第1話『欠落のパレット』(5)
完全な暗闇と無音の底から、私の意識は非常にゆっくりと、しかし抗いようのない暴力的な力によって、水面へと引きずり上げられていった。
それは、温かい微睡みからの穏やかな目覚めなどではない。泥のように重く冷たい深海に沈んでいた心を、無理やりに酸素の存在する現実世界へと釣り上げられ、強烈な気圧差に身体中のすべてが悲鳴を上げるような、ひどく苦痛に満ちた浮上のプロセスだった。
最初に私を現実に引き戻したのは、密室であるはずの私の鼻の奥を容赦なく蹂躙する、あの冷たくて残酷な匂いだった。
先ほどの教室で私の心を守る防壁を打ち砕いた、ツンとした揮発性の高い消毒液の匂い。そして、真っ白に漂白されたシーツから漂う生気のない匂いと、床を拭き上げたばかりの薬品の、錆びた鉄のような悪臭。
それらはもはや『風に乗って流れてきた』などという生易しいものではなかった。この空間そのものを構成する成分として、空気が凍りつくほどに充満しているのだ。私は肺を動かして呼吸をするたびに、その冷たく人工的な匂いを体内に取り込まざるを得ない。さっきまで私の肺を優しく満たしていたはずの、チョークの粉の匂いも、生温かい春の風の匂いも、彼女の柔らかな髪から漂っていた柑橘系の香りも、ここには分子のひとかけらも残されていなかった。
続いて、遮断されていた聴覚が、突然スイッチを入れられたように唐突に回復する。
ピッ……。
ピッ……。
それは、生命の躍動とは最も対極にある、極めて無機質で規則的な電子音だった。音程の狂いもなく、音量も一定。私の弱々しい心臓の鼓動を、無数の冷たい電極が無理やり拾い上げ、機械的な波形として冷徹に出力している音。心電図の、命を監視するアラーム音だ。
そして、その規則的な電子音の合間を縫うようにして、別の音が聞こえてくる。
ポツッ。
……ポツッ。
あの美しい教室で、時計の針の音を侵食した、あの嫌な水音の正体。
それは私のベッドのすぐ脇に立てられた冷たい金属のスタンドから、透明なプラスチックの筒の中へと、一定の速度で落ちていく点滴の水滴の音だった。
細い管を通って私の腕へと直接流し込まれるその冷たい液体は、私の血と混ざり合い、私の身体がもはや私自身のものではなく、この部屋の機械の一部に過ぎないという事実を、残酷なまでに教え込もうとしていた。
遠くからは、廊下を歩く看護師の靴音が、キュッ、キュッ、と乾いた音を立てて響いてくる。吹奏楽部の不器用なトランペットの音も、グラウンドの喧騒も、彼女の鉛筆が紙を擦る『世界で一番優しい呼吸音』も、この灰色の空間には一切存在しない。
私は、鉛を塗られたように重い両目のまぶたに、残されたすべての力を込めた。
接着剤で張り付いていたかのようなまつ毛とまつ毛の間が、ミリ単位でゆっくりと、微かに痙攣しながら引き剥がされていく。
視界に飛び込んできたのは、世界を黄金色に染める美しい西日でも、愛おしい数式が残る黒板でもなかった。
血の気を完全に失った、青白い蛍光灯の強烈な光。そして、その光にのっぺりと照らし出された、無数のひび割れとシミが走る、真っ白で無機質な病室の天井だった。
急激な光に目が眩み、鋭い痛みが眼球の裏側を貫く。私は眩しさに顔をしかめようとしたけれど、顔の筋肉すら思うように動かず、ただ半開きの虚ろな目のまま、その天井のひび割れを見つめることしかできなかった。
天井の隅にある空調の吹き出し口から、微かな低い音と共に、徹底的に温度を管理された人工的な冷たい空気が吐き出されている。それは決して、ノートのページをめくり、彼女の髪を揺らすような『生きた風』ではない。
これが、現実。
私は、自分が心の底から願い、創り上げたあの完璧で美しい【放課後の教室】という壮大な夢から、ついに引きずり出されてしまったのだ。
ベッドの上で身動きすら取れない私の心が、病室の冷たい音や匂いを素材にして、私が最も望む『彼女のいる世界』を必死に描き続けていた、哀しい白昼夢。それが、私に残された唯一の救いだったのに。
私は、ベッドの上で仰向けの姿勢のまま、自分の身体の状態を確かめようとした。
あの夢の世界で、私は確かに自分の両手をノートの上に置き、紙のざらつきを感じ、お気に入りの万年筆の冷たさを握りしめていた。自分の意志で指先を動かし、美しいインクを走らせていた。私の心と身体は、当たり前のように繋がっていたはずだった。
(動いて)
私は、白いシーツの下にあるはずの自分の右腕に向かって、心の中で強く、祈るように念じた。
空想の中ではなく、現実の身体を動かすための命令。私の心から発せられた願いが、細い糸を伝うようにして、肩から腕、そして五本の指先へと届いていくはずの、確かな繋がり。
(動いて。お願いだから、動いてよ……!)
