第3話『境界線上の栞』(5)
真っ逆さまに、落ちていく。
底のない真っ暗な井戸の中へと突き落とされたように、私の意識は恐ろしい速度で虚空を落下していった。
ほんの数秒前まで私を優しく包み込んでいた、あのはちみつを溶かしたような琥珀色の西日も、古い本の匂いも、机の上の万年筆の心地よい重みも、すべてが凄まじい風圧に吹き飛ばされ、指の隙間から残酷に剥がれ落ちていく。あの温かくて、私を救ってくれた彼女の小さな手のひらの感触さえも、遠ざかる光の粒となって闇の彼方へと消え去ってしまった。
私を引きずり下ろしていくのは、見えない巨大な手。
空想という名の甘美な無重力空間から、私という存在を強引に引き剥がし、無慈悲な重力が支配する地獄へと連れ戻そうとする『現実』の圧倒的な引力だった。
——ドスンッ!!
私の背中が、後頭部が、そして全身の肉体が、見えない硬い壁に激突したかのような強烈な衝撃に襲われた。
いや、激突したのではない。空想の海から水面へと強引に引きずり上げられ、現実の『器』の中へと、魂が乱暴に叩き落とされたのだ。
その瞬間、私の全身を、息が詰まるほどの、恐ろしい重力が容赦なく押さえつけた。
「はっ……! ひゅっ……! あ、はぁっ……!!」
目を見開いた私の口から、ひどく掠れた、空気が喉の奥で笛のように鳴る惨めな音が漏れ出した。
息が、できない。
肺の奥の空気がすべて見えない巨大な力に吸い出されてしまったかのように、胸の中が完全に空っぽになっていた。私は陸に打ち上げられた瀕死の魚のように、大きく口を開けて必死に空気を貪り食おうとするが、気管が恐怖で極限まで収縮してしまい、風が一ミリも肺の中へと入ってこない。
「ひぃっ……! かっ、はぁっ、はぁっ……!!」
激しい過呼吸。
肋骨が、折れるのではないかと思うほど激しく上下に波打つ。骨の内側で、空気を求める肺が痙攣を起こし、心臓が胸を突き破らんばかりの狂った速度で壁を叩き続けている。苦しい。喉が焼け焦げそうに熱い。気道が完全に塞がってしまったかのような、溺死にも似た凄惨な窒息感。
健康な身体であれば、苦しさに身をよじり、自らの胸をかきむしって喘ぐことだろう。しかし、現実の世界へと引き戻された私のこの肉体は、首から下の神経を完全に断ち切られた、ただの死んだ鉛の塊でしかないのだ。
どれほど呼吸が苦しくても、どれほど肺が悲鳴を上げても、私の両腕は冷たいシーツの上にだらりと投げ出されたまま、指先一つ、一ミリたりとも動かすことができない。自分の胸を抑えることすら許されず、ただ仰向けの姿勢で天井を見つめたまま、身体の奥底が酸素不足で痙攣していくのを、頭の中だけで冷静に、そして絶望的に味わい続けるしかないのだ。
ピッピッピッピッピッピッピッピッピッ……!!
激しく喘ぐ私の耳を劈くように、けたたましい電子音が病室の静寂を暴力的に引き裂いた。
ベッドの脇にそびえ立つ、冷たい医療機器。私の命の律動を数字で測る無機質な機械が、私の異常な心拍数の跳ね上がりを暴き立て、赤く点滅しながら鋭い警告音を鳴らし始めたのだ。
その一切の感情を持たない機械の悲鳴は、『お前はまだ生きている』『お前はこの現実の肉体に縛り付けられている』という残酷な事実を、私の鼓膜に一秒の休みもなく叩き込み続けてくる。
「あ、はぁっ……! うぅっ……、はぁっ……!」
全身の凍りついた肌から、氷のように冷たい汗が噴き出していくのがわかった。
額から滲み出た冷や汗がこめかみを伝い、恐怖で見開かれた瞳から止めどなく溢れ出す熱い涙と混ざり合って、耳の裏側へと流れ込んでいく。
私の背中も、首筋も、そして一ミリも動かないはずの太ももやふくらはぎの裏側までもが、あっという間にべっとりとした不快な汗にまみれ、糊の効いた真っ白なシーツをぐっしょりと重たく濡らしていく。
漂白されたシーツが湿り気を帯びたことで、あの病院特有の、生気のない薬品の匂いがいっそう強烈に鼻腔を突いてきた。
まぶたの裏にまで焼き付くような、青白い蛍光灯の光。
徹底的に温度管理された、生命の匂いが一切しない冷たい空気。
私の静脈に深く突き刺さったままの、点滴の針の氷のような異物感。
それらすべての現実の感覚が、先ほどまで私がいたあの黄金色の図書室の記憶を、泥靴で踏みにじるようにして徹底的に蹂躙し、破壊していく。
(嫌だ……。嫌だ、帰りたい……。あの場所に、彼女のところに……!)
私は、痙攣する喉の奥で必死にそう叫びながら、再び意識を深い底へと沈めようと足掻いた。
換気扇の音を探さなければ。消毒液の匂いを、古い本の匂いで上書きしなければ。
しかし、どれほど強く狂気を望んでも、私の脳裏に焼き付いて離れないのは、図書室の美しい琥珀色の光ではなく、あの、すべてを引き裂いた『恐ろしい摩擦音』の残響だった。
——キィィィィィィィィッ!!
——ドッ、ゴォォォォォォォンッ!!
