第3話『境界線上の栞』(1)
巨大な獣が喉の奥で鳴らす寝息のような、あの低く重たい換気扇の唸り声が、暗闇の中で私を深く、どこまでも深く導いていく。
固く閉ざしたまぶたの裏側で、私は自らの魂を現実の肉体から引き剥がすための、恐ろしくも甘美な儀式を執り行っていた。耳の奥にへばりついていた青白い蛍光灯の刺々しい響きや、私の命がただの物体として管理されていることを突きつけてくる心電図の無慈悲な電子音を、すべて分厚い泥の底へと沈め込んでいく。
呼吸の刻む間隔を、換気扇の単調で重たい旋律に完全に重ね合わせる。息を吸い込むたびに、一切の光が届かない深海の冷たい水が私の肺をたっぷりと満たし、息を吐き出すたびに、灰色の病室に対するわずかな未練や、動かない身体に対する絶望の欠片が、小さな水泡となって暗闇の中へ消えていく。
やがて、私の背中や後頭部に張り付いていた、あの糊の効いた漂白されたシーツの不快なざらつきが、ゆっくりと、しかし確実に遠のいていくのがわかった。
私の鼻の奥にべったりとこびりつき、呼吸をするたびに肺を焼き尽くそうとしていたツンとした消毒用アルコールの匂い。床を磨き上げた薬品の錆びたような悪臭。それらの『死を待つ場所』の匂いが、見えない春の突風に洗い流されるように薄れ、空間が一度、何もない無臭の純白へと還っていく。
そこへ、私が自らの記憶の引き出しの一番奥深くから引っ張り出してきた、愛おしい匂いの粒を、一つずつ、丁寧に、キャンバスに絵の具を乗せるようにして塗り重ねていくのだ。
まずは、何十年もの時間をかけて日に焼け、ゆっくりと朽ちていこうとしている古い紙の匂い。分厚いハードカバーの装丁に使われている、乾いた糊と布の匂い。磨き込まれた古い木製の床板が放つ、乾いた木の匂い。日直が黒板消しを叩いたあとに残る、チョークの粉の匂い。それから、ほんの少しだけ湿気を帯びた生温かい春の風の匂いと、隣に座る彼女の髪からふわりと漂ってくる、もぎたての果実のような柑橘系の甘い香り。
それらの匂いが混ざり合い、私の幻の肺の奥底までたっぷりと満ちた瞬間。私の耳を塞いでいた換気扇の低い羽音は、遠くのグラウンドから風に乗って運ばれてくる、吹奏楽部の不器用で柔らかい管楽器の音色へと、完全にすり替わっていた。
恐る恐る、重たかったまぶたを押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、息が詰まるほどに美しい、あのはちみつを溶かしたような琥珀色の空間だった。
私を尋問室のように照らし出していた、青白い蛍光灯の無慈悲な光はもうどこにもない。窓の外からは、オレンジ色に熟しきった世界で一番優しくて温かい黄金色の西日が、斜め四十五度の完璧な角度で差し込んでいる。その光の帯は、磨き上げられた古い木目調の床や、壁一面を覆い尽くし天井まで届く本棚の背表紙たちを、とろけるような黄金色に染め上げていた。光の射し込む空間には、無数の微細なホコリの粒子が、重力を失った黄金色の雪のように、あてもなくゆっくりと宙を舞っている。
私は、その光の粒の一つ一つを愛おしむように見つめながら、大きく、そして深く、満ち足りた深呼吸をした。
チョークの粉と古い紙の匂いが、私の胸の奥を幸福感で満たしていく。
ここは、旧校舎の奥深くにある図書室。
顔馴染みの図書委員が帰った後、誰も訪れることのない、放課後の静寂だけが重たく沈殿する、私たち二人だけの秘密の聖域。世界から切り離された病室という名の地獄から目を背け、私はついに、再びこの完璧で美しい揺り籠の中へと帰還を果たしたのだ。
足の裏に、軋む木製の床の確かな感触がある。
私は、ゆっくりと右足に体重をかけ、次いで左足を踏み出してみた。
動く。私の身体が、私の意志の通りに動いている。
関節が滑らかに曲がり、筋肉が体重を支え、確かな重力という見えない力が、私をしっかりとこの床の上に立たせてくれている。あの灰色のベッドの上で、どれほど叫んでも、どれほど涙を流しても一ミリたりとも動かすことのできなかった鉛の身体は、もうここにはない。
自分の足で立ち、自分の意志で空間を移動できるという、健康な人間にとっては息をするのと同じくらい当たり前で、取るに足らない行為。それが今の私にとって、どれほど尊く、どれほど涙が出るほど奇跡的なことか、誰にもわかりはしないだろう。私は、一歩足を踏み出すたびに足の裏から伝わってくる微かな衝撃と、重力に逆らって身体を支える筋肉の心地よい疲労感を噛み締めながら、図書室の一番奥にある、あの大きな閲覧テーブルへと向かって歩を進めた。
「どうしたの、詩織。さっきから、そんなに深く息を吸い込んで、足元を見つめたりして」
