第3話『境界線上の栞』(2)
胸の奥——痛いほどに不規則な鼓動を繰り返す私の心臓のすぐ真上——にきつく押し当てていたその細長い紙片を、私は神聖な祈りを捧げるようにして、ゆっくりと机の上へと下ろした。
磨き上げられた古い木目調のテーブルの中央に広げられた、二人だけの余白。私の持つ真鍮の万年筆と、彼女の使い込まれたBの鉛筆が向かい合う、ちょうど真ん中の位置。
そこにそっと置かれた一枚の手作りの栞は、窓から差し込む黄金色の西日をたっぷりと浴びて、まるで自らが静かな熱を放つ小さな光源であるかのように、息を呑むほど力強い存在感を放っていた。
私は、自分の右手の人差し指をそっと伸ばし、その栞の表面をもう一度、ゆっくりと、撫でるように確かめてみた。
指の腹が、手漉きの水彩紙が持つ豊かな凹凸の連なりを、一つずつ丁寧に拾い上げていく。そして、そのふっくらとしたコットンの繊維の隙間を埋め尽くすようにして定着している、セルリアンブルーの絵の具の層へと辿り着く。
完全に乾ききった、アクリル絵の具の微かなざらつき。
細かく砕かれた青の顔料の粒が、完全に水分を失って紙と一体化し、少しだけ硬い色彩の層を作っているのが指先から痛いほどに伝わってくる。それは、私が指先でどれほど強く擦っても、決して色移りしたり剥がれ落ちたりすることのない、確固たる『物質』としての手触りだった。
そのざらついた感触を確かめるたびに、私の指先は、そして私の魂そのものが、震えるような歓喜に包まれた。
これは、本物だ。
このざらつきも、コットンの柔らかさも、栞の縁の不揃いな毛羽立ちも、微かに漂う人工的な糊の匂いも、すべてが圧倒的な手応えを持ってここに存在している。
もしもこの世界が、あの灰色の病室の冷たいベッドの上で、無機質な管に繋がれた私がただ見ているだけの『幻影』や『白昼夢』に過ぎないのだとしたら。どうしてこれほどまでに精巧で、血の通った確かな重みを伴っているのだろうか。触れれば触れるほど、この青い絵の具のざらつきは私に向かって、『ここがあなたの真実の世界だ』『あなたが生きるべき場所はここだ』と、力強く、そして優しく囁きかけてくるようだった。
(そうよ。……この温もりが、偽物のはずがない。私の手は、確かに彼女の描いた青に触れているのだから)
私は、栞の毛羽立った縁を親指でそっとなぞりながら、心の中で狂信的なまでの安堵を深く噛み締めていた。
そもそも『栞』という道具は、本を読み、言葉を愛する人間にとって、ただの目印という以上の、ひどく重たい意味を持っているのだ。
栞を本のページに挟むという行為。それはすなわち、【今日の時間はここで終わるけれど、明日必ず、私はまたこの場所から物語の続きを始める】という、未来に対する絶対的な『約束の儀式』に他ならない。
あの残酷な病室には、明日への約束など何一つ存在しなかった。ただ死んだ時間が永遠に引き伸ばされ、昨日と今日と明日の境界線すらも漂白されたシーツの中に溶けて、無意味に淀んでいくだけの絶望の空間。そこにあるのは、私の命を少しでも長く引き延ばすためだけの、冷酷な機械の音と薬品の匂いだけだ。
しかし、今私の目の前にあるこの青い栞は違う。
この一枚の紙切れは、私と彼女の間に『明日』という時間が必ず訪れることを、この美しい放課後の図書室が、明日も明後日も、これから先ずっと続いていくことを、確かな形として完璧に保証してくれているのだ。
私から未来を奪い、すべての自由を奪い去ったあの薄暗い現実の世界よりも。彼女が私のために、不器用な手つきで紙を千切り、水を溶いて色を重ねてくれたこの栞のざらつきの方が、私にとっては千倍も、万倍も、信じるに足る強固な『現実』だった。
「ねえ、詩織」
私が栞の感触にうっとりと酔いしれ、その青色に溺れかけていた時。
すぐ隣に座る彼女が、とても優しく、けれど少しだけ切実な響きを帯びた声で話しかけてきた。
私はゆっくりと顔を上げ、彼女の鳶色の瞳を見つめ返す。
彼女は、机の上に置かれた青い栞と、そして自分が真っ白な画用紙に描きかけの『星を拾う少女』の鉛筆の線を交互に見下ろしながら、ぽつりぽつりと、大切な言葉を探すように静かに話し始めた。
「私ね。……この栞を、どうしても詩織のために作ろうって思ったのには、ちゃんとした理由があるんだ」
「理由……?」
私が呆然と言葉を繰り返すと、彼女はこくりと頷いた。
窓から差し込む黄金色の西日が、彼女の長いまつ毛の影を、抜けるように白い頬の上に淡く落としている。その表情は、どこか遠くの深い森の奥、あるいは海の底を見透かしているかのように、静かで、ひどく透き通っていた。
「私たちがこれから描こうとしている物語は、きっと、すごく深くて、悲しくて……一切の光が届かない、真っ暗な夜空の底みたいな世界になると思うの」
彼女の細くて白い指先が、画用紙の上に描かれた、ひび割れた空を見上げる孤独な少女の輪郭を、傷をいたわるようにそっとなぞる。
「詩織の紡ぐ言葉は、とても綺麗で、美しくて、私の絵に命を吹き込んでくれる。だけど、時々すごく重たくて、私の胸の奥がぎゅうっと痛くなるくらい、深くて悲しい響きを持っているから。……だからね、私の描く夜の色彩も、きっとその詩織の言葉の引力に引っ張られて、どんどん暗く、果てしのない場所へと潜っていくことになると思う」
「……」
