【第15話】 魔物を休ませる屋外宿
「追い払えば、麓側で止まる」
宿へ戻ったミレナは、水を一口飲むより先にそう言った。
朝の食堂には、まだ湯気の残る皿と、次の客を迎えるための帳面が広がっている。満室営業を終えたばかりの宿は静かだったが、ミレナの外套には細かな雪と土埃が付いていた。
「襲ってくるのか」
「近づけば威嚇はする。でも、獲物を追ってる動きじゃない。同じ方向へ進んで、街道の真ん中で座り込む。立てない個体もいる」
「疲れてる?」
「たぶん。だから厄介だ。無理に動かせば、次に座り込む場所が麓へ移る」
早く道を開けたいミレナが、追い払う案を先に捨てている。その事実だけで、現場の状態は想像できた。
レイノは窓の外へ目を向けた。昨夜まで客と輸送獣で埋まっていた宿は、今なら受け入れ数を絞れる。設備も食料もある。だからこそ、休めないまま街道に倒れている存在を見過ごしたくなかった。
「見に行く」
「昼までに着ける。作業するなら夕方前に切り上げる」
「宿は縮小営業にする。一般客の枠も増やさない」
「それなら私が通れる時間を見てくる」
相談ではなく、もう役割が分かれていた。
街道脇へ着くと、レイノは最初に足を止めた。
灰褐色の魔物が十数体、街道を斜めに塞いでいる。四肢は太く、背には硬そうな毛が並ぶ。こちらへ頭を向ける個体もいたが、立ち上がろうとはしなかった。
少し離れた岩陰で、一体だけ胸を大きく上下させている。
モフルはレイノの足元へ身体を押しつけ、毛をぺたりと縮めた。低い「ぶるる」が喉の奥から漏れる。
「近づかなくていい」
レイノがそう言っても、モフルは逃げなかった。ただ、岩陰の一体から目を離さず、前へ出ることだけは拒むようにレイノの靴の後ろへ回った。
ミレナが街道の端から群れを見渡す。
「進行方向は向こうだ。中央の三体が動けば、荷車一台分は空く。でも今動かすのは無理だな」
「まず食わせる」
レイノは街道から離れた窪地へ水桶を置き、ファナが選んだ余剰の保存食を少量だけ広げた。魔物はしばらく警戒していたが、一体が近づくと、残りもゆっくり続いた。
水は飲む。餌も食べる。
だが、休まない。
頭を上げたまま周囲を警戒し、足を折ってもすぐ立ち上がる。レイノが宿屋能力を重ねようとしても、いつものように寝具や食事が一つの宿泊へ結びつく感覚がなかった。
「違う」
思わず声が漏れた。
食べさせた。水も与えた。それでも、これは宿泊ではない。ただ腹を満たして、別の場所へ追いやろうとしているだけだ。
レイノは拳を握り、置いた桶を睨んだ。
「餌場を作っただけだ。俺はこいつらを客として受け入れてない」
「客扱いするのか」
ミレナが群れから視線を外さずに聞く。
「全部じゃない。立てないやつからだ。食わせて動かすんじゃなく、ここで眠れるようにする」
ガルドは周囲の地面を踏み、杖のように長い部材で土を突いた。
「囲う柵は造らん」
「逃げないようにした方が――」
「閉じ込めれば暴れる。ここは客室じゃない。境界を見せるだけだ」
ガルドはレイノの案を切り捨てると、街道側だけに低い簡易柵を置く位置を示した。魔物が体当たりしても折れて危険な破片にならないよう、力を受け流す向きにする。風上には遮蔽物を置くが、背後は開けておく。
「今夜持つ構造でいい。ただし、逃げ道は塞ぐな」
「分かった。閉じ込めない」
「あと、モフルを近づけるな。反応を見るだけならここで足りる」
工具の金属音が鳴るたび、モフルの毛が震えた。それでも岩陰の一体を見続けている。
ファナは運んできた箱を開け、餌を二つに分けた。
「人間用の備蓄には手を付けない」
「足りなかったら?」
「受け入れる数を減らす。魔物を助けるために、今夜の客の食事をなくす気はない」
「群れ全部は無理か」
「最初からそう言ってる。余剰で何体休ませられるかを決める。次も同じ量があると思うな」
レイノは群れを見た。全体をどうにかしたい気持ちは消えない。だが、一度に広げれば、一般客も魔物も守れなくなる。
「三体に絞る。あの岩陰の一体と、呼吸の荒い二体だ」
「それなら水も敷材も足りる」
作業は短くまとめた。乾いた敷材を厚くし、風を切る遮蔽物を置き、水桶を倒れにくい窪みへ固定する。簡易柵は街道との境界だけに設け、魔物側からは自由に出られるよう開けた。
レイノは仕上がった区画へ入り、自分で地面へ膝をついた。