しかし。
私の心が発したその悲痛な叫びは、首の付け根のあたり、あの日完全に壊れてしまった場所で無残に断ち切られ、暗い虚無の中へと吸い込まれて消滅した。
私の右腕は、ただの一ミリも、ほんのわずかな震えすらも返してはくれなかった。
それどころか、『そこに腕がある』という感覚すら、恐ろしいほどに希薄なのだ。まるで、首から下の肉体が自分のものではなく、他人の冷たい身体を強引に縫い付けられているかのような、おぞましくて悲しい感覚。
心は『腕を持ち上げて』と泣き叫んでいるのに、身体は完全に沈黙している。骨が動く気配も、筋肉が応える感覚も、シーツと皮膚が擦れる音も、何一つ生まれない。
私は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、呼吸を止め、全身の血が沸騰するほどに、右腕の先端に意識を集中させた。額から冷たい汗が滲み出し、こめかみの奥でドクドクと脈が打つ。
ピクッ、と。
右肩の付け根あたりが、微かに痙攣を起こした。けれど、それはただの無意味な反射に過ぎなかった。その微かな動きは肩から先へは一切伝わらず、私の指先をわずかに持ち上げることすら叶わなかった。
地球の重力が、私にだけ他の人間の何十倍もの力で圧しかかっているかのようだった。圧倒的な『鉛の重さ』。私の腕は、ベッドのマットレスに深く沈み込み、重力という絶対的な法則の前に完全に屈服して、磔にされている。
これが、あの日、身体を壊された人間の残酷な現実。
あの教室で、私が彼女の指先についたセルリアンブルーの絵の具に触れ、その肌の温もりを感じたのは、すべて私の心が捏造した哀しい幻に過ぎなかったのだ。現実の私の指先は、今この瞬間も、シーツのざらつきすら感じ取ることができず、ただ無機質な空間でゆっくりと冷たくなっていく。
「ぁ……、あ……」
声を振り絞って言葉を紡ごうとしても、乾いた喉から漏れ出すのは、ひび割れた笛のような無意味な空気の音だけだった。万年筆で美しい言葉を紡ぐことができたはずの『月城詩織』は、現実の世界では、自分の絶望すら声に出して泣き叫ぶことができない。
私は身動きの取れない肉体の牢獄の中で、首の筋肉だけをわずかに動かし、ゆっくりと顔を右側へと向けた。
視界の端に映ったのは、ベッドの横に置かれた、無機質な白いスチール製の小さなテーブル。
そこには、冷たい医療器具と一緒に、ある一つの『忘れ物』が置かれていた。
一冊の、大きなスケッチブック。
私と彼女が、あの美しい教室で一緒に作っていた、タイトルすら決まっていない【未完の絵本】の現物だった。
その表紙は、もはや美しい真っ白な画用紙ではなかった。
数ヶ月前、私たちを襲ったあの凄惨な事故の日のまま。表紙の右半分には、大量の液体が染み込み、乾燥し、赤黒く変色した巨大な染みがべったりと付着している。錆びた鉄のように変質した、生々しい死の痕跡。
それは間違いなく、動けない私を庇って、私の上で息絶えた彼女の体内から流れ出した血だった。あの、夜が混ざった空の色を鮮やかに描き出していた彼女の指も、私を狂おしいほどに惹きつけた柔らかな体温も、すべてはこの赤黒い染みとなって、スケッチブックの表紙に乾燥して張り付いているのだ。
そのスケッチブックのページをめくれば、きっとそこには、彼女が最期に描いた『星を拾う少女』の絵が残されているはずだ。そして、その横には、私が言葉を書き込むための空白のページが、いつまでも待ち続けているはずだ。
でも、私にはそれを確かめるすべがない。
私のこの動かない、鉛のような腕では、テーブルに手を伸ばすことも、その重たい表紙を自力でめくることも、そしてその空白に文字を書き込むことも、永遠に不可能なのだから。
彼女の色彩はあの日で途絶え、私の言葉はこの動かない身体の檻に閉じ込められたまま、ゆっくりと腐っていく。
私たちの愛おしいアトリエは、この無機質な灰色の病室のベッドの上で、完全に死を迎えていた。
ピッ……。
ピッ……。
ポツッ。
冷酷なくらい正確な電子音と、点滴の水滴が落ちる音だけが、無慈悲に病室の時間を刻み続けている。
私は、二度と開くことのできない私たちの残骸から、どうしても視線を外すことができなかった。瞬きをするたびに、限界まで見開かれた私の両目から、熱を帯びた液体が次々と溢れ出した。
動かない手で拭うことすら許されないその涙は、表面張力の限界を超え、目尻を伝って、重力という絶対的な力に従い、ツーッと頬を滑り落ちていく。涙の雫がシーツに染み込む微かな音が、私の耳元で虚しく響いた。
私は、声にならない絶叫を喉の奥で飲み込みながら、果てしない灰色の孤独と無音の絶望の中へと、再び静かに沈んでいった。




