第2話『滲むインクと白昼夢』(2)
枕のシーツに吸い込まれた涙が、じわりと不快な冷たさに変わっていく。
私を外界と繋いでいたわずかな気配すらも完全に消え去り、この四角く切り取られた灰色の病室は、再び世界から切り離された『孤島』へと沈んでいった。
私は、首から下の感覚が抜け落ちたベッドの上で、ただ一人、静寂という名の暴力的な重圧の中に置き去りにされる。窓の外では、私の預かり知らないどこかで、健康な人々が当たり前のように両足で歩き、笑い合い、誰かの温かい手に触れながら、新しい朝の時間を消費しているのだろう。
けれど、この密室には、そんな『生きた時間』は一秒たりとも流れてはこない。
ここにあるのは、ひどく淀んで、腐敗していくのを待つだけの死んだ時間だ。まるで、美しい姿のまま防腐処理を施され、ガラスケースの中にピンで固定された蝶の剥製のように。私の身体も、そして私を取り巻くこの病室の時間も、永遠に変化することのない無機質な形に固定され、残酷なまでに剥製にされているのだ。
私が自由に動かせるのは、天井を見上げる瞳と、ほんのわずかに左右に振ることのできる首だけだった。
私は力なく視線をさまよわせ、真っ白な天井の一点を見つめた。そこには、いつ、誰がつけたのかもわからない、薄茶色の小さなシミがあった。
昨日も、一昨日も、一ヶ月前も、私はただ息を潜めて、そのシミを見つめていた。雨水が染み出したような、あるいは踏み潰された枯れ葉のような、いびつで不規則な形をした汚れ。
ずっと見つめていると、そのシミが、私が行くことのできない遠い異国の地図のように見えてきたり、悲鳴を上げて歪んだ人間の顔のように見えてきたりする。私の心は、その無意味な汚れの中に何らかの意味を見出そうと、必死に想像力の糸を紡ごうとする。そうでもしなければ、圧倒的な『何もない時間』に押し潰されて、狂ってしまいそうになるからだ。
しかし、どれだけ想像を膨らませようとしても、現実の病室は容赦なく私の心を逆撫でしてくる。
静まり返った部屋の中で、私の耳に執拗にまとわりついてくる音があった。
天井に取り付けられた、長方形の冷たい蛍光灯。その青白い光を放つ光源の奥から、絶え間なく、そしてひどく単調な低い音が漏れ出しているのだ。
ジジジ……。
ジジジジジ……。
それは、古い機械の部品が震えるような、微かな耳障りな音だった。
健康な人間であれば、日常の生活音にかき消されて、一秒で意識の外へと追いやってしまうような些細な音。けれど、あらゆる外界からの気配を絶たれ、動くことすら許されない私にとって、その微小な震動音は、耳のすぐ真横で羽虫が飛び回っているかのように、巨大で暴力的な響きを持って頭の奥深くにまで突き刺さってくる。
ジジジ、という音が鳴るたびに、私の頭の芯が微かに共鳴し、こめかみの奥がギリギリと締め付けられるように痛む。
その音は、私に『お前は今、この冷たくて人工的な光の下に縛り付けられているのだ』という事実を、一秒の休みもなく教え込み、洗脳しようとしているかのようだった。あの教室で聞いた、彼女の鉛筆が紙を擦るシュッ、シュッという世界で一番優しい呼吸音とは、まるで違う。生命の温もりを一切持たない、私を監視するためだけの冷酷な機械の羽音。
(やめて……。お願いだから、その音を止めて……)
私は心の中で両耳を塞ごうと必死に念じたけれど、当然のように私の腕は一ミリも動かず、その音から逃れるすべはどこにもなかった。
逃げ場のない音の拷問に耐えかねて、私はわずかに動く首を使い、顔をゆっくりと右側へと背けた。
冷たい光を放つ天井から視線を外し、ベッドの脇に置かれた白いスチール製のサイドテーブルへと目を向ける。
そこには、私をこの絶望の底に繋ぎ止める、最も残酷で、最も愛おしい『重り』が置かれていた。
一冊の、大きなスケッチブック。
私と彼女が、あの黄金色の教室で、一緒に夢を紡いでいた【未完の絵本】。
表紙の厚い画用紙は、もはや本来の無垢な白色を失っていた。
右半分を無惨に覆い尽くしているのは、赤黒く変色し、乾燥してひび割れた巨大な血痕だ。
鉄が赤茶色に錆びていくように、時間をかけて黒く沈み、どす黒く変質してしまった血液の染み。それは、あの日、トラックの冷たい金属の塊が私たちを押し潰した瞬間、私に覆い被さり、私を庇って息絶えた彼女の身体から溢れ出した、命の最後の痕跡だった。