「ひっ……! あ、あぁぁっ……!」
急ブレーキの甲高い悲鳴。重たい鉄の塊が、柔らかい肉と骨を無残に押し潰す音。
その音が記憶の底から逆流してくるたびに、私の身体は痙攣を繰り返し、機械の警告音がいっそう激しく、狂ったように鳴り響く。
あの日。あの交差点。
私を庇ってトラックの前に飛び出し、ひしゃげた鉄の下敷きになった彼女の姿。
アスファルトの上に広がる、夥しい量の赤黒い血だまり。
その絶望的な光景が、まぶたの裏側に、あまりにも鮮明な色彩と温度を持って蘇ってくる。
私はこれまで、自分自身をずっと『悲劇のヒロイン』だと思い込むことで、この狂気の世界を構築してきた。
一番大切な親友を目の前で理不尽な事故で失い、自らも首から下の自由を永遠に奪われた、世界で一番可哀想な少女。
運命という残酷な神様にすべてを奪われ、だからこそ、心を閉ざして空想の世界に引きこもり、彼女との美しい記憶の中だけで生き続けることを許された、哀れで純粋な魂。
私は、その『美しくも悲しい物語』を自分自身の絶対的な盾にして、現実の苦痛から目を背け、図書室という完璧な檻を作り上げてきたのだ。
——しかし。
呼吸が欠乏し、限界まで追い詰められた私の意識の最も深い泥底で。
これまで私が、何重にも分厚い壁を作り、何百もの鍵をかけて必死に隠蔽し、自らの記憶からすらも完全に消し去ろうとしていた『ある冷酷な真実』が、ぶくり、ぶくりと音を立てて湧き上がり始めていた。
真っ黒な、ひどく臭くて重たい泥のような感情。
(どうして……彼女は、あんなところにいたの?)
呼吸の仕方を忘れ、ひきつけを起こしたように喘ぎながら、私の心の中で一つの疑問が氷のように冷たく響いた。
(どうしてあの日、彼女はトラックの前に飛び出したの?)
(私を、庇うため?)
(じゃあ、どうして私は……どうして私たちは、あの交差点で、あんなにも激しく泣き叫びながら、お互いのことを傷つけ合っていたの……?)
「……ぁ……、う、あぁっ……」
ズキリ、と。
頭蓋骨の奥深くに、焼け火箸を突き立てられたような強烈な痛みが走った。
黄金色の図書室で、互いの才能を称え合い、あんなにも美しく手を握り合っていた私と彼女。
それは、私の心が自己防衛のために作り上げた、都合のいい偶像に過ぎなかったのではないか。
思い出せ。本当のあの日の朝、あの交差点で、私と彼女が何をしていたのか。何を言い合い、どんな顔をしてお互いを睨みつけていたのかを。
ぶくり。
また一つ、心の奥底から黒い泥の泡が弾ける。
それは、ただの悲哀や喪失感などという綺麗な言葉では到底片付けられない、もっとおぞましくて、醜くて、吐き気を催すほどの圧倒的な『罪悪感』の塊だった。
(私が……。私が、彼女を……)
呼吸の乱れで激しく波打っていた私の胸が、一瞬、完全にその動きを止めた。
けたたましく鳴り響いていた警告音すらも、遠い世界での出来事のように遠ざかっていく。
私の脳裏に、一つの決定的な、絶対に認めたくなかった残酷な真実の断片が、鋭い刃物のように突き刺さったのだ。
(私が……。私が、彼女を殺したんだ)
その言葉が頭の中で言語化された瞬間、私の全身の肌から、再びどっと冷や汗が噴き出した。
違う。違う、そんなはずはない。
私は彼女を愛していた。彼女の才能を愛し、彼女の描く青色を愛し、二人で永遠に物語を紡ぎたかった。
なのに、どうして私は、あの日、あの交差点で、彼女に向かってあんな残酷な言葉をぶつけてしまったのだろう。彼女が絵を描くことを諦めようとしたから? 彼女の才能に対する醜い嫉妬が爆発したから? 私だけが置いていかれるという、浅ましい自己中心的な恐怖から?
すべては、私のせいだ。
私が彼女を追い詰め、私が彼女をあのトラックの前に立たせたのだ。
「あぁぁぁ……! あぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
動かない肉体の奥底で、私の魂が千切れるような悲鳴を上げた。
もう、ただの悲劇のヒロインなどではいられない。
運命の被害者などという美しい仮面は、このどろどろとした罪悪感の泥水によって完全に剥がれ落ち、そこには、最も大切な親友を自分の醜い感情で死に追いやった、恐ろしい大罪人の素顔が残されているだけだ。
空想の図書室に逃げ込んでいたのは、現実の痛みが辛かったからではない。
自分が彼女を殺したという、この圧倒的な罪の重さから目を背け、都合のいい美しい記憶の中で『優しい彼女』に許してもらうためだけの、ひどく卑怯で浅ましい自己欺瞞に過ぎなかったのだ。
ピッピッピッピッピッピッピッピッピッ……!!
赤い光を点滅させる冷酷な機械が、私という大罪人を嘲笑うかのように、いっそう激しいリズムを病室に刻み続けている。
私は、冷や汗と涙でぐっしょりと濡れた漂白されたシーツの上で、自らの罪の重さに完全に押し潰されていた。
首から下が微塵も動かないこの死体のような肉体は、私に与えられた残酷な罰なのだ。
逃げ場など、最初からどこにもなかった。
あの美しい琥珀色の図書室も、手作りのセルリアンブルーの栞も、すべては私の罪悪感が作り出した、底なしの泥沼へと続く恐ろしい落とし穴でしかなかったのだ。
蛍光灯の冷たい光が、罪に塗れた私の顔を容赦なく照らし出している。
自分の犯した罪の気配に戦慄し、私は声にならない嗚咽を漏らしながら、ただ一人、灰色の病室のベッドの上で、いつ終わるとも知れない絶望の淵に沈んでいった。




