第2話『滲むインクと白昼夢』(5)
その『取り返しのつかない異物』は、私が自らの魂を削って構築した完璧な世界の中央に、あまりにも無防備に、そして暴力的なまでの違和感を持って存在していた。
私は、黄金色の西日が差し込む教室の机で、お気に入りの万年筆を握りしめていた。
隣の席からは、彼女が画用紙に鉛筆を走らせる、シュッ、シュッという世界で一番優しい呼吸音が絶え間なく聞こえてくる。私はその愛おしい音に全身を包まれながら、深い安堵と幸福感の中で、真っ白なノートの紙面にペン先を滑らせようとしていた。
私と彼女で紡ぐ、あの『星を拾う少女』の物語。その続きの言葉を、ブルーブラックのインクでこの世界に永遠に定着させるために。私の心臓は喜びに打ち震え、頭の中には美しくて悲しい言葉の羅列が、次々と溢れ出していた。
ペンの確かな重み。真鍮のひんやりとした冷たさ。指先から伝わってくる、自分の身体を自分の意志で完全に支配しているという確かな全能感。
しかし、いざ最初の文字を書き出そうとして、ノートの上に置かれた自分の右手へと視線を落とした瞬間だった。
私の心臓の鼓動が、不自然にドクン、と大きく跳ねた。
万年筆の黒いグリップを柔らかく握りしめる、私の右手の人差し指。その第一関節から指の腹にかけての抜けるように白い皮膚の上に、べっとりと、見覚えのある鮮やかな染みが付着していたのだ。
セルリアンブルー。
夏の日の高い空の隙間から覗くような、少しだけ緑みを帯びた、目が痛くなるほどに澄み切った青色。
それは、今まさに私の隣で鉛筆を動かしている彼女が、先ほどまでパレットの上で『夜の色』を混ぜ合わせるために使っていた、あのアクリル絵の具だった。
(え……? どうして?)
私は息を呑み、万年筆を握ったまま自分の指先をまじまじと見つめた。
おかしい。そんなはずない。
確かに私は、風に煽られたスケッチブックを押さえる彼女の左手に、自分の右手を伸ばして触れた。その時、彼女の人差し指についていたセルリアンブルーの絵の具のざらつきと、その下にある熱い体温を確かに感じ取った。
だが、その青い絵の具が、私の指に『移る』ことなんてあり得るだろうか。
彼女の指についていた絵の具は、すでに水分を失い、完全に乾ききって皮膚のシワに張り付いていたはずだ。だからこそ、触れた時にアクリル絵の具特有の無機質なざらつきを感じたのではないか。乾ききった絵の具が、ほんの一瞬触れ合っただけで、まるで液体のインクのように私の指先へべっとりと写し取られるなどという現象は、絶対にあり得ない。
それに、私の指先に付着しているこの青色は、どう見ても乾いてなどいなかった。
絵の具は微かな水分を含んで艶やかに光り、私の指紋の細かな溝の奥深くにまで、ねっとりと入り込んでいる。顔を近づけなくとも、インクの鉄の匂いをかき消すほどの強烈さで、あの絵の具特有の糊の匂いが鼻先を突いてくる。まるで、つい数秒前に、チューブから絞り出したばかりの生の絵の具を直接指の腹に塗りつけられたかのような、生々しい質感と匂いだった。
(どうして、私の指に絵の具が? 私はまだ、パレットにも筆にも触れていないのに。……それに、この青色は、彼女だけのもののはずなのに)
完璧だったはずの黄金色の世界が、微かにグラリと揺れた。
私の心が必死に組み立ててきた記憶の糸と幻影の繋がりに、決定的な矛盾が生じている。
この生乾きの青色は、一体どこからやってきたのか。
私は、自分の指先に張り付いたその異物から、どうしても目を逸らすことができなかった。セルリアンブルーの鮮烈な色彩が、私の瞳を焼き、心の奥底にまで冷たい疑問符を突き刺してくる。
