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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第2話『滲むインクと白昼夢』(3)

 まぶたを固く閉じ、現実との接続を自分自身の意志で完全に断ち切る。

 呼吸のペースを極限まで落とし、耳の奥にへばりついていた蛍光灯の冷たいノイズを、意識の底へと無理やりに押し込んでいく。代わりに引きずり出すのは、私の一番奥深く、誰にも触れられないよう幾重にも鍵をかけて大切に隠してある、あの愛おしい記憶の欠片たちだ。

 真っ暗だった視界の裏側に、ほんのわずかな温度が灯り始める。それは病室の無機質な白い光ではなく、はちみつを溶かしたような、甘くてとろけるような琥珀色の光。

 ツンとした消毒液の匂いが、ゆっくりと薄れていく。その代わりに私の鼻腔を満たし始めたのは、乾いた古い木の匂いと、微かな埃の匂い、そして、色とりどりの顔料と亜麻仁油が混ざり合った、ひどく懐かしくてむせ返るような、あの場所の匂いだった。


 私が意識を沈めた先にあるのは、冷たいベッドの上なんかじゃない。

 学校の裏手にある長い坂道を下った先、ひっそりと店を構える古い画材屋の中だ。

 足の裏に、軋む木製の床の確かな感触がある。自分の意志で立ち、自分の足で身体を支え、地面を踏みしめているという、あまりにも当たり前で、涙が出るほど尊い感覚。私の隣には、少しだけ小柄な彼女が立っていて、壁一面に天井まで届くほど高くそびえ立つ木製の棚を、まるで宝の山を見つけた子供のように、目を輝かせて見上げていた。

 棚には、世界中から集められた顔料の瓶や、大小さまざまな絵の具のチューブ、大小の筆、そして何百種類もの紙が、所狭しと並べられている。ウルトラマリン、バーントシエンナ、そして彼女が愛してやまないセルリアンブルー。無数の色彩が眠るその空間は、外の世界とは違うゆっくりとした時間が流れていた。

 小さなすりガラスの窓から差し込む午後の斜光が、店内の空気を琥珀色に染め上げ、宙を舞う微細な埃をキラキラと光らせている。


「ねえ、詩織。見て、この紙」


 彼女は、棚の一角に平積みされていた大判の紙の束にそっと手を伸ばし、私を振り返って微笑んだ。

 その声は、蛍光灯のノイズなんかよりずっと鮮明に、私の鼓膜を優しく震わせる。私は彼女の隣に並び、彼女が愛おしそうに撫でているその真っ白な紙を見下ろした。


「すごい……。これ、全部手漉(てす)きの紙なのね」


 私が呟くと、彼女は嬉しそうに何度も頷いた。


「そうなの。コットン百パーセントの、一番いい水彩紙。表面の凹凸がね、すごく深くて、ふっくらしているの。機械で作ったツルツルの紙とは全然違う……。ほら、詩織も触ってみて」


 促されるまま、私は右手を伸ばし、その真っ白な紙の端に指先を触れた。

 私の指の腹から、紙の表面の豊かなざらつきが確かに伝わってくる。ほんの少しだけ湿気を帯びた、生きているような温かみのある繊維の感触。それは、病室のシーツのあの漂白された冷たさとは対極にある、確かな命の匂いがする物質だった。

 彼女は、紙の不揃いなふちの部分を、自分の指先で愛おしそうになぞりながら、少しだけ声を潜めて言った。


「この紙はね、呼吸しているの。私が絵の具を乗せたら、ただ表面に色がつくわけじゃなくて、紙の繊維の奥深くまで色を吸い込んで、紙と一緒に色が育っていくんだよ。……私ね、ずっとこういう本当の紙に、自分の世界を描いてみたかったの」


 彼女の横顔は、琥珀色の光に照らされて、神聖な儀式を前にした巫女のように美しかった。彼女がどれほど『描くこと』を愛し、真摯に向き合っているかが、その指先の微かな震えや、紙を見つめる鳶色とびいろの瞳の奥から痛いほどに伝わってくる。私は、そんな彼女の純粋な情熱に触れるたび、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、ひどく甘い切なさに襲われるのだった。


