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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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【第14話】 満室の富裕宿

 上級客室の窓から見える雪景色を眺めながら、レイノは枕を三度目に置き直した。


「そこはもう触るな」


 背後からガルドの声が飛ぶ。


「高さを少し変えるだけだ」


「床板の確認が終わる前に寝台を動かすな」


 ガルドは壁際の点検口を閉じ、金具を確かめた。暖房の流れ、窓枠、排水につながる床の傾きまで見終えると、レイノへ短い紙を渡す。


「使っていい。火を強めすぎるな。窓際へ重い物を寄せるな。異音がしたら客を出して呼べ」


「判断は任せる。営業中も危ないと思ったら止めてくれ」


 ガルドがレイノを見る。


「客が入っていても止めるぞ」


「そのために任せるんだ」


 しばらく無言だったガルドは、点検口の鍵をレイノではなく自分の腰袋へ入れた。


「なら、構造は俺が持つ」


 上級客室の安全が決まると、次は料金だった。


 セリオは食堂の卓上へ帳面を開き、通常客室、浴場、食事、上級客室の利用条件を分けて書き出した。


「上級客室は一室のみ。予約人数を越えて寝具を増やさない。満室時も定宿契約の枠は減らさない。この条件なら料金はここです」


「初回だから安くするのは?」


「必要ありません。安くして人数を増やせば、初回結果が崩れます」


「利益より確認を優先しろってことか」


「レイノさんが最も守りたいものと一致しているはずです」


 レイノは料金欄を見つめた。今までの客室より明らかに高い。だが、静かな寝具、浴場、食事、荷物を邪魔されない動線まで含めれば、ただ豪華な部屋を売るのではない。


「この条件で受ける。異常が出たら新しい客は止める」


「では、その前提で予約を確定します」


 数日後、宿前は同時に鳴った車輪と蹄で埋まった。


 上級客を乗せた馬車の後ろから一般客が入り、定宿の輸送隊が荷を下ろす。厩舎では輸送獣が区画ごとに分けられ、食堂にはファナの運び込んだ食材が並んだ。


 レイノは上級客室の寝具を確かめ、浴場の湯加減を見て、食堂へ駆け下りた。


「上級客の食事は先に出せるか」


「出せる。でも、この皿を増やしたら輸送隊の分が遅れる」


 ファナが肉の入った鍋を引き寄せる。


「温室の野菜を上級客へ回して、一般客には保存食を――」


「駄目。今日だけ良く見せても次が続かない」


「でも初回だぞ」


「だから全員分を崩さない。上級客には切り分けと出す順番で差を付ける。食材そのものを偏らせるな」


 反論しかけたところへ、厩舎から水桶を運ぶ人が来た。レイノは進路を空けるつもりで横へ動き、配膳の盆を持った者とぶつかりかける。


「そっちは先に一般客室へ。いや、浴場の順番を――」


「レイノ、そこにいると全員止まる」


 ミレナが荷札を片手に言った。


「上級客の荷物がまだ廊下にある。輸送隊は早朝出発。一般客は先に食事へ入れた方が浴場が空く」


「上級客室を先に完成させたい」


「部屋は完成してる。今遅れてるのは宿全体だ」


 言われて見れば、食堂の入口には客が溜まり、浴場前には荷物が残り、厩舎へ向かう動線まで細くなっていた。


 自分が確認するたび、誰かが待っている。


「俺が品質を守るつもりで、流れを塞いでるのか」


「つもりじゃなく塞いでる」


 ミレナは即答した。


 レイノは息を吐き、食堂と廊下を見渡した。上級客室だけを完璧にしても、一般客の食事が冷め、輸送獣の世話が遅れれば、この宿の一泊は完成しない。


「方針を変える。受け入れた全員へ約束した品質を守る。ファナ、配分は任せる。ガルド、安全判断は確認を待たなくていい」


「最初からそのつもりだ」


「セリオ、予約と契約枠を整理してくれ。追加客は入れない」


「承知しました。上級客室は少数定期利用として記録を取ります」


「ミレナ、到着順と出発順で組み替えてくれ」


「浴場は一般客から。輸送隊は食事後すぐ休めるよう荷物を先にまとめる。上級客は部屋で待てるから最後でも困らない」


「任せる」


 ミレナは一瞬だけレイノを見たが、説明を足さずに動いた。


 人の流れが変わった。食堂へ客が入り、空いた廊下を荷物が通る。ファナは同じ食材から上級客には香りのよい温かな一皿を整え、一般客と輸送隊には量と消化を優先して配った。ガルドは上級客室へ一度だけ入り、窓枠の音を確かめると、レイノを呼ばずに調整を済ませた。


