第3話『境界線上の栞』(3)
私たちは、まるで誰にも聞かれてはいけない重大な秘密の計画を企てる幼い子供たちのように、机の上でこつんと額が触れ合いそうになるほど、互いの顔をそっと近づけた。
固く繋がれたままの左手からは、火傷しそうなほどの彼女の確かな体温が、私の血管を通って絶え間なく流れ込んでくる。そして右手に力強く握りしめた万年筆の、真鍮のひんやりとした冷たさが、私の頭の中を恐ろしいほどクリアに研ぎ澄まさせていた。
彼女の細くて柔らかい髪が、春の生温かい風に揺れて、涙の痕が残る私の頬を優しくくすぐる。甘い柑橘系の香りと、古い本の紙の匂い、そして机の上に置かれたセルリアンブルーの栞から漂う真新しい糊と絵の具の匂いが、私たちの間に満ちる親密な空気を、さらに濃密で息苦しいものへと煮詰めていく。
「……そうだね」
私は、彼女の熱を帯びた問いかけに応えるように、ひそやかな声で囁いた。
肩と肩が触れ合い、制服の生地越しに伝わる彼女の心地よい命の鼓動に身を委ねながら、私たちは机の中央に広げられた真っ白なノートと、描きかけのスケッチブックへと同時に視線を落とす。
「この美しい青色は……あなたの描く深い夜の底で、どんな意味を持つんだろう」
私がそう問いかけると、彼女は繋いでいない方の手——使い込まれたBの鉛筆を持った指先で、スケッチブックに描かれた『ひび割れた空』と『足元に散らばる鋭いガラスの破片』をそっと指し示した。
「詩織の紡いだ言葉で、この夜空は音を立てて砕け散ってしまった。……空に浮かぶ星たちの、重たすぎる願い事に耐えきれなくなって。だから、この絵の中にいる孤独な少女は、鋭い星の破片で埋め尽くされた冷たい荒野で、どこへ向かって歩き出せばいいのか分からずに、ただ震えながら立ち尽くしているの」
彼女の言葉は、ただの絵の説明を超えて、一つの悲しくて残酷な真実を語るように、夕暮れの図書室の静寂に響いた。
確かに、彼女の鉛筆が描き出した少女の細い背中からは、圧倒的なまでの途方もない孤独と、一歩でも足を踏み出せばその裏を深く切り裂かれるかもしれないという、凍りつくような恐怖が痛いほどに伝わってくる。
「一切の光がない暗闇の中で、足元には魂を傷つける砕けた星の破片しかない。……そんな終わってしまった世界で、もしもこの青い栞が、空からひらひらと舞い降りてきたらどうだろう」
彼女はそう言って、鉛筆の先から視線を外し、机の上のセルリアンブルーの栞を愛おしそうに見つめた。
「この青色はね、どんなに深い夜の暗闇にも、絶対に染まることのない色なの。どれほど絶望的な夜の底に落ちても、決して消え去ることのない、美しくて温かい昼間の空の記憶を閉じ込めた色。……だから、この栞はきっと、迷子になってしまった少女に『星の破片を拾い集めるための道標』を教えてくれる、たった一つの希望になると思う」
彼女の口から紡がれる言葉が、耳の奥から私の心の最も深い場所へと真っ直ぐに突き刺さった。
——昼間の空の記憶を閉じ込めた、絶対に消えない道標。
その美しくて切実な解釈を聞いた瞬間、私の心の中に漂っていたバラバラの言葉の欠片たちが、目に見えない抗えない引力に引き寄せられるようにして、一つの完璧な形へと組み上がっていくのを感じた。
背筋を、ゾクゾクとするような圧倒的な高揚感が駆け抜けていく。
私は小さく息を呑み、力強く頷いた。
「わかった。……私、書くわ。この栞に、私の言葉で息を吹き込む」
私は、右手の中で冷たい光を放つ万年筆のグリップを、指の腹が白くなるほどさらに強く握りしめた。
ペン先を、真新しいノートの真っ白な紙面へとゆっくりと落とす。
カリカリ、という微かな金属の摩擦音とともに、ブルーブラックのインクが、紙の繊維の奥深くへと滑らかに染み込んでいく。私の心臓が打ち出す熱い血液が、腕を通り、指先を伝い、ペン先から青黒い文字となって、この世界に直接注ぎ込まれていくような恐ろしいほどの全能感。
