第3話『境界線上の栞』(4)
親指と人差し指に優しく挟まれたセルリアンブルーの紙片が、まだ微かに湿気を帯びたブルーブラックの文字のすぐ横へと、ゆっくりと、儀式のように影を落としていく。
あと一センチ。あと数ミリ。
指先をほんの少しだけ下ろせば、手漉きのコットンの柔らかい縁がノートの真新しい紙面に触れ、私たちの紡いだ言葉と色彩は、誰にも引き裂くことのできない永遠の約束として結びつくはずだった。
図書室の空気は、これ以上ないほどに甘く、重たく、熟しきった琥珀色の西日にたっぷりと満たされている。隣で息を潜め、私の手元の動きを祈るように見つめている彼女の瞳の輝き。制服の肩越しに伝わってくる、すぐ傍にある確かな命の熱量。
この完璧で美しい世界は、私と彼女のためだけに用意された、絶対に何者にも侵されることのない絶対の聖域だった。私たちの魂が、ついに一つの物語として美しく縫い合わされようとしていた、その記念すべき刹那。
——キィィィィィィィィィィィィッ!!
唐突に。
本当に、何の予兆もなく唐突に。
世界を真っ二つに引き裂くような、耳をつんざく恐ろしい悲鳴が、図書室の神聖な静寂を暴力的に打ち砕いた。
それは、放課後の穏やかな校庭からは絶対に聞こえてくるはずのない、硬いアスファルトとタイヤのゴムが限界を超えて削り合う、凄絶で、醜く、鋭利な摩擦音だった。
窓の外。黄金色に染まっていたはずの校庭のさらに向こう側——この空想の世界には本来ならば存在しないはずの『現実の道路』から、そのおぞましい音は空間の壁を獣のように食い破って、私たちの琥珀色の揺り籠へと強引に雪崩れ込んできたのだ。
(え……?)
私の思考が、完全に停止した。
肺に吸い込んでいた古い本の匂いごと、呼吸がピタリと止まる。
指先に挟んでいた栞から力が抜け、美しい青色の紙片が、ノートの上にぱたりと力なく落ちた。
何が起きているのか、理解できなかった。いや、理解することを私の心が強烈に拒絶したのだ。この図書室は、私が自分の魂を削り、現実のあらゆる苦痛から逃れるために、幾重にも重たい鍵をかけて守り抜いてきた純粋な箱庭のはずだ。外部からの音など、遠くで響く吹奏楽部の優しい音色以外、一切入り込むことなどできないように、私が完璧に作り上げたはずの世界なのだから。
それなのに。
まるで巨大な地鳴りでも起きたかのように、図書室の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げて激しく震え出す。宙を舞っていた黄金色のホコリの粒子たちが、見えない恐怖に怯えるように空中で不自然に静止し、次いで、冷たい灰色の塵となってパラパラと床へ落ちていく。
嫌だ。
来ないで。私の世界に入ってこないで。
私は心の中で絶叫しながら、両手で強く耳を塞ごうとした。
だが、その願いが私の腕に伝わるよりも早く、急ブレーキの甲高い摩擦音を無残に叩き潰すようにして、あまりにも重たく、あまりにも残酷な衝撃音が、私の鼓膜を、そして私の存在そのものを粉砕した。
——ドッ、ゴォォォォォォォンッ!!
巨大な鉄の塊が、何か柔らかくて温かいものを、一切の慈悲もなく容赦なく押し潰し、ひしゃげさせる絶望的な破壊音。
重たい金属が歪む音と、硬いガラスが何万もの破片となって弾け飛ぶ音。そして、その合間に混ざり込んだ、生身の肉が強い圧力で弾け、骨が砕け散る、あの生々しくて耳を覆いたくなるような湿った音。
その音が私の鼓膜を突き破り、心臓の最も柔らかい奥底にまで届いた瞬間。
私の構築した世界は、足元から凄まじい音を立てて完全な崩壊を始めた。
窓から差し込んでいた、あのはちみつを溶かしたような甘い琥珀色の西日が、一瞬にしてどす黒く濁った、おぞましい赤黒い色へと反転した。
まるで、見えない巨大な獣の腹が裂け、どろどろとした古い血の雨が図書室の中に降り注いできたかのように。
天井まで届く木製の本棚も、磨き上げられた床も、私たちが座っている椅子も、机の上に広げられた真っ白なノートも、すべてが錆びついた鉄のような、あるいは時間が経過して黒ずんだ血痕のような、濃密な赤黒さに染め上げられていく。
鼻の奥を満たしていた、古い本と彼女の柑橘系の甘い香りが、見えない突風に吹き飛ばされて一瞬で消え去る。代わりに私の肺を強引にこじ開けて入り込んできたのは、ゴムが焼け焦げたような強烈な悪臭と、生温かくて吐き気を催すほどの、濃密な鉄と血の匂いだった。
「……いや。……嘘、やめて……」
声にならない悲鳴が、私の喉の奥でひゅっと惨めな音を立てて鳴った。
全身の血が瞬時に凍りつき、心臓が恐怖で狂ったリズムを打ち始める。
あの音だ。
私が、心の最も深い海の底に、分厚い鋼鉄の鎖でぐるぐる巻きにして沈めて、永遠に忘れ去ろうとしていたはずの、あの日の残酷な記憶の音。
重たいトラックが、私たちの未来を、希望を、そして私を庇った彼女の身体を無残な肉の塊へと変えた、あの悪夢の音が、どうしてこの完璧な図書室に響き渡っているのか。
(違う! ここには何もない! 私は図書室にいるの! 彼女と一緒に、ここで絵本を作っていたの! お願い、誰か嘘だと言って……!)