隣で響く鉛筆の音が、急に遠く、くぐもった音に聞こえ始めた。温かかったはずの西日の光が、急速にその温度を失っていくのがわかる。
私の世界が、たった一つの青い染みのせいで、足元から音を立てて崩壊し始めていた。
**
灰色の病室は、ただ冷徹な現実の理と無機質な音だけが支配する静寂の中にあった。
徹底的に温度と湿度が管理された、無菌室に近い厳重な個室。
壁は色のないオフホワイトで塗られ、天井からは青白い蛍光灯の光が、部屋の隅々にまで均等に、暴力的なほどの明るさで降り注いでいる。そこには、夕暮れの教室のような美しい陰影も、感情を揺さぶるような色彩の変化も存在しない。
部屋の隅に設置された換気扇が、ゴォォォ……という低い音を延々と鳴らし続け、空気を絶え間なくかき混ぜている。
強烈な消毒用アルコールの匂い。床を磨き上げた薬品の錆びたような悪臭。そして、毎日交換される糊の効いたシーツの、漂白された生気のない匂い。それらが混ざり合った、病院特有の空気がこの部屋を満たしている。
その部屋の中央に置かれた、冷たいスチール製のベッド。
そこに、月城詩織の肉体は静かに横たわっていた。
彼女は、完全に目を閉じている。
まぶたの裏側でどれほど激しく絶叫し、どれほど狂おしく世界が崩壊していようとも、現実の彼女の身体は、微かな寝息一つ立てることなく、死んだように静まり返っていた。
青白い光に照らされた彼女の顔は、ひどく血の気が引いており、透き通るように白い。頬には、先ほどまで流していた涙の痕が、乾いて薄い塩の道を作ってこびりついている。しかし、今の彼女の表情には、少し前のあの胸を掻き毟るような絶望も、息が詰まるほどの悲哀も、一切残されていなかった。
眉間のシワは完全に解け、ひび割れた唇は微かに緩み、まるで幸福な夢を見ている幼子のように、あまりにも穏やかで安らかな表情を浮かべている。それは、現実のあらゆる苦痛から完全に意識を切り離し、自らの内側に構築した狂気の白昼夢へと無事に逃げおおせた人間の、不気味なほどの静寂だった。彼女の魂はもはやこの身体にはなく、あの完璧な放課後の教室へと旅立ってしまったのだ。
ベッドの脇には、彼女の命を辛うじてこの世界に繋ぎ止めている、冷たい医療機器が立ち並んでいる。
心拍を測るモニターが、緑色の波形を規則的に描き出しながら、ピッ、ピッ、と無慈悲な電子音を等間隔で鳴らし続けている。
その隣にそびえ立つ、金属製の点滴スタンド。
吊るされた透明な袋の中から、鎮痛剤の混ざった薬液が、細い管を通ってポツッ、ポツッとプラスチックの筒の中に滴り落ちている。その透明な液体は、長い管を這うようにして下り、ベッドの上に横たわる彼女の右腕の血管へと、絶え間なく流れ込んでいく。
シーツの上に投げ出された、彼女の右腕。
あの凄惨な事故によって、首から下の身体を繋ぐ命の糸を完全に断ち切られてしまった肉体。関節の張力を失い、動くことをやめたその腕は、ただ重力という抗いようのない力に従って、マットレスの柔らかい繊維の中に深く沈み込んでいた。
青い血管が薄い皮膚の下に透けて見える手の甲には、点滴の針が医療用の透明なテープで固く固定されている。五本の指は、力を失ってだらりと開き、シーツの漂白された白さの上に無防備に投げ出されていた。
ベッドのすぐ横に置かれた、白いスチール製の小さなテーブル。
そこには、一冊の大きなスケッチブックが置かれている。
表紙の右半分をべったりと覆い尽くしているのは、完全に乾ききり、赤黒く変色してしまった巨大な血痕だ。あの日、トラックの重さに押し潰された少女の体内から吹き出し、この紙の上に確かな重みと熱を伴って降り注いだ命の痕跡。
鉄が錆びたような暗褐色に変色したその血の染みは、ここが疑いようのない現実であり、過ぎ去った時間は二度と戻らないことを残酷に証明している。
