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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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【第13話】 輸送獣が眠れる厩舎

 輸送獣の蹄が、凍った地面を何度も踏み直していた。


 人間の客たちは荷を下ろし、浴場と食堂へ向かっている。だが、古い厩舎跡へつながれた大型の輸送獣たちは、誰も身体を休めようとしない。首を振り、脚を替え、雪の残る床を落ち着かなげに削っていた。


「人だけ眠れても駄目だ」


 レイノは一頭の前脚へ視線を落とした。立ち続けた筋肉が硬く張り、体重を避けるように脚を浮かせている。


「こいつらが疲れたままなら、明日の隊は結局遅れる」


 そばで手綱を外していたミレナが、輸送獣の肩へ触れた。


「今日は人よりこっちの方が走ってる。次の区間も同じだけ働かせるなら、今夜で戻さないと持たない」


 レイノは雪をかぶった囲いを見回した。屋根の一部は残っているが、風は入る。床は硬く、給水桶も置く場所によって凍り方が違った。


「次の隊が来るまでに作る。全部の区画へ保温を入れて、床を柔らかくする。水と飼料も寝床から動かず取れる位置へ置こう」


 工具袋を下ろしたガルドが、床板の端を靴で踏んだ。


「全部、同じにするのか」


「人間の客室だって、寒くて硬ければ眠れない」


「こいつらは人間じゃない」


「だから広くする」


「広さの話じゃない」


 ガルドは床へ膝をつき、板の下を覗き込んだ。


「この大きさが水をこぼし、同じ場所を踏み続ける。柔らかい物を厚く敷けば湿気を抱える。床下が腐るか、荷重で沈む」


「なら、沈まないように支える」


「今夜持つ物と、毎晩使う物は別だ」


 止められても、レイノは案を引っ込めなかった。まず一頭でも横になれる状態を作り、反応を見たかった。ガルドも全面施工は拒んだが、一角だけなら試験に使えると認めた。


 数日後、仮の区画へ三頭が入った。


 床には厚い敷材を重ね、壁際へ保温を寄せ、給水桶を低い位置へ据えてある。最初の一頭は匂いを確かめ、前脚を折りかけた。


「よし」


 レイノが身を乗り出した直後、別の一頭が荒く鼻を鳴らした。


 壁際へ身体を押しつけ、敷材を蹄で掻き散らす。三頭目も水桶を避けるように首を曲げ、落ち着かず向きを変え続けた。せっかく均した床が、見る間に偏っていく。


「暑い」


 ミレナが一頭の首筋へ手を当てた。


「こっちは走った後も体温が下がりにくい。保温を寄せすぎだ」


「でも、最初の一頭は横になりかけた」


「同じ隊でも身体は同じじゃない」


 レイノは散らされた敷材を握った。柔らかさも暖かさも、足りないより多い方がいいと思っていた。


 また、人間の快適さを基準にした。


「止めるぞ」


 ガルドが区画の扉を開けた。


「まだ試せる」


「水がこぼれた」


 敷材の下を持ち上げると、板の継ぎ目へ湿り気が入り込んでいた。大型の蹄が同じ場所へ荷重を掛け、床板もわずかに軋んでいる。


「このまま一晩使えば、明日見るのは回復じゃなく破損だ」


 レイノは歯を食いしばったが、輸送獣を外へ出した。休ませるための区画で脚を取らせるわけにはいかない。


 ミレナは三頭が歩き出す様子を追い、前脚、腰、首の高さを順に見比べた。


「柔らかさをそろえる必要はない」


「何をそろえる?」


「そろえない」


 彼女は疲労の強い一頭を示した。


「こいつは脚が張ってるから、衝撃を減らす床が要る。あっちは暑さを嫌う。もう一頭は水を飲むたび身体を大きく動かすから、桶が近すぎると寝床を踏み荒らす」


 ガルドが立ち上がる。


「区画ごとに床を替える。給水位置も動かす。保温は壁へ固定せず、使う場所を選べる形にする」


「何日かかる」


 ミレナがすぐに尋ねた。


「荷重を見てからだ」


「次の隊は三日後に来る」


「だから三日で壊れないかを見る」


「確認中に使える区画は?」


「一つだ」


「二つ要る」


「一つだ」


 二人の声は短く、硬かった。ミレナは厩舎の梁を見上げ、すぐに別案を返す。


「軽い方を既存区画へ残す。疲労の強い一頭だけ試験区画へ入れる。荷重条件は守る。使用後の振動、床の沈み、水のこぼれ方は私が報告する」


 ガルドは返事をせず、彼女の顔を見た。


「時間を縮めろとは言わない。使える条件を出してくれ」


「指定した頭数を超えるな。床材は勝手に足すな。水桶の位置も変えるな」


「分かった」


「異常があれば止める」


「私が止める」


 ガルドは一度だけうなずいた。


「なら二つ作る。構造は同じにしない」


 それからの工事は早かった。


 床材は硬さの異なるものを交換できる枠へ収め、保温は区画全体へ一律に回さず、壁際と開放側を選べるようにした。給水位置も、寝床の近くと離れた場所で差し替えられる。排水は床下へ残さず、清掃時に流れを分けた。


