【第19話】 竜のための小さな寝床
「竜が二頭いる。片方は立てない」
朝の食堂へ入ったミレナは、荷袋も下ろさずに言った。
レイノの手が止まる。
「場所は?」
「街道から外れた岩地だ。幼い方が伏せたまま動かない。親はそばを離れず、近づけばこちらを見て翼を開く」
「通行人は?」
「手前で止めた。別方向へ逃がせる道も見てきた。ただ、追い立てるのは無理だ。幼竜が移動に耐えない」
追い払えば、街道からは離れるかもしれない。その先で幼竜が倒れても、見えなくなるだけだ。
レイノは卓上の予約札を裏返した。
「今日の新規到着は止める。今いる客は宿から出さない」
「それなら、退避経路は私が持つ」
ミレナは即座に役割を取った。
「親竜の視線を切るな。背後へ回れば、宿へ向けて動く可能性がある」
「分かった。休ませる場所を作る。追い払うのは、その後だ」
「休めば自分で動く。そこまで持っていければいい」
荷袋の口から、灰白色の毛がわずかにのぞいた。モフルは外の空気を嗅ぐと、すぐ奥へ引っ込んだ。
現地へ着いたとき、レイノは竜の大きさを見て、自分の最初の考えが甘かったと悟った。
親竜は宿の屋根よりも高く、伏せた幼竜でさえ荷車を二台並べたほどの幅がある。黒ずんだ岩地に腹をつけ、浅く速い呼吸を繰り返していた。
少し離れた場所には、以前整えた魔物用の屋外区画がある。レイノはそこまでの地面を見渡した。
「あの区画を広げて、敷材を増やせば――」
「潰れる」
ガルドは即答した。
「柵は尾が触れただけで折れる。敷材は重みで沈む。熱が逃げなければ、下から蒸すぞ」
「じゃあ、地面を補強する」
「囲うつもりならやめろ。材料を置くほど親が警戒する」
実際、人間が二歩進むたび、親竜の首が持ち上がった。翼膜が広がり、地面へ落ちる影が一気に大きくなる。
ミレナが腕を横へ出した。
「そこまで。親から幼竜と私たちが同時に見える位置を外れるな」
レイノたちは足を止めた。
ミレナの荷袋が、小さく震えた。
「モフル」
短く呼び、袋の横を二度叩く。返ってきたのは、かすかな「ぶるる」だった。外へ出る気配はない。
「怖いなら、そのままでいい」
ミレナは袋を開こうとせず、身体の前へ抱え直した。
ところが、袋の中のモフルは奥へ丸まらなかった。親竜から身を隠しながら、幼竜の方角へ身体を向けている。毛先だけが袋口から揺れ、短い「ぷる」が漏れた。
「幼竜を気にしてる?」
「何を感じているかは分からない」
レイノは近づける範囲の端まで進み、地面へ膝をついた。
幼竜の下は硬い岩だった。日を受けた熱が逃げず、胸と腹が接する部分だけが暗く湿っている。脚は横へ投げ出され、身体を起こそうとするたび、爪が岩を滑った。
モフルが反応した理由が熱なのか、硬さなのか、疲労なのかは決められない。だが、幼竜が休めない姿勢は見れば分かった。
「全身を載せる必要はない」
レイノは岩地へ手をついたまま言った。
「胸と腹を支えて、呼吸のたびに身体がずれない床があればいい。竜を囲わない。親竜にも触れない」
ガルドの目が細くなる。
「一点で受けるな。地面へ荷を逃がす。熱も抜く」
「設置できる?」
「今回だけならな。冬を越す設備にはしない」
「それでいい。恒久設備にはしない」
ミレナは親竜と幼竜の位置を見比べた。
「私が先に入る。親の視線をこちらへ残す。ガルドは右から資材、レイノは最後だ。退く合図は一度で従え」
「俺の判断は?」
「床に触れてからだ。それまでは私が決める」
反論する理由はなかった。
ファナが運んできた水桶と食料箱を地面へ置く。
「水はこれだけ。食事も、今食べられる分だけだ」
「もっと必要になるかもしれない」
「一般客の備蓄を竜二頭へ流す気はない。親まで食べさせ始めたら続かないよ」
「親竜は受け入れない。幼竜の休息分だけにする」
「なら、この量で足りる形にしな」
ファナは食料を小分けにし、匂いが広がらないよう蓋を戻した。助けることと、無制限に与えることを混同しない顔だった。
ミレナが一歩進む。親竜の瞳が動いたが、彼女が幼竜の背後へ回らず、常に正面へ姿を見せていると、翼はそれ以上開かなかった。
「今だ。右から二人」
短い声で、ガルドが資材を運ぶ。厚い敷材を重ねるのではなく、低い枠を離して置き、その間へ空気が抜ける隙間を残した。上には身体を傷つけない平たい材を渡し、荷重が一か所へ集まらないよう地面へ広く逃がす。