「これ、買おう。……私のお小遣い、全部はたいてもいいから」


「ふふっ、そんなに高いの? じゃあ、半分は私が出すわ。私たちの、特別な紙にしたいから」


「えっ、いいの? 詩織……ありがとう!」


 私たちは、そのずっしりと重たい水彩紙の束を大切に抱え、画材屋の皺枯れた店主にお金を払った。

 紙の入った大きな平たい紙袋を二人で挟むようにして持ち、私たちは来た坂道をゆっくりと登って、放課後の学校へと戻った。春の生温かい風が私たちの髪を揺らし、腕の筋肉が、紙の重みを感じて微かな疲労を訴える。その『疲れる』という感覚すらも、自分が生きている証拠だと思えて、私は密かに喜びを噛み締めていた。重力に逆らって歩くことが、こんなにも幸福なことだなんて、今の私にしか絶対にわからないだろう。


 私たちが向かったのは、放課後になって生徒たちの姿がすっかり消え去った、旧校舎の図書室だった。

 古い本が放つ紙とインク、そして微かなカビの匂いが、夕暮れの静寂の中に重たく沈殿している空間。顔馴染みの図書委員が帰った後も、私たちは特別にそこの一番奥の大きな閲覧テーブルを使うことを許されていた。

 西日が斜めに差し込み、磨き上げられた木製のテーブルの半分を黄金色に染め上げている。私たちは、二人だけの秘密基地のようなその場所に並んで腰を下ろし、先ほど買ったばかりの真新しい水彩紙を、テーブルの真ん中にそっと広げた。

 古い本の朽ちていく匂いの中に、真新しいコットンの紙の、少しだけ甘くて無垢な匂いが混ざり合う。それは、これから始まる何かの誕生を予感させる、ひどく神聖で、息が詰まるような匂いだった。


「何から描くの?」


 私が小声で尋ねると、彼女は鞄から塗装の剥げた使い込まれたBの鉛筆を取り出し、少しだけ首を傾げて宙を見つめた。


「うーん……。まだ、はっきりとした形はないんだけど。でも、頭の中には、ずっと描きたかった景色があるの。……ちょっとだけ、描いてみてもいいかな」


 彼女はそう言うと、真っ白な水彩紙の上に向かって、前かがみの姿勢になった。

 あの、孤高で美しい猫背の曲線。彼女の世界と現実との間に透明な境界線が引かれる瞬間。

 私は息を潜め、彼女の右手が動き出すのをただ静かに見守った。


 シュッ……。サァッ……。


 鉛筆の柔らかい黒鉛が、コットンの深い凹凸と擦れ合い、静寂の図書室に心地よい摩擦音を響かせ始める。

 彼女は最初、とても柔らかく、宙を探るような迷いのある線を引いていた。しかし、数分が経過するうちに、彼女の瞳の奥に確かな光が宿り、鉛筆の動きは次第に熱を帯び、力強くなっていく。

 真っ白で何の意味も持たなかった紙の上に、少しずつ、一つの世界が産み落とされていく。

 それは、荒涼とした暗い大地の上に立つ、一人の少女の姿だった。

 少女は顔を上げ、ひび割れた不気味な空を見上げている。そして、少女の足元には、空から降ってきたであろう鋭いガラスの破片のようなものが、無数に散らばっていた。

 まだ色は塗られていない、ただの鉛筆のラフスケッチだ。それなのに、彼女の引く線には、圧倒的な感情と温度が宿っていた。少女の後ろ姿から伝わってくる、底知れぬ孤独。ひび割れた空の、今にも崩れ落ちてきそうな重圧感。


 私は、そのスケッチから目が離せなくなっていた。

 ただの絵を見ているはずなのに、私の耳の奥では、風が吹き荒れる音や、薄いガラスが砕けるような悲鳴が確かに聞こえてくるような気がした。彼女の才能は、ただの平面的な線を、温度と湿度を持った『空間』へと完全に昇華させてしまうのだ。

 しかし同時に、私はその絵を見て、強烈な『欠落感』を抱いていた。

 この絵は、あまりにも美しく、あまりにも悲しい。けれど、この絵は『声』を持っていない。この孤独な少女が何を思い、空がなぜひび割れているのか、その理由を語るための『言葉』が、この完璧な世界にはただ一つ、決定的に欠けているのだ。


(私が、この世界に声を与えたい。……この絵に、私の言葉を縫い付けたい)


 それは、理屈を超えた、抑えきれない魂の衝動だった。

 気がつけば、私は自分の鞄から、いつものブルーブラックのインクが入った万年筆を取り出していた。

 私は、彼女が鉛筆を動かしている水彩紙のすぐ隣に、自分のノートの切れ端をそっと置いた。万年筆のキャップを外し、真鍮の冷たい金属軸を握りしめる。指先からペンの先へ、私の心の中にある熱い感情が、一気に流れ込んでいくのを感じる。