不意に、すぐ近くから鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
びくっとして顔を上げると、そこには、西日を背にして閲覧テーブルに向かって座る、彼女の姿があった。
指定の紺色のブレザー。華奢な肩のライン。キャンバスに向かう時の、少しだけ前かがみになった、孤高で美しい猫背の曲線。窓から差し込む西日が、耳にかけられた彼女の細く柔らかい髪を透かし、神々しいほどの光の輪を作っている。
抜けるように白い彼女の右手には、所々塗装が剥げ落ちた、使い込まれたBの鉛筆が柔らかく握られていた。机の上には、私たちが以前、あの坂道の下にある画材屋で一緒に買った、大判の最高級水彩紙が広げられている。
シュッ、シュッ。サァッ……。
少しだけ柔らかい黒鉛が、水彩紙の微細な凹凸と擦れ合い、削れていく規則的な摩擦音。それは私にとって、世界で一番優しくて、愛おしい、彼女の命の鼓動そのものだった。彼女はつい今まで、その真っ白な紙の上に、私たちが紡ぐ物語のための新しい景色を描き出していたのだろう。
「ううん、なんでもないの。ただ……ここにある空気が、すごく美味しいなって思っただけ」
私が微かに震える声でそう答えると、彼女はきょとんとした顔をして瞬きを繰り返し、それからもう一度、本当に可笑しそうにくすくすと笑った。
その声の響き。その笑顔の柔らかさ。
ああ、間違いない。本当に彼女だ。私のたった一人の神様。私の命のすべて。
彼女が生きている。あの恐ろしいトラックの金属音に潰されることなく、私の目の前で、温かい体温を持って、穏やかに呼吸をしている。
その揺るぎない事実を目の当たりにした瞬間、私の胸の奥にどろどろと溜まっていた、恐ろしくて暗い不安の塊が、春の陽射しに当てられた雪のように、嘘のように溶けて消えていくのがわかった。
私が作り上げたこの世界は、完璧だ。現実の残酷さなど、ここには一ミリも入り込む余地はないのだ。
私は、彼女のすぐ右隣にある使い込まれた木製の椅子に、そっと腰を下ろした。
座面の木のひんやりとしつつもどこか温かみのある手触りが、制服のスカート越しに伝わってくる。自分の意志で右手の指を曲げ、テーブルの滑らかな縁をゆっくりと撫でてみる。
動かない右腕の呪いのような重さも、静脈に刺さった点滴の針の氷のような冷たさも、他人の手によって乱暴に身体をひっくり返されるあの透明な屈辱も、ここには何一つ持ち込まれていない。
私の身体は、私の願いの通りに動く。私の隣には、彼女がいる。私の右手には、彼女のための言葉を紡ぐための万年筆の心地よい重みがある。
外の世界なんて、もうどうでもよかった。
窓の外の現実で誰が泣いていようと、看護師が私を哀れな目で見下ろしていようと、明日という日が私に永遠に訪れなかろうと、そんなことは私にとって何の価値も、何の意味もない。
ただ、この閉ざされた琥珀色の部屋の中で、インクが紙に染み込む音と、鉛筆が線を引く音だけを静かに響かせながら、二人きりで、永遠の放課後に溺れていられるのなら。この美しくて狂おしい時間が、誰にも邪魔されることなく永遠に保証されるのなら、私は喜んで現実のすべてを捨て去り、この白昼夢の底で干からびて死んでも構わなかった。
私は、そんな甘美で恐ろしい倒錯感に骨の髄まで浸りながら、紙に向かう彼女の美しい横顔を、瞬きをすることすら惜しんでうっとりと見つめ続けていた。
「……あのね、詩織」
やがて、彼女は手に持っていた鉛筆をコトン、と机の上に置くと、少しだけ改まった、真剣な声で私の名前を呼んだ。
長いまつ毛に縁取られた鳶色の瞳が、ゆっくりと私に向けられ、私の視線をまっすぐに射抜く。
その瞳の奥には、ほんの少しの照れくささと、隠しきれない純粋な喜びの光、そして何か大切なものを打ち明けようとするような、微かな緊張感が揺らめいていた。
「これ、詩織に渡そうと思って」
彼女はそう言うと、紺色のブレザーのポケットにそっと左手を入れて、何か小さなものを、壊れ物を扱うかのように大切そうに取り出した。
そして、私の目の前にある机の余白——私がいつもノートを広げる場所に、それをゆっくりと置いたのだ。
それは、一枚の細長い紙の切れ端だった。
長さは十センチほど、幅は三センチにも満たない、いびつで不揃いな形をした紙片。
けれど、一目見ただけで、それがその辺のノートの切れ端や、ただのゴミなどではないことがはっきりとわかった。そこには、圧倒的なまでの『熱量』と『時間』が込められていることが、紙の質感そのものから痛いほどに伝わってきたからだ。
「……これ、栞?」