「左、半歩下げろ」
ミレナの指示で位置が変わる。
「そこなら親から見える。続けろ」
ガルドは頷くだけで手を止めない。安全条件は彼が決め、近づく順序と退路はミレナが決める。二人の声は短く、食い違えばその場で位置だけが修正された。
床ができると、レイノは給水場所を幼竜の頭から少し離して置いた。首を大きく持ち上げずに届き、寝床へ水がこぼれない距離だ。
正式に受け入れるのは、幼竜そのものすべてではない。
この床と、この水場だけだ。
「ここで胸と腹を休ませる。水を飲み、立ち上がれるまで眠る。そのための場所として受け入れる」
レイノは床材と給水場所へ意識を絞った。
熱を閉じ込めず、硬い岩から身体を離し、呼吸の動きを妨げない。実際に用意した範囲だけへ、休息の質を積み上げる。
床材の軋みが低くなった。表面は柔らかく変わったのではなく、重みを受けたときだけわずかに沈み、離れた場所へ力を逃がす。水場の周囲には熱がこもらず、幼竜が顔を近づけても息苦しくない空気が残った。
それ以上は重ねない。
レイノたちは後退した。
幼竜はすぐには動かなかった。親竜の喉から低い音が響き、岩地が震える。
やがて幼竜が前脚を引いた。爪が一度滑り、床の端へ触れる。次の動きでは、胸を自分から低い床へ移した。
巨大な身体の一部だけが、作った場所へ収まる。
床は沈みすぎず、熱も閉じ込めない。幼竜は首を伸ばして水を飲み、食料を少しだけ口へ入れた。親竜は近づかなかったが、広げていた翼をゆっくり畳んだ。
「もう作業は終わりだ」
レイノが言うと、ガルドも道具を拾った。
「追加で囲うなよ」
「しない。今は、眠れるならそれでいい」
宿へ戻る途中、ミレナの荷袋からモフルは最後まで出てこなかった。それでも袋の口は幼竜のいる方向へ向いたままだった。
翌朝、四人は再び岩地へ向かった。
ミレナが立ち止まり、荷袋を二度叩く。
「モフル。見るだけだ」
しばらくして、灰白色の耳が現れた。次に顔がのぞく。モフルは親竜を見た瞬間に毛を身体へ密着させたが、袋の奥へは戻らなかった。
幼竜が動いた。
前脚を床へつき、胸を持ち上げる。昨日は滑っていた後脚にも力が入り、大きな身体がゆっくり岩地から離れた。
レイノは息を止めた。
幼竜は一度よろめいたが、倒れなかった。親竜が首を寄せると、その横へ自分で歩いていく。
ミレナが退路を指した。
「街道とは逆へ行く。全員、そのまま動くな」
親竜は幼竜を外側へかばいながら進んだ。尾は柵にも街道設備にも触れず、二頭の巨体は岩地の向こうへ遠ざかっていく。
荷袋の口で、モフルが小さく「むぅ」と鳴いた。
ミレナは指先で毛の状態を一度だけ確かめた。モフルは逃げず、短い接触を受け入れてから、自分で袋の中へ戻った。
「昨日は出てこなかったのに」
「今日は合図を聞いた」
「次も同じとは限らない」
「分かってる。だから、先に聞く」
レイノは竜親子が消えた先から、残された床へ視線を戻した。
巨大な身体を収める宿は作れなかった。親竜を客として管理することもできなかった。
それでも、眠れなかった一部分へ寝床を渡し、幼竜は自分で立った。
「竜一頭分の部屋はいらなかったんだ」
声が上ずる。レイノは床へ駆け寄りかけ、ミレナに腕をつかまれた。
「まだ親が見ているかもしれない」
「分かってる。分かってるけど、見ただろ。立った。あの大きさが、自分で立った」
「見た。だから先に帰るぞ。客を留めたままだ」
ガルドは床の留め具を確かめ、首を振った。
「これは残す設備じゃない。熱と重みで傷んでる」
「撤去する。次も同じ形が使えるとは決めない」
レイノは即答した。
恒久設備にはしない。旧水場も岩陰も、これで直ったことにはならない。
だが、宿泊は建物へ全身を入れることだけではなかった。必要な寝床と水場を切り出し、そこだけへ責任を持つこともできる。
宿へ戻る道で、レイノの頭にはもう、魔物、大型客、竜では何を分けるべきかが次々に浮かんでいた。
「レイノ」
「分かってる。今日は増やさない」
「違う。歩きながら話すな。足元を見ろ」
ミレナに言われ、レイノは危うく踏み外しかけた石を避けた。
荷袋の中から「ぷる」と短い声がする。
「二対一か」
「三者の判断だ」
ミレナはそう言って、宿へ向かう足を少しだけ緩めた。




