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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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19/20

【第19話】 竜のための小さな寝床

「竜が二頭いる。片方は立てない」


 朝の食堂へ入ったミレナは、荷袋も下ろさずに言った。


 レイノの手が止まる。


「場所は?」


「街道から外れた岩地だ。幼い方が伏せたまま動かない。親はそばを離れず、近づけばこちらを見て翼を開く」


「通行人は?」


「手前で止めた。別方向へ逃がせる道も見てきた。ただ、追い立てるのは無理だ。幼竜が移動に耐えない」


 追い払えば、街道からは離れるかもしれない。その先で幼竜が倒れても、見えなくなるだけだ。


 レイノは卓上の予約札を裏返した。


「今日の新規到着は止める。今いる客は宿から出さない」


「それなら、退避経路は私が持つ」


 ミレナは即座に役割を取った。


「親竜の視線を切るな。背後へ回れば、宿へ向けて動く可能性がある」


「分かった。休ませる場所を作る。追い払うのは、その後だ」


「休めば自分で動く。そこまで持っていければいい」


 荷袋の口から、灰白色の毛がわずかにのぞいた。モフルは外の空気を嗅ぐと、すぐ奥へ引っ込んだ。


 現地へ着いたとき、レイノは竜の大きさを見て、自分の最初の考えが甘かったと悟った。


 親竜は宿の屋根よりも高く、伏せた幼竜でさえ荷車を二台並べたほどの幅がある。黒ずんだ岩地に腹をつけ、浅く速い呼吸を繰り返していた。


 少し離れた場所には、以前整えた魔物用の屋外区画がある。レイノはそこまでの地面を見渡した。


「あの区画を広げて、敷材を増やせば――」


「潰れる」


 ガルドは即答した。


「柵は尾が触れただけで折れる。敷材は重みで沈む。熱が逃げなければ、下から蒸すぞ」


「じゃあ、地面を補強する」


「囲うつもりならやめろ。材料を置くほど親が警戒する」


 実際、人間が二歩進むたび、親竜の首が持ち上がった。翼膜が広がり、地面へ落ちる影が一気に大きくなる。


 ミレナが腕を横へ出した。


「そこまで。親から幼竜と私たちが同時に見える位置を外れるな」


 レイノたちは足を止めた。


 ミレナの荷袋が、小さく震えた。


「モフル」


 短く呼び、袋の横を二度叩く。返ってきたのは、かすかな「ぶるる」だった。外へ出る気配はない。


「怖いなら、そのままでいい」


 ミレナは袋を開こうとせず、身体の前へ抱え直した。


 ところが、袋の中のモフルは奥へ丸まらなかった。親竜から身を隠しながら、幼竜の方角へ身体を向けている。毛先だけが袋口から揺れ、短い「ぷる」が漏れた。


「幼竜を気にしてる?」


「何を感じているかは分からない」


 レイノは近づける範囲の端まで進み、地面へ膝をついた。


 幼竜の下は硬い岩だった。日を受けた熱が逃げず、胸と腹が接する部分だけが暗く湿っている。脚は横へ投げ出され、身体を起こそうとするたび、爪が岩を滑った。


 モフルが反応した理由が熱なのか、硬さなのか、疲労なのかは決められない。だが、幼竜が休めない姿勢は見れば分かった。


「全身を載せる必要はない」


 レイノは岩地へ手をついたまま言った。


「胸と腹を支えて、呼吸のたびに身体がずれない床があればいい。竜を囲わない。親竜にも触れない」


 ガルドの目が細くなる。


「一点で受けるな。地面へ荷を逃がす。熱も抜く」


「設置できる?」


「今回だけならな。冬を越す設備にはしない」


「それでいい。恒久設備にはしない」


 ミレナは親竜と幼竜の位置を見比べた。


「私が先に入る。親の視線をこちらへ残す。ガルドは右から資材、レイノは最後だ。退く合図は一度で従え」


「俺の判断は?」


「床に触れてからだ。それまでは私が決める」


 反論する理由はなかった。


 ファナが運んできた水桶と食料箱を地面へ置く。


「水はこれだけ。食事も、今食べられる分だけだ」


「もっと必要になるかもしれない」


「一般客の備蓄を竜二頭へ流す気はない。親まで食べさせ始めたら続かないよ」


「親竜は受け入れない。幼竜の休息分だけにする」


「なら、この量で足りる形にしな」


 ファナは食料を小分けにし、匂いが広がらないよう蓋を戻した。助けることと、無制限に与えることを混同しない顔だった。


 ミレナが一歩進む。親竜の瞳が動いたが、彼女が幼竜の背後へ回らず、常に正面へ姿を見せていると、翼はそれ以上開かなかった。


「今だ。右から二人」


 短い声で、ガルドが資材を運ぶ。厚い敷材を重ねるのではなく、低い枠を離して置き、その間へ空気が抜ける隙間を残した。上には身体を傷つけない平たい材を渡し、荷重が一か所へ集まらないよう地面へ広く逃がす。