「うん。……手作りの、栞」
彼女は頬を微かに朱色に染めながら、小さく、けれど誇らしげに頷いた。
私は息を呑み、震える右手で、机の上に置かれたその栞にそっと触れた。
指の腹から伝わってくるのは、機械でプレスされた画用紙のようなツルツルとした冷たい感触ではない。それは、私たちが画材屋で買ったあの最高級の水彩紙——コットンを百パーセント使用した手漉きの紙が持つ、深く、柔らかく、そして生きているような温かみのある凹凸だった。
彼女は、あの大きな水彩紙の端っこの余った部分を、自分の手で丁寧に千切って、この栞の土台を作ってくれたのだ。ハサミやカッターのような冷たい刃物で切り落とされた定規のような直線ではなく、指の力で慎重に、繊維を解きほぐすようにして引き裂かれた、羽毛のように毛羽立った柔らかな縁。
その手作業の痕跡そのものが、彼女が私を想い、私のために費やしてくれた愛おしい時間の結晶のように思えた。
そして何よりも私の目を強烈に奪ったのは、その栞の表面に施された、息を呑むような『色彩』だった。
真っ白な水彩紙の表面に、水を含んだ絵の具が、淡く、美しく、そして切ないほどに滲んでいる。
使われている色は、たった一色だけ。
夏の日の高い空の隙間から覗くような、少しだけ緑みを帯びた、目が痛くなるほどに澄み切った青色。
セルリアンブルー。
それは、彼女がパレットの上で最も愛し、そして私にとっての世界の果てを示す、特別な色彩だ。
絵の具は、栞の下の方から上に向かって、まるで深い水底から光の差す水面へとゆっくりと浮かび上がっていくように、絶妙な濃淡のグラデーションを描いて薄れ、やがて紙の無垢な白さと完全に溶け合って消えている。
コットンの太い繊維が、絵の具の水分をたっぷりと奥深くにまで吸い込み、青の顔料を紙の心臓部にまで定着させていた。表面を右手の人差し指でそっとなぞると、紙の豊かなざらつきの中に、ほんのわずかに残ったアクリル絵の具の、乾いて少しだけ硬くなった感触がある。
そのざらつきに触れた瞬間、なぜか私の胸の奥が、ぎゅうっと不自然に、そして暴力的に締め付けられたような気がした。
——乾いた、セルリアンブルーのアクリル絵の具。
私の心のずっと奥底で、見えない警告の鐘が微かに鳴り響いたような気がした。だが、栞の放つ圧倒的な美しさと、彼女の体温が残る紙の温もりが、そんな得体の知れない些細な違和感を、一瞬のうちに心地よい麻酔でかき消してしまう。
「絵の具、セルリアンブルーだけを使ったの。……詩織、この色が好きだって、前に言ってくれたから」
彼女の控えめな、けれど私への愛情に満ちた言葉に、私はただ何度も、何度も力強く頷いた。
声を出そうとすると、胸の奥から込み上げてくる熱い感情で喉が完全に詰まってしまい、どうしても言葉にすることができなかった。視界が急速に歪み、まばたきをすれば、せっかくの美しい栞の上に涙を落としてしまいそうだった。
この閉ざされた世界に、これほど尊く、美しいものが他にあるだろうか。
彼女の指が慎重に千切った紙。彼女がたっぷりの水に溶かした青。彼女の筆が迷いなく描いたグラデーション。
そのすべてが、ただ私一人のためだけに、私の喜ぶ顔を見るためだけに生み出されたのだという奇跡のような事実。この栞は、既製品のようにどこかの店でお金を出せば買えるようなものではない。どんな権力を持っていようと手に入らない、この宇宙でたった一つ、私と彼女の絆を手に触れられる確かな形にして証明する、絶対的な証だった。
「ありがとう……。すごく、すごく綺麗。私、一生大切にするね」
私がようやく絞り出した声は、ひどく掠れて震えていた。
私は両手でその栞をそっと包み込むようにして持ち上げ、自分の胸の真ん中——心臓の鼓動が一番強く鳴っている場所へと、きつく押し当てた。
私がそうすると、彼女はふにゃりと相好を崩し、本当に嬉しそうに、安堵したように微笑んだ。
黄金色の西日が、栞を抱きしめる私の両手と、微笑む彼女の美しい横顔を、等しく温かな光で包み込んでいる。
図書室の古いカビとインクの匂い、そして栞から微かに漂う、真新しい紙とアクリル絵の具特有の匂いが混ざり合い、私の肺を満たしていく。
満ち足りていた。
もう、私には何もいらない。
この完璧な世界で、彼女からもらったこの青い栞を確かな道標にして、二人で永遠に、この琥珀色の時間の迷路で迷子になっていられたら、どんなに幸せだろうか。
私は、栞の表面の柔らかな凹凸と絵の具のざらつきを指先で愛おしそうに何度もなぞりながら、この美しくて狂気的な牢獄の扉に、自らの手で、二度と開くことのない重たい鍵を掛けたのだった。




