第2話『滲むインクと白昼夢』(1)
病室の夜は、決して完全な暗闇にはならない。
天井の隅にある小さな常夜灯が、オレンジ色の薄らぐことのない光を床に落とし続けているからだ。その光は、私が眠りに落ちてあの美しい放課後の教室へ逃げ込むことを許さないとでも言うように、一晩中、私の閉じたまぶたの裏側にへばりついていた。
時計の針がどこを指しているのか、私にはもう知るすべがない。首を動かして壁の時計を見上げるだけの筋肉すら、私の身体はとうの昔に手放してしまったから。ただ、廊下を巡回する看護師のゴム底の靴がリノリウムの床を擦る『キュッ……キュッ……』という微かな摩擦音の頻度や、窓の外から薄いカーテン越しに忍び込んでくる光の冷たさの変化で、夜が死に絶え、望みもしない朝が強制的にやってきたことだけは、残酷なほど正確に理解できた。
やがて、私の病室の重たいスライドドアが、ガラガラと無遠慮な音を立てて開かれた。
車輪の油が切れた医療用カートが、カラカラと軽い音を立てながら部屋の中へと押し込まれてくる。
「月城さん、おはようございます。朝ですよ」
入ってきた若い看護師の声は、少しだけトーンが高く、訓練された明るさと優しさに満ちていた。
彼女のその声には、一切の悪意など存在しない。むしろ、病に伏せる患者を元気づけようとする、純粋な善意と職業的な使命感でコーティングされている。けれど、その『健康で、自分の足で歩き、自分の意志で言葉を発することができる人間』の放つ、屈託のない明るい響きそのものが、動けない私にとっては、鋭いガラスの破片のように鼓膜を切り裂くのだ。
「カーテン、開けますね。今日はすごくいいお天気ですよ」
私が声を発して返事をすることも、首を縦に振って頷くこともできないのを承知の上で、彼女は明るく言葉を続ける。そして、私のベッドを囲んでいた薄緑色のカーテンを、シャッ、という勢いのある音とともに乱暴に引き開けた。
続いて、窓際の遮光カーテンも大きく左右に開かれる。
その瞬間、暴力的なまでの朝の光が、病室の隅々にまで一気に雪崩れ込んできた。
それは、あの教室で私たちを優しく包み込んでくれた、温かくて愛おしい黄金色の西日とはまったく違う。どこまでも白く、冷徹で、一切の影や曖昧さを許さない、尋問室のスポットライトのような無慈悲な光だった。
朝の光は、空中の微細なホコリを照らし出す。あの教室で見た光の粒子は、重力を失った黄金色の雪のように美しかったのに、この病室で舞い散る粒子は、ただの乾燥した皮膚の欠片や、漂白されたシーツから抜け落ちた無機質な糸くずの死骸に過ぎないことが、はっきりとわかってしまう。私は目を細め、その残酷な光から逃れようとしたけれど、動かない首では顔を背けることすら許されなかった。
「よく眠れましたか? 熱と血圧、測っていきますね」
看護師はそう言いながら、私のベッドの右側に立ち、シーツを無造作にめくり上げた。
隠されていた私の右腕が、冷たい朝の空気に晒される。
「失礼しますね、ちょっと腕を持ち上げますよ」
彼女はそう言うと、私の右の手首と肘のあたりを下から支え、よいしょ、と小さな掛け声とともに持ち上げた。
その瞬間、私の中で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちるような、ひどい絶望感が込み上げた。
彼女の手によって持ち上げられた私の腕は、まるで私という人間から切り離された、別の無機質な物体のように重く、だらりと垂れ下がっていた。筋肉の緊張も、関節の反発力もなく、ただ地球の重力に完全に従うだけの、死んだ肉の塊。
彼女は私の脇の下に体温計を滑り込ませると、落ちないように私の死んだ腕を強引に胸元へと折り曲げ、シーツで押さえつけた。
(……やめて)
私は心の中で、声にならない悲鳴を上げた。
(私に触らないで。私の身体を、ただのモノみたいに扱わないで……!)