頭の中で組み上がった言葉たちが、私という肉体をただの通り道として、ノートの上に次々と産み落とされていく。
私は、彼女が描いた孤独な少女の後ろ姿と、机の上のセルリアンブルーの栞を交互に見つめながら、一息に文章を書き連ねていった。
『夜空が砕け散り、地上は鋭く冷たい星の破片で埋め尽くされた。
一歩踏み出せば足の裏を深く切り裂かれるその荒野で、孤独な少女は、
どこへ向かって歩き出せばいいのか分からずに、ただ立ち尽くしていた。
果てしない暗闇と絶望が、足元からじわじわと彼女の身体を凍らせていく。
——その時だった。
震える彼女の足元に、一枚の小さな青い紙片が、音もなく舞い降りてきたのだ。
それは、星の重さに耐えきれずにひび割れてしまったこの悲しい世界で、
唯一傷を知らない、美しく澄み切った昼間の空を切り取った欠片だった。
夜の闇に決して染まることのないそのセルリアンブルーの栞は、
少女に優しく囁きかける。
泣かないで。
私が、砕けた星の破片を集めるための、夜空の目印になるから、と。』
最後の句点を打ち終え、私が大きく息を吐き出して紙面から万年筆を離した瞬間。
繋いだ左手を通して、私のすぐ隣で息を潜めて文字の誕生を見守っていた彼女が、小さく、けれど震えるような歓喜の声を上げたのが伝わってきた。
「……すごい」
彼女は、ノートに刻み込まれたブルーブラックの文字を、まるで奇跡を目の当たりにしたかのように食い入るように見つめていた。
長いまつ毛に縁取られた鳶色の瞳が、濡れたような光を放っている。彼女の瞳の奥で、私の紡いだ言葉たちが鮮やかな情景となって次々と結びつき、果てしない夜の世界を構築していくのが手を取るようにわかった。
彼女は、何かに憑かれたように机の上の鉛筆を勢いよく握り直した。
「待ってて。……今、描くから」
彼女はそう呟くと、自らのスケッチブックの真っ白な余白に向かって、再び深く前かがみになった。
黒鉛が紙を削る、熱病に浮かされたような激しい摩擦音。それは先ほどまでの静かで迷いのある線とは違う、圧倒的な確信と情熱に満ちていた。
彼女が描いているのは、あの孤独な少女が、足元に落ちてきた『一枚の栞』を両手で大切そうに拾い上げる瞬間だった。
少女の足元に広がる鋭い星の破片。その真ん中に、ふわりと着地した長方形の紙片。彼女の鉛筆は、その小さな紙片が放つ柔らかな光と、それを拾い上げた少女の後ろ姿に宿った微かな『希望』の温度を、黒鉛の濃淡だけで完璧に表現していく。
そして、彼女は鉛筆を置くと、足元に置いていた鞄の中から、小さな絵の具のチューブを一本だけ取り出した。
セルリアンブルー。
彼女は、細い筆の先にほんの少しだけその青い絵の具をつけると、水も混ぜずに、スケッチブックに描かれた『少女の持つ栞』の部分にだけ、一筆で鮮やかな色を乗せたのだ。
モノクロームの荒涼とした夜の世界の中で、その一枚の栞だけが、目を痛めるほどに澄み切った青色を放って輝き始めた。
「……できた」
彼女は、筆を置き、誇らしげな、それでいて少しだけ気恥ずかしそうな笑顔で私を振り返った。
私は、言葉を失っていた。
ノートに綴られた私の文字と、スケッチブックに描かれた彼女の絵。そして、私たちの目の前にある、手作りのセルリアンブルーの栞。
それらが、一つの巨大な渦に巻き込まれるようにして完全に重なり合い、境目を失って一つに溶け合っていくのがわかった。
私がこの図書室で受け取った温かい贈り物が、彼女の絵と私の言葉を経由して、物語の中の孤独な少女を救うための『絶対的な鍵』へと姿を変えたのだ。現実と空想、私と彼女、言葉と色彩。それらを隔てていたはずの透明な壁が、今この瞬間、音を立てて完全に崩れ去った。