「そうやって二人で、物語の深い深い暗闇の中に潜り続けていたら。私たち、ふとした瞬間に、自分が今どこにいるのか、分からなくなってしまうような気がしたの。……現実の世界から遠く離れすぎて、息の仕方も忘れて、そのまま物語の底に沈んだまま、二度と帰ってこられなくなってしまうんじゃないかって」
彼女の言葉は、ただの絵本作りの比喩のようでありながら、私の心の最も柔らかくて、最も隠しておきたかった痛い部分を、正確に、そして残酷なまでに優しく撫でていった。
彼女は気づいているのだろうか。私が現実という名の地獄から目を背け、呼吸の仕方すら忘れるほどに深く、この空想の世界の底に自ら好んで沈み込もうとしていることに。
私が病室の換気扇の音にすがりつき、現実の痛みから逃れるために、どれほどの狂気を燃やしてこの教室を構築しているかを、彼女は知っているのだろうか。
彼女の言葉が持つ不思議な二重性に、私の胸の奥がかすかに震えた。けれど、私は何も言わず、ただ瞬きをするのも忘れて彼女の次の言葉を待った。
「だからね、道標が必要だと思ったんだ」
彼女は顔を上げ、私をまっすぐに見つめ直した。
その瞳の奥にあるのは、純粋な祈りのような、痛切なまでの優しさだった。彼女は私を、この暗闇から救い出そうとしてくれている。私を一人で迷子にさせまいと、必死に手を伸ばしてくれているのだ。
「どんなに暗い物語の底に潜っても。どんなに遠くの悲しい世界へ迷い込んでしまっても。この青い栞が挟んであるページを開けば、いつでも私たちは『ここ』に帰ってこられる。……この図書室の、西日が差し込む一番奥のテーブル。古い本と、インクと、真新しい紙の匂いがする、私たちの大切な場所に。……だから、詩織のために、絶対に消えない青色で、これを作ったんだよ」
彼女の口から紡がれた『帰ってこられる』という言葉が、私の耳の奥で、そして私の魂のど真ん中で、何度も、何度も甘く反響した。
視界が、不意にぐにゃりと歪む。
胸の奥に分厚い壁を作って必死に押し込めていた熱い感情が、ついに音を立てて決壊し、喉の奥へと一気にせり上がってきた。私は慌てて、震える両手で自分の口元を強く覆った。
ぽろぽろと、大粒の熱い涙が私の瞳からこぼれ落ち、指定の紺色のプリーツスカートの上に、いくつもの濃い染みを作っていく。
悲しいわけじゃなかった。ただ、あまりにも、あまりにも満たされていたのだ。
誰も私の心なんて見てくれなかった。
現実の世界の大人たちは、私の身体を命のないただの壊れた器として扱い、容赦なく冷たい光を当てて暴き立てるだけ。私がどれほど絶望し、どれほど一人で泣き叫んでいたかなど、誰も知ろうとはしなかった。
けれど、彼女だけは違った。
彼女は、私がどれほど深い暗闇を恐れ、同時にどれほど深い暗闇に救いを求めているかを、痛いほどに理解してくれている。私が一人で迷子にならないように、私の魂が永遠の孤独の中に漂流してしまわないように、彼女は自らの手で、この世界で一番美しい『青い道標』を切り出し、私に与えてくれたのだ。
「……うん。……うんっ」
私は、込み上げてくる嗚咽を必死に噛み殺しながら、幼い子供のように何度も、何度も首を縦に振った。
涙で滲んでぼやけた視界の向こうで、机の上に置かれたセルリアンブルーの栞が、まるで嵐の海を照らす灯台の光のように、静かに、けれど力強く瞬いているのが見えた。
「ありがとう。……私、絶対に迷わないよ。どんなに深くて暗い物語の中に行っても。この栞があれば、絶対に、あなたの待っているところに帰ってこられるから」
私がかすれた涙声でそう告げると、彼女はひどく安心したようにふわりと微笑み、自らの左手を伸ばして、机の上に置かれていた私の右手にそっと重ねてきた。
じんわりとした、確かな体温。
火傷しそうなほどの熱さが、私の冷え切っていた指先から手の甲、手首、そして腕を伝って、心臓の奥深くにまで瞬時に流れ込んでくる。私はその熱を絶対に逃がさないように、彼女の手を強く、骨が軋むほど強く握り返した。
この栞がある限り、私たちの繋がりは絶対に断ち切られることはない。
現実の病室の圧倒的な冷たさも、点滴の針がもたらす鈍い痛みも、この絶対的な熱量の前では、ただの希薄な幻影に過ぎないのだ。
栞という『確かな手触りを持った道標』を手にしたことで、私がこの図書室にいるという事実は、もはや揺るぎない絶対の真理へと完全に昇華された。私は、自らが構築したこの虚構の世界の恐ろしいほどの強固さに、そして彼女との狂気的なまでの共依存の結びつきに、背筋が粟立つような圧倒的な安心感を覚えていた。
「さあ、それじゃあ……続きを作ろうか」
彼女は私の手を優しく握りしめたまま、もう片方の手で机の上のBの鉛筆を取り上げた。
涙に濡れた私の顔を覗き込みながら、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「この美しい青い栞を、私たちの物語の中に、どうやって登場させる?」
彼女のその提案に、私は涙を拭うのも忘れて、弾かれたように、涙で滲む視線を上げた。
空想の中の現実のアイテムを、さらにその内側にある『作中作』の世界へと組み込んでいく。それは、この世界をさらに深く、何重もの美しい檻で囲っていくための、魅惑的で後戻りのきかない儀式の始まりだった。
私は大きく頷き、彼女がくれた青い道標の横で、自らの万年筆を力強く握り直したのだった。




