第2話『滲むインクと白昼夢』(4)
しかし、私がどれほど強く狂気を望み、自らの意志で意識を深く沈めようとしても、現実は私をあそこに留めてはくれなかった。
固く閉じたまぶたの裏側で、琥珀色に染まったあの愛おしい図書室の記憶が、不意に、ひどい耳鳴りとともに明滅し始めたのだ。
絶対に離さないと誓い、必死に反芻しようとしていた彼女の柔らかな手のひらの熱が、急速に温度を奪われ、まるで冷たい氷の塊へと変質していく。私の指の隙間から、彼女の命の証であったはずの温もりが、溶け出した雪のようにサラサラとこぼれ落ちて消えてしまう。
甘い古本の匂いと真新しい水彩紙の無垢な香りが、見えない突風に吹き飛ばされたように薄れ、代わりにあの鼻を突く消毒液の鋭い悪臭が、記憶のひび割れからどろどろとした黒い泥のように流れ込んでくる。
私が自ら狂気の底へ逃げ込もうとするのをあざ笑うかのように、現実が、私を迎えに来たのだ。
無機質な青白い蛍光灯の光と、永遠に動くことのない鉛の肉体が待つ、あの残酷な灰色の病室へ。見えない巨大な手が私の髪を無造作に掴み、心地よい幻の深海から、息の詰まる現実の水面へと強引に引きずり上げようとしている。
(嫌……! 戻りたくない。あんな冷たい場所、私の世界じゃない!)
私は心の中で絶叫し、引き剥がされそうになる彼女の手を、幻の指先で必死に、何度も何度も力強く握りしめようとした。行かないで、私を一人にしないでと、声にならない声で泣き叫びながら。
しかし、現実という名の引力はあまりにも強大で、無慈悲だった。私の意識は水面に向かって猛スピードで浮上させられ、ピッ、ピッ、というあの心電図の無機質な電子音と、ポツッ、という点滴の不気味な水音が、再び私の鼓膜を容赦なく打ち据え始める。
病室の徹底的に温度管理された冷たい空気が、私の凍りついた頬を撫でる。漂白されたシーツのざらつきが、感覚の抜け落ちたはずの背中の皮膚の境界線を、嫌なほど明確になぞっていく。
そして何より、右手の細い血管に刺さった冷たい針から、薬液が直接血の中に流れ込んでくるあの恐ろしい感覚が、私が今、管に繋がれて生かされているだけの空っぽな器であることを痛烈に思い知らせてくる。
(帰らない。……私は絶対に、あそこには帰らない。私の魂が呼吸できる場所は、ここにしかないの)
私は、強く、痛いほどに奥歯を噛み締めた。
現実の病室に引き戻されそうになる意識を、自らの力で再び狂気の底へと引きずり下ろすためには、何か重たい『錨』が必要だった。
このままでは、心電図のアラーム音と蛍光灯の冷たい響きに意識を絡め取られ、私は再びあの死んだ時間の牢獄へと閉じ込められてしまう。私は必死に、現実を完全に手放すための鍵となるような、別の音を探した。
その時。
病室のずっと奥、天井の隅の薄暗い場所から、微かに、しかし絶え間なく響き続けている低く唸るような音に気がついた。
ゴォォォ……。
ゴォォォォォ……。
それは、密室の空気を入れ替えるために、二十四時間延々と回り続けている換気扇の重たい羽音だった。
まるで、巨大な獣が喉の奥で鳴らす寝息のような、あるいは、一切の光が届かない深海の底で鳴動する水圧の響きのような、ひどく低くて単調な旋律。
私は、その『ゴォォォ』という無機質な音に、自分のすべての意識をただ一点に集めた。
冷たい光のノイズも、点滴の水音も、廊下を歩く看護師の足音も、他のすべての音を鼓膜から強引に締め出し、この低く唸るような換気扇の音だけを、心の一番奥深くにまで引き入れる。