けれど、私の心の中の絶叫が彼女に届くはずもない。私は、ショーウィンドウに飾られた関節の外れたマネキン人形か、あるいは綿を抜かれた古いぬいぐるみのように、彼女のされるがままになっているしかなかった。
自分の肉体が自分のものではなく、他者の手によって物理的に管理され、動かされているという事実。それは、肉体的な痛みを伴う拷問よりもずっと深く、私の尊厳を静かに、そして確実に削り取っていく『透明な屈辱』だった。
ピピピッ、ピピピッ。
無機質な電子音が鳴り、彼女は私の脇から体温計を抜き取った。
「三十六度四分。うん、お熱はないですね。じゃあ次は血圧、測りますね」
彼女は再び私の右腕を持ち上げると、今度は灰色の分厚い布でできた血圧計の腕帯を、私の二の腕にきつく巻き付けた。マジックテープがベリベリと剥がされ、再び強く固定される暴力的な音。
機械のスイッチが押されると、ウィーンという低い音が鳴り響き、腕帯の中に急速に空気が送り込まれていく。
布が膨張し、私の二の腕を強く、痛いほどに締め上げてくる。肉が圧迫され、血流が物理的に止められる感覚。その締め付けの頂点で、ドクン、ドクンと、私の腕の奥底で脈打つ血管の拍動が、腕帯の圧力に逆らうようにして確かに感じられた。
あぁ、私は生きているのだ。
こんなにも私の心は死に絶えて、魂はあの教室に置き去りにされたままだというのに。私の心臓は愚直に血液を送り出し、この動かない肉体の細胞一つ一つに酸素を運び続けている。なんて残酷な、命の仕組みなのだろう。
血圧計の空気がプシューッと抜け、圧迫から解放された私の腕を、看護師は再び元の位置、ベッドの冷たいシーツの上へと無造作に下ろした。バサッ、という音とともに、私の腕は重力に従って落ち、そこから一ミリも動かなくなる。
「血圧も上百十の下七十。安定してますよ。……じゃあ、最後に点滴のお薬、交換しますね」
看護師はそう言って、医療用カートの上で新しい点滴の準備を始めた。
ビニールの袋がガサガサと擦れる音。プラスチックの管がカチリと接続される音。
そして、私の右手の甲に刺さったままの、点滴の針の接続部へと彼女の手が伸びてくる。
その時、私の視界の端に映った彼女の『手』に、私は心臓を素手で握り潰されたような錯覚を覚え、息を呑んだ。
彼女の両手には、薄い、青色の使い捨てゴム手袋がはめられていたのだ。
医療現場ではごく当たり前の、一切の水分を含まない、カサカサとした無機質な質感。そしてその色は、あの日、彼女の指先についていた『セルリアンブルー』にひどく似た、薄く冷たい青色だった。
ゴム手袋に包まれた看護師の指先が、私の手の甲に触れる。
その感触は、どこまでも冷たく、人工的で、人間の皮膚が本来持っているはずの微かな湿り気や温もりを完全に遮断していた。ゴムの膜を一枚隔てた向こう側にあるはずの彼女の体温は、私の凍りついた皮膚には一ミリも届かない。ただ、キュッ、というゴムが擦れる嫌な音だけが、私の鼓膜を不快に撫でていく。
その冷たい感触が、私の脳裏から、あの放課後の教室での記憶を強烈に引きずり出した。
あの日。
風に煽られたスケッチブックを押さえた、彼女の左手。
第一関節にべっとりと張り付いた、鮮烈なセルリアンブルーのアクリルガッシュ。
私が手を伸ばし、彼女の指先に触れた時の、あの火傷しそうなほどの熱量。
少しだけざらついた絵の具の無機質な感触のすぐ下で、確かにトクン、トクンと脈打っていた、彼女の命の律動。
生きている女の子だけが持っている、ひどく柔らかくて、少しだけ泣きたくなるような、あの愛おしい温度。
私は、あの体温を、あの青色を、永遠に忘れないように手のひらに強く握りしめていたはずだった。
それなのに。
今、私のこの動かない右手に触れている『青色』はなんだろう。
一切の温もりを持たず、私をただの『血の通わない物体』として扱うための、冷酷なゴムの青色。
私の指先は、もう二度と、あんな風に自らの意志で誰かの温度に触れることはできない。一生、この薄暗い無菌の空間で、他者の冷たいゴム手袋越しにしか、世界と関わることが許されないのだ。
点滴の管が新しく繋がり直され、ヒヤリとした冷たい薬液が、静脈を通って私の体内へと直接流し込まれていく。その人工的な冷たさが、腕を伝い、肩を越え、私の心臓の奥底まで凍りつかせていくのがわかった。
「はい、これで終わりましたよ。何かあったら、ナースコール押してくださいね」
看護師は、私が自力でナースコールのボタンすら押せないことを一瞬忘れたのか、それともただの定型句として発したのか、いつも通りの明るい声でそう言うと、私に背を向けた。
ガラガラとカートを引く音が遠ざかり、重たいスライドドアがピシャリと閉められる。
再び、病室は完全な静寂と、冷たい朝の光だけが支配する空間へと戻った。
私は、ベッドの脇に力なく転がされた自分の右腕を、ただじっと見つめていた。先ほどまで看護師の青いゴム手袋が触れていた手の甲には、アルコール綿で拭かれたあとの、ツンとした薬品の匂いだけが虚しく残されている。
あの日、私の大切なものを、私の心臓の半分を、無惨に引き裂いて奪い去っていったあの事故。その残酷な記憶が、ゴムの青色と重なって胸を締め付ける。
限界まで見開かれた私の両目から、ポロリと、熱い水滴が零れ落ちた。
それは、感情の制御を失った私の心からあふれ出した、ただの塩水に過ぎない。
動かない手で拭うことすら許されないその涙は、顔の側面を伝い、耳の裏側へと流れ込み、冷たい枕のシーツにゆっくりと染み込んでいく。
ただ自分の涙の冷たさを感じることしかできないこの圧倒的な無力感の中で、私は、自分の魂が音を立ててすり減っていくのを、ただ黙って見つめていることしかできなかった。