「左、半歩下げろ」


 ミレナの指示で位置が変わる。


「そこなら親から見える。続けろ」


 ガルドは頷くだけで手を止めない。安全条件は彼が決め、近づく順序と退路はミレナが決める。二人の声は短く、食い違えばその場で位置だけが修正された。


 床ができると、レイノは給水場所を幼竜の頭から少し離して置いた。首を大きく持ち上げずに届き、寝床へ水がこぼれない距離だ。


 正式に受け入れるのは、幼竜そのものすべてではない。


 この床と、この水場だけだ。


「ここで胸と腹を休ませる。水を飲み、立ち上がれるまで眠る。そのための場所として受け入れる」


 レイノは床材と給水場所へ意識を絞った。


 熱を閉じ込めず、硬い岩から身体を離し、呼吸の動きを妨げない。実際に用意した範囲だけへ、休息の質を積み上げる。


 床材の軋みが低くなった。表面は柔らかく変わったのではなく、重みを受けたときだけわずかに沈み、離れた場所へ力を逃がす。水場の周囲には熱がこもらず、幼竜が顔を近づけても息苦しくない空気が残った。


 それ以上は重ねない。


 レイノたちは後退した。


 幼竜はすぐには動かなかった。親竜の喉から低い音が響き、岩地が震える。


 やがて幼竜が前脚を引いた。爪が一度滑り、床の端へ触れる。次の動きでは、胸を自分から低い床へ移した。


 巨大な身体の一部だけが、作った場所へ収まる。


 床は沈みすぎず、熱も閉じ込めない。幼竜は首を伸ばして水を飲み、食料を少しだけ口へ入れた。親竜は近づかなかったが、広げていた翼をゆっくり畳んだ。


「もう作業は終わりだ」


 レイノが言うと、ガルドも道具を拾った。


「追加で囲うなよ」


「しない。今は、眠れるならそれでいい」


 宿へ戻る途中、ミレナの荷袋からモフルは最後まで出てこなかった。それでも袋の口は幼竜のいる方向へ向いたままだった。


 翌朝、四人は再び岩地へ向かった。


 ミレナが立ち止まり、荷袋を二度叩く。


「モフル。見るだけだ」


 しばらくして、灰白色の耳が現れた。次に顔がのぞく。モフルは親竜を見た瞬間に毛を身体へ密着させたが、袋の奥へは戻らなかった。


 幼竜が動いた。


 前脚を床へつき、胸を持ち上げる。昨日は滑っていた後脚にも力が入り、大きな身体がゆっくり岩地から離れた。


 レイノは息を止めた。


 幼竜は一度よろめいたが、倒れなかった。親竜が首を寄せると、その横へ自分で歩いていく。


 ミレナが退路を指した。


「街道とは逆へ行く。全員、そのまま動くな」


 親竜は幼竜を外側へかばいながら進んだ。尾は柵にも街道設備にも触れず、二頭の巨体は岩地の向こうへ遠ざかっていく。


 荷袋の口で、モフルが小さく「むぅ」と鳴いた。


 ミレナは指先で毛の状態を一度だけ確かめた。モフルは逃げず、短い接触を受け入れてから、自分で袋の中へ戻った。


「昨日は出てこなかったのに」


「今日は合図を聞いた」


「次も同じとは限らない」


「分かってる。だから、先に聞く」


 レイノは竜親子が消えた先から、残された床へ視線を戻した。


 巨大な身体を収める宿は作れなかった。親竜を客として管理することもできなかった。


 それでも、眠れなかった一部分へ寝床を渡し、幼竜は自分で立った。


「竜一頭分の部屋はいらなかったんだ」


 声が上ずる。レイノは床へ駆け寄りかけ、ミレナに腕をつかまれた。


「まだ親が見ているかもしれない」


「分かってる。分かってるけど、見ただろ。立った。あの大きさが、自分で立った」


「見た。だから先に帰るぞ。客を留めたままだ」


 ガルドは床の留め具を確かめ、首を振った。


「これは残す設備じゃない。熱と重みで傷んでる」


「撤去する。次も同じ形が使えるとは決めない」


 レイノは即答した。


 恒久設備にはしない。旧水場も岩陰も、これで直ったことにはならない。


 だが、宿泊は建物へ全身を入れることだけではなかった。必要な寝床と水場を切り出し、そこだけへ責任を持つこともできる。


 宿へ戻る道で、レイノの頭にはもう、魔物、大型客、竜では何を分けるべきかが次々に浮かんでいた。


「レイノ」


「分かってる。今日は増やさない」


「違う。歩きながら話すな。足元を見ろ」


 ミレナに言われ、レイノは危うく踏み外しかけた石を避けた。


 荷袋の中から「ぷる」と短い声がする。


「二対一か」


「三者の判断だ」


 ミレナはそう言って、宿へ向かう足を少しだけ緩めた。

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