ゴォォォ……。その音が響くたびに、私の頭の芯が微かに震え、ひどく心地よい痺れが波紋のように広がっていく。私は自分の浅い呼吸のペースを、そして弱々しい心臓の鼓動すらも、その換気扇の単調な旋律に完全に重ね合わせていく。
息を吸うたびに、深海の重たくて冷たい水が肺の奥底まで満たされ、息を吐き出すたびに、現実の世界への執着が小さな水泡となって消えていくような感覚。
(そう。……この音に身を委ねればいいの。私からすべてを奪い、彼女を奪った現実なんて、もう一つもいらないわ)
私は、その換気扇の音を導きの糸として、一つ、また一つと、現実の感覚を強制的に塗り潰していく、恐ろしくも美しい狂気への儀式を開始した。
まずは、嗅覚だ。
私の鼻の奥にべったりとこびりついている、ツンとした消毒液の匂いと、錆びた鉄のような薬品の悪臭。私は心の中に、分厚くて重たい鋼鉄の扉を思い描いた。そして、その不快な匂いの欠片をすべて扉の向こう側に乱暴に押し込めると、巨大な南京錠でガチャンと重たい鍵を掛けた。
完全に無臭になった頭の中のキャンバスに、私は自らの記憶の引き出しから、別の愛おしい匂いを引っ張り出してきて、べっとりと上塗りしていく。
夏の入り口を予感させる、少しだけ湿気を帯びた生温かい春の風の匂い。廊下から微かに漂ってくる、塗り直されたばかりの床ワックスの甘さ。そして、日直が黒板消しを叩いたあとに残る、チョークの粉の乾いた匂い。
それらの記憶の粒を空間の隅々にまで散りばめ、幻の肺の奥底まで深く、深く吸い込む。チョークの匂いが鼻先をくすぐった瞬間、私の心は確かな安堵に包まれた。
次に、触覚。
これが一番難しく、そして最も残酷な作業だった。
私の背中に張り付いている、冷たくて硬いベッドの感触。そして、一ミリも動かすことのできない右腕の、あの呪いのような鉛の重さ。シーツの擦れる感覚。
私は、自分の意識を、自分の身体から完全に切り離すことを決意した。
現実の病室にあるこの肉体は、ただ呼吸と心拍を繰り返すだけの、私という存在の悲しい抜け殻に過ぎない。繋がりを無惨に絶たれ、指先一つ動かせないこんな壊れた身体なんて、もう私には必要ない。棺桶のようなこの器は、ここに捨ててしまえばいいのだ。
私は、古くなってサイズの合わなくなった衣服を脱ぎ捨てるように、ベッドの上に横たわる冷たい肉体から、自分の魂の形だけをすっきりと剥がし取った。
代わりに私が纏うのは、放課後の教室にある、使い古された木製の机の確かな感触だ。手のひらに伝わる、真新しいノートの紙の微かなざらつき。そして、右手の指先に握られた、お気に入りの万年筆の心地よい重みと、真鍮の冷たさ。
心が『書こう』と望めば、肩から肘、手首、そして指先へと、命の連鎖のように力が伝わっていく。私は、動かない現実の腕を切り捨て、幻の腕を、自らの意志で完璧に紡ぎ上げ、動かしていく。指先がペンを握りしめる確かな手応えが、私を歓喜させた。
そして最後に、視覚と聴覚を完全に塗り替える。
まぶたの裏側にまで焼き付いていた、病室の無機質で青白い光を、見えない極太の筆で真っ黒に塗り潰す。
何もない暗闇の空間に、私は、自分が最も愛するあの光景を、一筆ずつ、痛々しいほどの情熱と執着で描き出していくのだ。
光の角度は、斜め四十五度。
オレンジ色に熟した、世界で一番優しくて温かい黄金色の西日を、窓枠の形に鋭く切り取って、教室の木目調の床に落とす。