彼女の細い血管を巡っていた温かい血。私を狂おしいほどに惹きつけた、あの柔らかな体温と、セルリアンブルーの空を描き出していた魔法のような色彩。そのすべてが、強引にこの一冊のスケッチブックの上にぶちまけられ、そして永遠に乾ききってしまったのだ。
ページとページの間には、固まった血が入り込み、まるで強力な接着剤のように紙同士を固く張り付かせてしまっているのが、ベッドの上からでも痛いほどによくわかった。
きっと、その閉じられたページの中には、彼女が最期に描いた『星を拾う少女』の線画が、今も誰の目にも触れることなく眠っているはずだ。
夜空から零れ落ちた、鋭くて冷たい星の欠片。それを拾い集めようとして、指先から血を流す孤独な少女の絵。
彼女は、あの日、どんな表情でその線を引いていたのだろうか。私に見せるために、どんな美しい色をそこに重ねようとしていたのだろうか。
(見たい。……ページを開きたい。彼女が残してくれた、最後の色に触れたいよ……)
私は、シーツの上に投げ出された自分の右腕に向かって、悲痛な祈りを込めた。
お願い、動いて。ただの一度でいい。この腕を持ち上げて、あの表紙に触れさせて。彼女の血に触れて、彼女の命の欠片をこの手で拾い集めさせて。
ベッドの端から、サイドテーブルの上に置かれたスケッチブックまでの距離は、ほんの三十センチほどだ。
健康な身体であれば、何も考えずに手を伸ばせば、一秒もかからずに届く距離。
けれど、神経を断ち切られた今の私にとって、その三十センチの空間は、どれほど叫んでも、どれほど涙を流しても絶対に飛び越えることのできない、無限の深さを持った断崖絶壁だった。
心がどれほど激しく『手を伸ばして』と叫んでも、私の腕は鉛の塊のようにベッドに沈み込んだまま、ピクリとも動かない。指先が、ほんのわずかに震えを起こすことすらない。私の意志と身体は完全に切り離され、見えない分厚いガラスの壁で隔てられてしまっているのだ。
届かない。
絶対に、届かない。
あの絵本の中で、枯れた大樹の枝に引っかかった一番美しい星の欠片に、どうしても手が届かなかった少女のように。
重力という絶対的な法則と、動かない身体という残酷な檻が、私の願いを無情に叩き落とす。
「ぁ……、うぅ……」
声にならない嗚咽が、ひび割れた唇から漏れ出した。
悲しみが、悔しさが、そして圧倒的な無力感が、どろどろとした黒い感情となって胸の奥からせり上がってくる。
どうして。どうして私だけが、こんな冷たい世界に一人で残されてしまったの。
どうして彼女は、私なんかを庇って、自分の美しい未来を全部投げ出してしまったの。
こんな風に、動かない身体で天井のシミを見つめ、蛍光灯のノイズに耳を塞ぐことすらできず、死んだような時間をただ消化していくためだけに、私は生かされているの?
(違う。こんなの、私の現実じゃない……。私の居場所は、ここじゃない……)
私は、強く、痛いほどに奥歯を噛み締めた。
ツンとした消毒液の匂いが、呼吸をするたびに肺を冷たく焼き尽くしていく。シーツの漂白された無機質な白さが、私の視界を容赦なく侵食してくる。
嫌。こんな世界で、たった一人で呼吸を続けるなんて、絶対に耐えられない。
帰りたい。
あの、すべてが完璧だった世界に。
生温かい春の風が吹き込み、オレンジ色に熟した西日が黄金色の雪を降らせていた、あの放課後の教室に。
私の隣には彼女がいて、柔らかい髪を揺らしながら、セルリアンブルーの絵の具に夜の色を混ぜ合わせていた。
私の右手の指先には、確かな温度と重さを持った万年筆があって、ブルーブラックのインクで、彼女のための言葉を紡ぐことができた。
あの場所だけが、私の魂が呼吸を許される、唯一の美しい聖域だったのだ。
(帰らなくちゃ。……彼女が、あの教室で私を待っているから)
強烈で、狂おしいほどの渇望が、私の胸の中で黒く大きく膨れ上がっていく。
私はゆっくりと、その重たいまぶたを閉じた。
瞳を刺していた青白い蛍光灯の光を遮断し、視界を意図的に完全な暗闇へと沈め込む。
現実の冷たさを、匂いを、音を、一つ残らず私の世界から締め出すために。
私は、自らの意志で、あの美しい白昼夢の底へと、再び深く深く潜っていくための準備を始めた。