テーブルの上のスケッチブック。そして、ベッドの上に投げ出された、動かない右腕。
両者の間には、わずか三十センチほどの距離が存在している。しかし、繋がりを絶たれた彼女の身体にとって、その三十センチは、地球の裏側よりも遠く、絶対に飛び越えることのできない絶対的な断絶の空間だった。
部屋には、換気扇の低い音と、機械の電子音だけが響いている。
何も起こらない。誰もいない。
これが、残酷なまでに退屈で、確固たる現実の理に守られた、この世界のすべてであるはずだった。
しかし。
その完璧で冷徹な現実の風景の中に、あり得ない『ほころび』が存在していた。
シーツの上に力なく開かれた、彼女の右手の指先。
微かな産毛。透き通るような皮膚。点滴の冷たさによって、少しだけ血の気を失った指の腹。
その、ピクリとも動かないはずの右手の人差し指の先端に。
第一関節から指の腹を覆うようにして、あるはずのない色彩が、べっとりと付着していたのだ。
セルリアンブルー。
それは、灰色の病室にも、赤黒い血痕にも、真っ白なシーツにも絶対に属さない、鮮烈で暴力的な青色だった。
青白い蛍光灯の光を反射して、その染みは微かな艶を放っている。
光の加減や、血管の色が透けて見えているといった、錯覚や見間違いなどではない。それは間違いなく、確かな手触りと厚みを持った、現実の『物質』だった。
絵の具特有の、微細な色の粒が糊と混ざり合った不透明な塊。それが、彼女の指紋の細かな溝の奥深くにまで入り込み、皮膚のシワを埋め尽くすようにして張り付いている。
さらに恐ろしいのは、その絵の具の『状態』だった。
指先に付着したセルリアンブルーは、縁の部分こそ乾いて光沢を失い始めているが、中央の最も厚みのある部分は、まだ水分をたっぷりと含んでおり、生々しい濡れたような光沢を保っていたのだ。
それはすなわち、この絵の具が彼女の指先に付着してから、まだ数分から数十分しか経過していないという、決して揺るがない現実の証拠を示している。
あり得ない。
この無菌室のような病室のどこにも、絵の具のチューブなど存在しない。テーブルのスケッチブックに染み付いているのは、完全に乾ききった数ヶ月前の暗褐色の血液だけだ。
そして何より、月城詩織の右腕は、医学的にも、現実的にも、絶対に動かすことができないのだ。
彼女が自ら手を伸ばして、どこかから絵の具を触ってきたはずがない。誰かがこの部屋に入ってきて、眠っている彼女の指先に悪戯で絵の具を塗りつけた形跡もない。
ならば、この生乾きのセルリアンブルーは、一体どこからやってきたというのか。
まるで、彼女の狂気的なまでの渇望が、現実の理を破壊して、この世界に溢れ出してきたかのように。
あるいは、彼女が心の底まで潜り込んで到達したあの『放課後の教室』が、ただの白昼夢などではなく、確かに並行して存在するもう一つの現実であり、彼女の魂がそこから確かな証拠を掴んで引きずり出してきたかのように。
病室の冷たい空気の中に、微かに、しかし確かに、絵の具と糊が混ざり合った、あの独特の匂いが漂い始めていた。
消毒液の匂いを切り裂いて漂う、夏の入り口の空の匂い。
決して交わるはずのない、虚構と現実。
その絶対的な境界線が、彼女の指先を起点にして、今、音を立てて崩壊し始めていた。
ピッ……。
ピッ……。
機械の規則的な電子音だけが、何も知らないふりをして、冷たく病室の時間を刻み続けている。
目を閉じたまま微笑む彼女の、動かない人差し指の先端で。
現実を侵食する鮮烈な青色は、蛍光灯の光の下で、生々しく、そして誇らしげに濡れた光沢を放ち続けていた。