風は弱い。足元は湿っていない。だが、視界を塞がず、逃げ道も残っている。
「ここを、俺が管理する屋外の寝床にする」
独り言ではなく、責任を引き受けるために口にした。
「衰弱した三体を、今夜までの利用者として受け入れる。危険な動きがあれば中止する」
能力の感覚が、今度は途切れなかった。
敷材の乾き、遮蔽物の位置、水場までの短い動線。それらが一つの休息環境としてつながっていく。
しかし、魔物はまだ区画へ入らない。
そのとき、ファナがモフルの前へ置いた器から、小さな口が離れた。
「食べないのか」
ファナは器を持ち上げず、モフルの視線を追った。モフルは魔物のいる方へ身体を向け、「ぷる」と短く鳴く。だが、一歩踏み出したところで毛を縮め、すぐレイノの後ろへ戻った。
「食材じゃないな」
ファナは器の匂いを確かめただけで、勝手に中身を捨てなかった。
「どこだ、モフル」
呼びかけると、モフルは岩陰の一体を見た後、敷材の端へ視線を移した。近づこうとはしない。
「分かった。お前はここで待て」
レイノは反応だけを手掛かりにし、ミレナへ目を向けた。
「あの一体、動けそうか」
「前脚に力が入ってない。回り込めば自分で区画へ入る可能性はある。でも追い立てるのはなしだ」
「水桶を見える位置へ動かす」
ファナが器を置き直した。
「モフル、食べるならここ。向こうへ行く必要はない」
モフルはすぐには動かなかった。だが、ファナが自分の合図を無視せず確認へつなげたと分かったのか、しばらくして器の横へ戻った。食べ始めても、目だけは魔物から離さない。
ミレナが群れの外側へ回り、正面から圧をかけない位置を選ぶ。レイノは水桶を少しずつ区画の内側へ寄せた。
最初に動いたのは、岩陰の一体だった。
身体を引きずるようにして水へ近づき、そのまま敷材の上で脚を折る。逃げ道を確かめるように何度も頭を上げたが、やがて胸が地面へ下りた。
もう二体も続いた。
レイノはそこで能力を広げるのを止めた。三体だけ。群れ全体を操るものではない。この寝床を実際に使う、正式に受け入れた利用者だけだ。
風が遮られ、敷材の上で魔物の呼吸がゆっくりになっていく。
一体が横向きに身体を倒した。
「寝た」
声が上ずった。
魔物を倒したのではない。動かしたのでもない。ただ、眠れる場所を作った。
その事実が胸の奥から一気に込み上げ、レイノは握った拳を何度も開いた。
「屋外でもできる。設備があって、俺が受け入れて、ちゃんと休む場所として整えれば……宿になる」
「喜ぶのは立ってからにしろ」
ガルドは言いながら、簡易柵の留め具をもう一度確かめた。
昼を過ぎ、日が傾き始めた頃、最も弱っていた一体が頭を上げた。
前脚を立てる。身体が一度揺れる。それでも崩れず、四肢で地面を踏んだ。
モフルが器から顔を上げ、毛を少しだけ膨らませた。
立ち上がった魔物は仲間の方へ歩き、続いて休んでいた二体も動き出す。群れ全体が屋外区画の周辺へ寄ったことで、街道中央に荷車一台分の空間が生まれた。
ミレナはすぐに道幅と群れの向きを確かめた。
「完全開通はしない。今から日が落ちるまで、私が合図した時だけ一台ずつ通す」
「全部動くまで待たないのか」
「待てば今日の荷が止まる。急がせれば群れがまた道へ戻る。今使える時間だけ使う」
「任せる」
やがて、止まっていた荷車が遠くから姿を見せた。ミレナの合図で速度を落とし、簡易柵の反対側を静かに抜けていく。
魔物は立ち上がらなかった。
車輪の音が峠道の向こうへ消えた瞬間、レイノは堪えきれず笑った。
「通った」
「一台だけだ」
「一台でもだ。魔物を倒さず、休ませて道を開けた」
夕方、敷材と遮蔽物、水場を残し、現場にいた者たちは宿へ戻った。屋外区画は物理設備としてその場に残るが、給餌を続ける予定はない。群れもまだ進行方向へ動き切っていなかった。
宿の灯りが見えたところで、ミレナが言う。
「一か所だけじゃ、次にまた街道へ戻る」
「ああ。宿の餌を目当てにさせるわけにもいかない」
レイノは振り返り、山の向こうへ続く道を見た。
今日できたのは、衰弱した数体を休ませ、夕方までの道を開けたところまでだ。
それでも、朝には人間と輸送獣しか休ませられなかった宿が、今は屋外で魔物を客として受け入れた。
「次は、群れが進む先に休める場所を作る」
モフルはレイノの足元から離れず、小さく「むぅ」と鳴いた。