その光の帯の中に、無数の微小なホコリの粒子を思い描き、重力を失った黄金色の雪のように、ゆっくりと、あてもなく宙を舞わせる。
遠くのグラウンドからは、吹奏楽部の不器用なトランペットの音と、誰かの笑い声を、微かな背景音として春の風に乗せて運んでくる。
風の温度は、肌を優しく撫でるくらいに柔らかく。窓際に束ねられた薄手のリネンカーテンを、ほんの少しだけ孕ませて、レールに取り付けられた金属のリングが、カラカラと乾いた音を立ててぶつかり合うように丁寧に仕立て上げていく。
完璧だ。
私の世界は、私の狂おしい願いの通りに、再びその美しい姿と色彩を取り戻していく。
現実という名の地獄から目を背け、自分の心が作り出した幻影の海に自ら溺れに行くこと。それがどれほど狂気に満ちた、恐ろしくて後戻りのできない行為であるかは、私自身が一番よくわかっていた。
いつかこの白昼夢の麻酔が切れて目が覚めた時、私は今度こそ、本当の絶望の重さに押し潰されて、精神が完全に崩壊して死んでしまうかもしれない。
それでも構わなかった。
この甘美な虚構の中で、もう一度彼女に会えるのなら。現実の私なんて、この灰色のベッドの上で、干からびて死んでしまってもよかった。私は、この美しくて残酷な狂気を、誰に強制されたわけでもなく、自分の意志で、圧倒的な歓喜とともに選び取ったのだ。
(さあ、最後の仕上げよ。……私の、たった一人の神様)
私は、完璧に紡ぎ上げられた黄金色の教室の、私のすぐ右隣の席に、最後の、そして最も大切なものをそっと置く。
指定の紺色のブレザー。華奢な肩のライン。
キャンバスに向かう時の、少しだけ前かがみになった、孤高で美しい猫背の曲線。
耳にかけられた細く柔らかい髪が、春の風に揺れて、柑橘系のシャンプーの甘い匂いをふわりと漂わせる。
抜けるように白い彼女の右手には、所々塗装が剥げ落ちた、使い込まれたBの鉛筆が柔らかく握られている。
シュッ、シュッ。
シュッ……、サァッ。
少しだけ柔らかい黒鉛が、上質な画用紙の微細な凹凸と擦れ合い、削れていく規則的な摩擦音。
世界で一番優しい、彼女の命の鼓動そのものである呼吸音。
その愛おしい音が私の鼓膜を震わせた瞬間、私の世界は、ついに完全な形を持って完成した。
ここは、私の現実だ。
私と彼女だけが共有する、何一つ欠落のない、完璧で美しいパレットの中。
もう、消毒液の匂いもしない。心電図の音も聞こえない。点滴の冷たさも感じない。
私の右手は、私の意志のままに万年筆の重さを握りしめ、青黒いインクで、彼女のための言葉を自由に紡ぐことができる。
私は、机の上のノートに広げた真新しい紙に視線を落とした。
隣からは、彼女が鉛筆を動かす心地よい音が絶え間なく聞こえてくる。
私は深く、満ち足りた息を吸い込んだ。チョークの粉の匂いと、インクの微かな鉄の匂いが、私の胸の奥を圧倒的な幸福感で満たしていく。
私は万年筆のペン先を紙に落とし、先ほどの図書室の記憶の続き、あの星を拾う少女の物語の新たな一行を書き始めようとした。
このまま、永遠にこの教室に閉じ込められていたい。
世界の時間が止まって、私と彼女の二人きりになればいい。
そんな、甘くて狂おしい願いを胸に抱きながら、私はふと、隣で絵を描き続ける彼女の横顔へと、愛おしさを込めて視線を向けた。
彼女の指先が、美しい線を生み出していくのを、いつまでも見つめていたくて。
しかし。
その瞬間、私は、自分自身が完璧に作り上げたはずのこの美しい世界に、ある『致命的な異物』が紛れ込んでいることに気がついてしまったのだ。