 レイノは万能な厩舎を作る考えを捨てた。


「一番いい床を決めるんじゃない。こいつらに合う床を選べるようにする」


 完成した二つの区画へ、次の輸送隊から頭数を絞って受け入れた。飼料と追加の水は契約分へ上乗せして購入し、清掃と手入れの時間も客の到着前後へ組み込む。


 レイノは一頭ずつ正式に預かることをセリオへ確認した。


「人の客室とは別料金になりますか」


「今夜は試験分として、頭数を限定する。効果が出ても、全頭へ広げるのは結果を見てからだ」


「妥当です。翌朝の遅延差も確認します」


 セリオは称賛も期待も口にせず、帳面へ頭数と時刻を書き込んだ。


 レイノは寝床、飼料、水、手入れ、静かな動線を一続きの宿泊として整えた。能力を向けたのは、輸送獣そのものを変えるためではない。正式に預かった一夜の休息が、用意した設備の上で十分に働くようにするためだった。


 区画の空気が、わずかに落ち着いた。


 敷材が急に増えたわけでも、床が別物へ変わったわけでもない。それでも輸送獣の呼吸はゆっくりになり、首の力が抜けていく。


 入口では、毛玉が毛を身体へ貼りつけていた。


 大きな蹄が鳴るたびに後ずさりし、廊下へ逃げる。だが、疲労の強い一頭が何度も脚を踏み替えると、また入口まで戻ってきた。


「待ってろ」


 レイノが手で示しても、毛玉は短く「ぷる」と鳴き、逃げた。


 今度こそ来ないと思った直後、壁際から灰白色の頭だけがのぞく。近づけないまま、疲れた一頭から視線を外さない。


「気になるのは同じか」


 レイノは毛玉の反応だけでは決めなかった。ミレナが脚の張りを確かめ、給水後の立ち方を見て、床材を一段硬いものへ替える。保温も弱め、桶を寝床から離した。


 輸送獣はしばらく鼻を鳴らしていたが、やがて前脚を折った。


 大きな身体がゆっくり床へ沈み、首が敷材の上へ下りる。


 毛玉は入口から動かなかった。逃げる余地を残したまま、毛だけを少し膨らませた。


 翌朝、厩舎の扉を開けると、複数の輸送獣が落ち着いて立ち上がった。


 もっとも疲れていた一頭も、昨日のように片脚をかばわない。踏み出すたびに体重が滑らかに移り、手綱への反応も早かった。


 ミレナは宿前の雪道を短く走らせ、向きを変えて戻ってくる。


「昨日より脚が前へ出る。反応も遅れてない。これなら予定どおり動ける」


「本当に届いた」


 レイノは輸送獣の肩へ触れた。温度も筋肉の張りも、昨夜とは違う。


「人間じゃなくても、正式に預かって、必要な設備を用意して、一晩の休息を整えれば……届くんだ」


 声が速くなる。


「床と温度と水の位置を変えれば、別の身体にも合わせられる。人間用を大きくするんじゃない。最初から休み方を分ければいい」


「全頭へ試すのは次回です」


 セリオが帳面を閉じた。


「今回の頭数、追加費用、出発時刻の差を基準にします。何頭まで同じ結果を維持できますか」


「まだ分からない。だから次も制限する。清掃と水と床材を回せる頭数までだ」


「では、その条件で次回を組みます」


 褒め言葉ではなかった。だが、次も使う前提の返答だった。


 輸送隊が出発すると、宿前に残った蹄跡は乱れていなかった。人間の客も、輸送獣も、そろって街道へ戻っていく。


 厩舎の一角では、使い終えた区画の床材が外され、排水が流されていた。設備は完成したが、放っておいて働くわけではない。水も飼料も清掃も、次の一泊のために必要だった。


 それでも、昨日まで立ったまま夜を越していた大型の輸送獣が、今は自分に合う区画で眠れる。


 空いた寝床の近くで、毛玉がまだ入口を気にしながら丸くなった。


「怖いなら、そこまで近づかなくてもいいんだけどな」


 毛玉は返事の代わりに毛を膨らませた。完全な球にはならず、片耳だけが外に残っている。


 レイノは笑い、完成した厩舎から宿を見上げた。


 暖炉、浴場、温室食料庫、そして輸送獣が眠れる厩舎。宿はもう、人間だけを休ませる建物ではない。


 残るのは上級客室と、すべてを同時に動かしても品質を落とさない運営だった。


 だが今朝、街道へ戻ったのは人間だけではなかった。その事実だけで、宿の可能性は客室の壁を大きく越えていた。

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