私は狂ったように首を振り、この恐ろしい現実の介入を否定しようと必死に足掻いた。
しかし、私の身体は、見えない何百本もの釘で椅子に打ち付けられたように、一ミリも動かすことができなかった。恐怖という名の圧倒的な力が私の幻の肉体を縛り付け、その恐ろしい光景から目を背けるためにまぶたを閉じることすら許してくれない。
むせ返るような血の匂いと赤黒く染まった視界の中で、私は必死に、すぐ隣に座っているはずの『彼女』へと視線を向けた。
彼女さえいてくれれば。
彼女のあの温かい手が、あの火傷しそうなほどの熱量を持った指先が、もう一度私の震える手に触れてくれさえすれば、この恐ろしい惨状も、血の匂いも、すべて私が一瞬だけ見た悪夢に過ぎないと証明できる。
そうだ、彼女はそこにいる。彼女が私を置いていくはずがない。
「……しお、り……」
隣の席から、ひどく掠れた、深い水底から響いてくるような声が聞こえた。
私は、すがるような、絶望に満ちた目で彼女を見た。
彼女はそこにいた。指定の紺色のブレザーも、華奢な肩のラインも、私が愛した孤高の猫背も、確かにそこにある。
しかし、私の目に映った光景は、私をさらなる狂気のどん底へと突き落とすには十分すぎるほど残酷なものだった。
そこにいるはずの彼女の姿が、まるで大雨に打たれた水彩画のように、あるいは長い年月を経て風化しつつある古い砂の彫刻のように、その輪郭を恐ろしい勢いで崩壊させ始めていたのだ。
「やめ……いや! 嫌だ、行かないで!」
私は叫んだ。喉が裂け、血を吐くほどの声で叫んだつもりだったが、私の口からこぼれ出たのは、ヒューッという空気が抜けるようなひどく惨めな音だけだった。
彼女の抜けるように白い頬が、パラパラと乾いた灰色の砂になって崩れ落ちていく。
長いまつ毛に縁取られた美しい鳶色の瞳から急速に光が失われ、ぽっかりと空いた空虚な黒い穴へと変わっていく。彼女の身体を形作っていた色彩と、私を救ってくれたあの温かい体温が、あの窓の外から響き続ける重たい衝突音の残響に削り取られるようにして、空間の闇の中へと次々と吸い込まれ、掻き消されていく。
彼女は、崩れゆく顔を私に向けたまま、何かを言おうとするようにひび割れた唇を微かに動かした。
けれど、そこからはもう何の言葉も紡がれることはなかった。言葉を紡ぐはずの喉が砂となって崩れ、空気を震わせることすらできなくなってしまったのだ。
「待って……置いていかないで! 一緒に、一緒に物語を作るんでしょう!? 私には、あなたしかいないのに……!」
私は、見えない力でテーブルに縫い付けられていた右手を、全身の魂を振り絞り、骨が折れても構わないというほどの力で強引に引き剥がした。
そして、跡形もなく崩れ去ろうとしている彼女に向かって、その手を必死に伸ばした。
彼女の左手を、あの温かくて、この世界で唯一私を救い上げてくれた彼女の小さな手を、もう一度強く握りしめるために。あの手さえ握ることができれば、彼女の命をこの図書室に繋ぎ止めることができると信じて。
だが、私の震える指先が触れたのは、温かい人間の皮膚ではなく、ただの冷え切った、底なしの虚無の空気だけだった。
私の手は、彼女の身体があったはずの空間を、何の手応えもなく、ひどく虚しくすり抜けた。
ほんの数秒前まで、あんなにも確かに私の手を握り返してくれていた、命の律動。私が生きている意味のすべてだったその絶対的な温もりが、今、私の目の前で、完全に、そして永遠に失われてしまったのだ。
「あ……ぁ……」
赤黒く染まった図書室が、壊れた独楽のように、ぐるぐると恐ろしい速度で回転し始める。
机の上に残された、私のブルーブラックのノート。そして、彼女が描き残したスケッチブック。その真ん中で、彼女が手作りしてくれたあの青い栞だけが、この凄惨な崩壊の中で唯一色を失わず、まるで私を嘲笑うかのように、鮮烈なセルリアンブルーを放ち続けている。
世界が、悲鳴を上げて軋む。
私が自らの魂を削って編み上げ、永遠の時間を約束したはずの完璧で美しい虚構の檻が、現実の持つ圧倒的で暴力的な質量に耐えきれず、メキメキと音を立てて崩落していく。
天井が割れ、古い本棚が倒れ、木製の床が底なしの泥沼のようにドロドロに溶け落ちていく。
私は、差し出した右手を空中に彷徨わせたまま、声にならない絶叫を上げながら、真っ逆さまに、あの冷たくて、痛くて、残酷な現実の底へと猛スピードで引きずり下ろされていった。