圧倒的な幸福感と、神にでもなったかのような全能感が、私の全身の血を激しく沸騰させる。
この琥珀色に染まった狭い図書室の机の上で、私たちはいとも簡単に美しい世界を創り出し、理不尽な絶望を打ち砕き、迷子になった魂を救い出すことができる。
現実の病室で、首から下を全く動かすことのできない哀れな器でしかない私が、この世界では、こんなにも自由に、こんなにも力強く、命の鼓動を紡ぎ出すことができるのだ。
彼女がいれば、私は無敵だった。
彼女の色彩が、私の言葉に確かな温度を与えてくれる。私の言葉が、彼女の絵に深い意味を与えてくれる。互いの才能が完璧に交差し、共鳴し合い、この世の何よりも強固で美しい一つの宇宙を形成している。
私は、喜びのあまり震える右手を伸ばし、ずっと固く繋ぎ合わせていた彼女の手を、上から両手で大切に包み込むように強く握りしめた。
彼女もまた、私の言葉に応えるように、その小さな手で私の指をきつく握り返してくる。
熱い。痛いほどの熱量が、私たちの繋がれた手と手を通して絶え間なく循環し続けている。
西日がさらに角度を下げ、図書室の空気をいっそう濃い黄金色に染め上げていく。私たちは、その美しくて狂おしい時間の絶頂の中で、ただ互いの存在の確かさを確かめ合うように、見つめ合って静かに微笑み合っていた。
完璧だった。
何もかもが、恐ろしいほどに完璧で、一ミリの欠落もない美しい世界。
このまま世界の時間が永遠に停止してしまえばいいと、私は心の底から狂おしく願った。
——しかし。
その完璧すぎる幸福の絶頂の裏側で。
私の心のずっと、ずっと深い水底のあたりに、ほんのわずかな『違和感』が、ぽつり、と一滴の黒いインクを落としたかのように不気味に広がり始めていた。
何かがおかしい。
何がおかしいのかは、言葉にはできない。
ただ、彼女と強く手を握り合い、互いの体温を確かめ合っているはずなのに、私の首筋を、ぞくりとした微かな冷気が撫でていったのだ。
私は、無意識のうちに右手を彼女の手から離し、机の真ん中に置かれたあの『手作りの栞』の表面を、もう一度そっとなぞっていた。
ざらり、とした、乾いたアクリル絵の具の感触。
指の腹に伝わる、手漉きのコットンの柔らかい凹凸と、水分が完全に飛び去った顔料の、硬くて冷たい色彩の層。
それは、間違いなく先ほどまで私が狂信的なまでに安堵を覚えていた、あの『確かな現実の手触り』そのものだった。
だが、そのざらつきに触れた瞬間。
私の鼻の奥を、インクの匂いでも、古い紙の匂いでも、柑橘系の甘い匂いでもない、もっと別の……ひどく暴力的で、恐ろしい匂いが、ほんの一瞬だけよぎったのだ。
ツンとした、鋭い消毒液の匂い。
そして、何かがひどく焦げたような、あるいは血と鉄が混ざり合ったような、生臭くて重たい匂い。
(え……?)
私は息を呑み、慌てて栞から指を離した。
今のは、なんだろう。
気のせいだ。気のせいに決まっている。この美しい図書室に、そんな恐ろしい匂いが入り込むはずがない。ここは私の完璧な聖域で、あの残酷な現実は完全に締め出されているはずなのだから。
私は、湧き上がりそうになる得体の知れない恐怖を必死に押し殺し、もう一度、隣で微笑む彼女の顔を見つめた。
彼女は何も気づいていないように、琥珀色の光の中でひどく穏やかに微笑んでいる。
大丈夫。私の世界は、私の意志の通りに保たれている。
私は、その不吉な気配を頭の隅へと無理やりに追いやり、震える右手で、机の上に置かれたセルリアンブルーの栞をつまみ上げた。
そして、私たちの完璧な物語が記されたノートの、インクがまだ生乾きのそのページに、永遠の約束の証として、その栞をそっと挟み込もうとした。
そう。
私がその青い栞を、ノートの紙の間に滑り込ませようとした、まさにその瞬間のことだった。