 レイノは上級客室だけでなく、正式に受け入れた客たちの寝具、食事、浴場、静かな動線が一つの宿泊になるよう意識を向けた。


 宿全体の空気が、ゆっくり整っていく。


 その最中、毛玉がミレナの荷袋へ潜り込んだ。


「今は困る」


 ミレナは持ち上げず、袋の外側を軽く二度叩いた。


「出るなら今だ」


 灰白色の顔がのぞく。毛玉はミレナへ身体を向けたが、すぐに袋の奥へ引っ込んだ。


「聞いてはいるみたいだな」


 レイノが近づくと、毛玉は飛び出し、廊下を走った。一般客室の前で止まったかと思えば、物陰へ隠れる。


「毛玉」


 レイノが呼ぶ。


 耳だけが見えた。だが出てこない。


 ミレナが荷袋を軽く鳴らすと、毛玉は再び姿を現し、今度は扉を引っかいた。開けると、寝台の客が「平気です」と笑ったが、片方の肩を不自然に上げている。


 レイノは毛玉ではなく客へ尋ねた。


「寒さと痛みなら、どちらがつらいですか」


「痛みです。荷を担いだせいで。でも寝れば戻ります」


 室温に問題はない。寝具も乾いている。ミレナが枕元の荷を下ろすと、傾いていた寝台の端がわずかに戻った。


「荷物の重みで寝姿が片側へ寄ってる」


「なら、先にそこを変える」


 荷物を別の場所へ移し、枕の高さを下げる。客が横になると、上がっていた肩から力が抜けた。


 毛玉は一度廊下へ出た。それでもレイノが呼ぶと立ち止まり、戻ってくる。今度は寝台の足元で短く「ぷる」と鳴いた。


 呼びかけを聞き分けている。離れても、自分の判断で戻って要求を示している。


 レイノはその小さな耳を見つめた。


「いつまでも毛玉じゃ呼びにくいな」


 ミレナが壁へ寄り、逃げ道を空ける。


「決めるのか」


「ああ。モフル。お前はモフルだ」


 モフルは耳をレイノへ向けた。


「モフル」


 もう一度呼ぶと、今度は身体ごと振り返る。だがレイノの足元へ来ることはなく、自分が選んだ寝床へ戻り、客の足元で丸くなった。


「呼ばれたから従う気はないらしい」


「そこは変わらない方がいい」


 ミレナが小さく笑った。


 少し離れた場所で、セリオが帳面へ目を落とす。


「モフル、ですか」


「記録するのか」


「移動先と時刻だけです。意味までは決めません」


 翌朝、上級客は静かな寝室から十分に休んだ顔で降りてきた。食事を終えると、定めた料金を支払い、次回も同じ条件で泊まりたいと告げる。


 一般客も街道へ戻り、輸送隊は予定時刻どおりに出発した。厩舎から出た輸送獣の脚運びも乱れていない。


 セリオは帳面を閉じた。


「満室時の収益でも、食料、燃料、清掃、保守の費用を引いて継続分が残ります。次回も同じ上限で予約できます」


「増やさないのか」


「増やしたいのですか」


 レイノは宿前から、空になった客室、湯気の残る浴場、清掃が始まった厩舎を見た。


「いや。この人数で同じ朝を作れることを先に守る」


 それでも笑みは止まらなかった。自分が全室を触らなくても、全設備が同時に働き、人も輸送獣も元気に出発した。料金も利益も残り、次の一泊を用意できる。


「本当に富裕宿になったんだな」


「客だけが使って終わりじゃない」


 ファナが残った料理を卓へ並べた。


「働いた分は食べる。次も作るなら、なおさらだ」


 宿で働いた者たちは仕事を終え、上質な食事を取った。その後は順番に浴場へ入り、疲れを湯へ沈める。


 レイノが食堂へ戻ると、モフルは暖かな椅子の下で丸くなっていた。宿のどこからも、急ぐ足音は聞こえない。


 荒れた休憩所だった建物は、客を休ませ、働く者まで十分に眠れる宿になった。


 ただし、空いているからと客数を増やすつもりはなかった。まだ、この設備で休めない者もいる。


 その者たちを迎えるのは、今日の満室を次の基盤として守ってからだった。

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