長い部材を地面へ突き刺す。軽く力を掛けただけで、周囲の土が沈んだ。
「下が空いてる。雪解けが落ち着く前に掘れば、斜面ごと動く」
「補強しても?」
「補強材を置く地盤が沈む。今夜持つ話じゃない。ここを元へ戻すなら、地面が止まってからだ」
レイノは泥に埋まった窪みを見た。魔物が戻ろうとしていた、本来の休息地だ。できるなら、すぐに元へ戻したかった。
そのとき、モフルの毛が一気に身体へ張りついた。
崩れた岩の奥で小石が転がり、水の匂いと湿った土の匂いが風に混じる。遠くには魔物の低い鳴き声もあった。モフルは何度も頭を振り、旧経路とは反対側の斜面へ走り出した。
「モフル!」
呼びかけに耳は動いたが、止まらない。
レイノは追いついて進路へ回り込み、逃げ道を塞がないよう身体を低くした。
「戻れ。そっちは確認してない」
「ぷるっ」
モフルは不満そうに鳴き、さらに斜面を見た。だが、足元の泥が小さく崩れると、自分から後退した。
「分からなくなったんだな」
抱き上げず、レイノは安全な岩の裏まで一緒に下がった。モフルは足元へ寄らず、少し距離を取ったまま毛を細かく震わせている。
「反応はある。でも道案内には使えない」
ミレナは地面へ残る大きな足跡を追い、崩落地の外側を回った。
「群れが使ってたのはこっちだ。戻ろうとしてる方向とも合う」
「なら、旧い場所を直すんじゃなくて、その手前で休ませる」
レイノは崩れた岩陰から視線を外した。
一か所を元どおりにすることへ拘れば、地盤が落ち着くまで街道も給餌も止められない。必要なのは立派な休息地ではない。次の場所へ進めるだけの短い休息だ。
「小さい水場を分けて作る。風除けも一頭ずつ固まらない幅にする。一か所で寝込むほど快適にはしない」
ガルドが地面を見回した。
「崩落地を避ければ、浅い水溜めは作れる。風除けは固定せず、倒れても道を塞がん向きにする」
「何か置くなら餌はなし」
ファナが言った。
「匂いで留めたら同じことになる。運ぶのは作業用の水と、外出組の食事だけだ」
「水場へ入れる水は?」
「最初に必要な分は出す。ただし、誰がどこへ運ぶかを決めろ。全部ミレナへ積めば速くても続かない」
ミレナが見取りを覗き込む。
「最初の二か所は私が持つ。群れの先頭が動いたら、次の位置を変える」
「定期便の水まで勝手に抜くな」
「抜かない。現場で余った分を次へ回す」
「確認を待ってたら遅れる」
「だから任せる。戻ったら量だけ報告して」
短い応酬の末、二人の間で役割が決まった。
ファナは宿と供給全体を守り、必要量を選別する。ミレナは現場で運搬先と確認順を変える。どちらかが相手の返事を待ち続けるのではなく、それぞれの責任で動き、結果を次へつなぐ。
「それなら三日分の割り振りを作る」
「私は今から一つ目を見てくる」
「携帯食は持っていけ」
「分かってる」
「昨日もそう言った」
ミレナは返事の代わりに袋を受け取り、肩へ掛けた。
その日から、街道脇に小さな休息地点を連ねていった。
浅い水場。風を弱める低い遮蔽物。湿っていない敷材。どれも臨時区画ほど広くなく、餌もない。群れが固まればすぐ満ちる程度の大きさだった。
レイノは一地点ずつ、自分の管理下に置く短時間用の休息場所として受け入れた。
能力を重ねる際も、強くしすぎない。
保温は冷えた脚が動く程度。疲労軽減は次の地点まで歩ける程度。長く眠り込ませる寝心地も、ここへ戻りたくなる食事も与えない。
いつもの手応えより、ずっと弱い。
「足りないか?」
最初の三体が水を飲んでも、レイノは落ち着かなかった。臨時区画で感じたような、設備と利用者が深く結びつく感覚がない。
一体が風除けの横で脚を折る。残りも短く身体を休めた。
やがて先頭の一体が立ち上がった。
餌を探して周囲を回ることも、敷材へ戻ることもない。そのまま次の斜面へ進み、後ろの個体が続く。
レイノは追加で能力を重ねかけた手を止めた。
「弱いから、出ていけるのか」
休息が足りないのではない。ここへ留まらないことが、今回の成功だった。
「増やさない」
自分へ言い聞かせるように口にする。
「次まで歩ければいい。ここを宿にするんじゃない。道の途中で息を戻す場所にする」
離れた岩の上で、モフルが毛を半分だけ膨らませた。魔物へ近づこうとはせず、かといって逃げもしない。自分の判断で距離を取り、流れていく群れを見送っていた。
翌日には二つ目、その次の日にはさらに先の地点が使われた。
巨大な群れは一度に動かなかった。先頭が水を飲み、風を避けて休む。その群れが進むと、次の個体が空いた場所へ入る。街道脇の小さな休息地点を、長い流れが順番に渡っていった。
ミレナは途中の詰所へ一泊し、最後尾の動きと通行可能な時間を確かめた。
戻った彼女は、宿の扉を開けるなり告げた。
「最後の個体も峠を越えた。餌を止めてから一度も臨時区画へ戻ってない」
「街道は?」
「通常どおりでいい。時間を区切る必要もない」
レイノは外へ飛び出した。
臨時区画は空だった。残された敷材と簡易柵の向こうを、荷車が止まらず通り過ぎていく。御者が警戒して速度を落とすことはあっても、ミレナの合図を待つ必要はない。
魔物を囲わなかった。戦わなかった。餌で飼い留めもしなかった。
ただ、進めるだけ休ませた。
「できた」
レイノは空の区画を見たまま、両手を強く握った。
「休ませる場所は、長く泊まらせなくてもいい。弱くして、次へ渡す使い方もある」
「喜ぶなら、通常営業へ戻してからにしろ」
ファナが背後から言ったが、その手にはもう魔物用の餌箱がなかった。
「今日から客数を戻す。備蓄の割り振りも通常へ戻せる」
「通行予定も戻す」
ミレナが続ける。
「ただし、旧水場は使用禁止のまま。地盤が止まるまでは近づけない」
「分かってる。直したいけど、今は直さない」
レイノは崩れた休息地のある方角を見た。
元へ戻せなかった場所は残っている。人間用の寝台では休めない大きな利用者をどう迎えるかも、まだ分からない。
それでも今、街道には車輪の音が戻り、宿には通常どおり客を迎えられる。
モフルが空になった区画へ近づき、敷材の端を一度だけ嗅いだ。そこで丸くなることはなく、くるりと向きを変えて宿の灯りへ歩き出す。
レイノもその後を追った。




