2-9 真天先輩とビーフシチュー
ゆったりとクラシックの旋律に耳を澄ましているうちに、陽が傾いてきた。
そこへ狩谷さんがやってくる。
「お風呂の準備が整いました」
「……それじゃあ、俺が先に入っていいですか?」
チラッと真天先輩を見ると、柔らかい笑みを返される。
「心配しなくても、もう突撃はしませんよ。おひとりでのんびりどうぞ」
「あ、はい」
真天先輩は一度言ったことはきっちり守ってくれる人だ。自制を保ってくれている――という言い方は変かもしれないが。
俺は浴室に向かった。体をしっかり洗って綺麗にしてから、今日も勢いよく噴き上がるジェットバスに身を投じる。
「ふうう……」
大の字になってリラックスする。肩や背中ががじんわりとほぐれていく。
今日はずっと屋内にいたけれど、とても有意義な時間だった。
俺は小説家として、なるべく多くのことを知っていないといけない。チェスもビリヤードもクラシック鑑賞も、根本的にはただの道楽かもしれないが、俺にとってはどれも貴重な体験だ。
まあ、小説執筆に役立てようなんて気持ちばかりが先行するのは健全じゃないかもな。
第一に、真天先輩と楽しい時間を過ごす。そこは忘れないようにしよう。
三十分くらいかけてお湯の中で温まり、浴室を出た。
キッチンに顔を出すと、真天先輩と狩谷さんが仲良く並んで料理をしている。
「お風呂上がりましたー」
「はーい。お夕飯がちょうど出来上がりますからね」
真天先輩は裸エプロンではなく、普通のエプロン姿だった。よかった。
「ずいぶん時間をかけてたみたいですけど……」
「今宵はビーフシチューでございます」
狩谷さんが言った。鍋の中でおたまをクルクルしている。
「ビーフシチューは弱火でコトコト、二~三時間は煮込むのが普通ですので」
「そ、そんなに手間をかけた料理を……? 嬉しいな」
「わたしも他のおかず、いっぱい作りましたよ。さ、唯人くんはお席でどんと構えて待っていてくださいな」
食堂でワクワクしながら待っていると、豪勢な料理が運ばれてきた。
「すごいな……見ただけでトロットロなのがわかりますよ」
深みのある、濃厚な褐色のビーフシチュー。思わずよだれが滲んできた。
「それじゃ、いただきましょう♪」
「うん、いただきます!」
まずはスプーンでシチューのみをすくい、口に含む。
「くううっ……美味い!」
シチューの中にこれでもかと溶け出している肉と野菜の旨味が、口内粘膜をじんわりと覆い、内側に浸透していくようだった。
さて、いよいよ本命のビーフを……ぱくり。
「うっ、おおっ……これは……!」
歯で軽く噛んだ瞬間、ホロホロに分解されていく。そしてシチューと混ざり合い跡形もなくなっていく。肉とは形を保ったままで、ここまで柔らかくなるものなのか。
「はあ……ゾクゾクしちゃう……♪」
真天先輩も頬が落ちそうになっている。何だか官能的な表情だった。
ふたり揃って他のメニューには目もくれず、あっという間にビーフシチューを平らげてしまった。
「お、おかわりありますか?」
「そうおっしゃると思いましたので、多めに作っております」
「わたしにもください!」
運ばれてきた二食目を、今度は付け合わせもバランスよく食べながらさっき以上に味わっていった。
「しかし狩谷さんって、なんでもプロ並みに作れるんですね?」
「ご家族に喜んでいただけるよう、いろんな料理を頑張って覚えました。その技をお嬢様にお伝えできるのは光栄です」
「ビーフシチュー、作り方はばっちり教わりましたから。唯人くんのおうちでも作ってあげたいですね」
「うん。月に一度のごちそうにするとか」
和やかで幸せな夕食の時間だった。でも毎日こんな風だと幸せすぎる。きっと、たまにだからいいんだよな。
「ごちそうさまでした。今夜も最高に美味しかったです」
「お粗末様でした。明日もお楽しみに」
「じゃあ、わたしはお風呂に入ってきますね」
真天先輩が立ち上がる。俺も続いて席を立った。
「俺は部屋に戻ってますんで」
「二度風呂もおすすめですよ?」
「いや、いいですから……ひとりでゆっくりしてください」
「本当におすすめなのに」
真天先輩は苦笑いしながら浴室に向かっていった。
「我和様」
「なんですか狩谷さん。もっと男の欲望に身を任せろとか言わないでしょうね」
「そう申し上げたい気持ちも正直ございますが……お嬢様を大切にしていただいていることに感謝いたします」
ほとんど表情を崩さない狩谷さんだが、ほんの少し唇を曲げた。
「そのことも確かに、私の正直な気持ちでございます――とお伝えしたく」
「……はい。そう言ってもらえると俺も気が楽です」