 彼女の描いた『ひび割れた空』と『ガラスの破片』を見つめながら、私は自分の内側からとめどなく湧き上がってくる言葉を、一息に書き連ねていった。


『夜空は、時々ひび割れる。

 地上から放たれた重たすぎる願い事に耐えきれなくなった星たちが、

 極限まで張り詰めた薄いガラスのように砕け散って、音もなく降ってくるのだ。』


 インクがノートの紙に染み込み、青黒い文字となって世界に定着していく。

 私がその文章を書き終えてペンを離した瞬間、隣で響いていた彼女の鉛筆の音が、ピタリと止まった。


 図書室に、再び深い静寂が落ちる。

 彼女は、顔を上げ、私の書いたノートの切れ端をじっと見つめていた。

 長いまつ毛に縁取られた彼女の鳶色の瞳が、私が刻んだ文字の上を、ゆっくりと、何度も何度もなぞるように動いている。彼女の瞳の奥で、私が紡いだ言葉と、彼女が描いた情景が、激しく衝突し、そして溶け合っていくのがわかった。


「……星が、砕けたのね」


 彼女は、夢見るような、ひどく掠れた声で呟いた。


「うん。……重すぎる願い事のせいで」


 私が小声で答えると、彼女はゆっくりと顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。

 その瞬間、私たちの視線が空中で激しく絡み合った。

 彼女の瞳の奥には、雷に打たれたような衝撃と、言葉にできないほどの深い歓喜の光が渦巻いていた。きっと今の私も、彼女と全く同じ目をしているはずだ。

 お互いの頭の中にあった、形のない不確かな世界が、今この瞬間、完璧なピースとして噛み合ったのだ。私の言葉は彼女の色彩を求め、彼女の色彩は私の言葉を求めていた。私たちの才能は、最初から一つになるためにこの世界に生まれてきたのだと、疑いようのない狂信的な確信が、私の背筋をゾクゾクと駆け上がっていく。


「詩織」


 彼女は私の名前を呼び、テーブルの上に置かれていた私の右手の上に、自分の左手をそっと重ねてきた。

 ビクン、と。私の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ねた。

 熱い。

 私の手の甲を覆った彼女の手のひらは、火傷してしまいそうなほどに熱かった。彼女の体温が、私の皮膚を通り抜け、冷え切っていた心の奥底にまで瞬時に駆け巡っていく。

 彼女の柔らかい指先が、私の指の隙間に静かに滑り込み、そして、強く、強く握りしめられた。


「私、ずっとこんな風に、誰かと一つの世界を作りたかったの。……私の絵に、詩織の言葉を乗せてほしい。詩織の言葉の隣に、私の絵を置かせてほしいの」


 彼女の熱い吐息が私の頬を撫で、彼女の体温が私の理性を焼き尽くしていく。

 交わった視線と、重なり合った手と手。そこには、一ミリの隙間も存在しなかった。お互いの精神がドロドロに溶け合い、あなたと私という境界線が完全に消失していくような、恐ろしいほどの甘美な一体感。


「一緒に作ろう。……私たちだけの、絵本を」


 彼女のその言葉に、私は声も出せずに、ただ何度も、何度も強く頷いた。

 涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、私は彼女の熱い手を、自分の手でさらに強く握り返した。骨が軋むほどの力で。もう二度と、この手を離さないと誓うように。


 黄金色の西日が、私たちの重なり合った手を美しく照らし出していた。

 古本の匂いと、真新しい紙の匂い。

 互いの才能が共鳴し合った、震えるような喜びと、火傷しそうなほどの熱。

 この完璧で美しい関係が、明日も、明後日も、ずっと永遠に続くと信じて疑わなかった。私たちはただの高校生で、純粋で、無防備で、世界の残酷さなんて何一つ知らなくて。

 ただ、二人で一つの世界を創り上げることだけが、私たちのすべてだったのだ。


 ああ、ずっとここにいたい。

 この琥珀色に染まった、温かくて甘い記憶の底に、永遠に沈んだまま、二度と目を覚ましたくない。

 私は彼女の手の熱を反芻しながら、さらに深く、さらに深く、自らの意志で狂気の白昼夢へと落ちていった。

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