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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第1話『欠落のパレット』(4)

 教室を満たしていた生温かい春の風が、不意に、完全に止んだ。

 それは徐々に風速を落としていったというような、自然界の優しい変化ではなかった。まるで世界を動かしていた巨大なオルゴールのぜんまいが、何者かの手によって唐突にへし折られたかのような、暴力的で不気味な静止だった。

 ほんの瞬き一つ前まで、風の圧力を受けて大きく孕み、カラカラと金属のリングを鳴らしていた窓際の薄手のリネンカーテンが、空中で不自然に硬直したかと思うと、地球の重力だけに従ってだらりと垂直に垂れ下がった。カーテンの裾が木製の床に擦れる、スッという微かな音が、やけに大きく耳につく。

 隣の席でスケッチブックに向かっていた彼女の、風に撫でられていた柔らかな髪の揺れもピタリと止まった。毛先の一本一本が空中で凍りついたように静止し、教室は完全な無風状態、すなわち一切の空気の循環を持たない『完全な密室』へと変貌した。

 急激に息の根を止められた空間の圧力に、私の鼓膜が内側から圧迫される。私は無意識のうちに唾を飲み込んで耳抜きをしようとした。コクッ、という自分の喉の音が、異常なほど鮮明に頭蓋骨の内側に響き渡る。


 その瞬間だった。

 私の鼻の奥を、極めて異質で、冷酷な匂いが強烈に突き刺した。

 ツンとした、鼻の粘膜を直接焼くようなアルコールの匂い。そして、皮膚の毛穴の奥深くまで染み込んでくるような、錆びた鉄と薬品が混ざり合った、うがい薬の独特の悪臭。さらには、熱湯で徹底的に煮沸消毒された直後の白い布が放つ、無機質で生気の欠落した匂い。

 それらは決して、放課後の美術室や、古い木とチョークで構成されたこの教室に存在するはずのない匂いだった。

 アクリルガッシュのあの懐かしい匂いも、黒板消しから舞い散ったチョークの粉の乾いた匂いも、彼女の髪から漂っていた柑橘系のシャンプーの匂いも、一瞬にしてその暴力的な薬品の匂いの濁流に呑み込まれ、跡形もなく駆逐されていく。


 呼吸をするたびに、冷たいアルコールの気体が気管支をヒリヒリと焼き、肺の奥底へと容赦なく侵入してくる。異物を排除しようとする身体の反射で、胃の腑がせり上がるような強烈な吐き気が込み上げた。

 なぜ、この完璧な教室に、病棟のような消毒液の匂いが充満しているのか。

 心臓が凍りつき、本能が『ここはもう安全な場所ではない』と悲鳴を上げている。しかし同時に、私が心血を注いで構築したこの『完璧な放課後』という世界を守るため、私の心は必死に、この異常事態に対する言い訳を探し始めた。


(落ち着いて。何もおかしくないわ。ちゃんと理由があるはずだから……)


 私はノートに視線を落としたまま、奥歯をギリッと強く噛み締め、震える心で必死に理屈を組み立てていく。


(保健室よ。この教室の真下には、保健室があるじゃない。きっと保健室の先生が、消毒液の大きな瓶をうっかり落として割ってしまったのね。床にこぼれた冷たい液体が気体になって、廊下に溢れ出したんだわ。それが、さっきまで吹いていた強い春の風に乗って、開け放たれた窓から一気に流れ込んできたのよ。だから薬品の匂いがするの。戸棚全体が倒れたのかもしれないわ。そう考えれば、風が急に止んだように感じたのも、気圧の谷が通過したことによる一時的な無風状態に過ぎない。……ただの偶然が重なっただけ。何も、恐れることなんてないわ)


 私は心の中で何度もその呪文を繰り返し、狂ったように自分自身を強引に納得させようとした。万年筆を握る右手に限界まで力を込め、ノートの白い紙面にペン先を強く押し付ける。硬いペン先が紙の繊維に食い込み、ブルーブラックのインクがじわりと不格好な染みを作る。その『紙と金属が擦れる』という確かな感触だけが、私をこの美しい世界に繋ぎ止める唯一の命綱だった。


 しかし、世界の綻びは嗅覚の異常だけに留まらなかった。

 次に私を襲ったのは、私の目が捉えていた『光』の決定的な変質だった。


 ノートの白い紙面を黄金色に染め上げていた西日の光が、チカッ、と一瞬だけ不自然に瞬いた。

 厚い雲が太陽を隠した時のように、ゆっくりと暗くなっていくのではない。部屋の壁にあるスイッチを乱暴に切り替えた時のように、光の色と質そのものが、瞬時に書き換えられたのだ。

 オレンジ色に熟していた温かい斜光は完全に消え失せ、代わりに、血の気を完全に失ったような、ひどく無機質で青白い光が教室全体をのっぺりと照らし出した。

 机や椅子の影が伸びる方向が、窓からの斜めの角度ではなく、真上からの垂直へと不自然に切り替わっている。それは太陽がもたらす光ではなく、深夜の無菌室や解剖室の天井から見下ろしている、冷たくて残酷な蛍光灯の光そのものだった。


「……え?」


 私は弾かれたように顔を上げ、隣に座る彼女を見た。

 その瞬間、私の心臓の鼓動が恐怖で完全に凍りついた。

 青白い光に照らされた彼女の美しい横顔が、水に落ちたインクのように、一瞬だけ激しくブレたのだ。彼女の輪郭を構成していた光がズレて溶け出し、赤と青の色が不気味にダブって見え、そして再び強引に元の形へと戻る。

 現実の人間には絶対に起こり得ない、空間そのものの歪み。


(違う……! これは、私の目が疲れているだけよ!)


 私は心の中で悲鳴を上げ、強く、何度も瞬きを繰り返した。目を見開くたびに、青白い光が眼球を刺す。


(ずっと細かい文字をノートに書き続けていたから、目の奥がひどく疲れて、痙攣しているの。それに、さっき彼女を見つめるあまり息を止めていたから、一瞬だけ立ち眩みを起こしただけ。そう、ただの貧血なのよ。だから景色が歪んで見えただけ。彼女の輪郭がブレるはずなんてないわ。彼女はここにいる。さっき私に触れてくれた温かい体温を持って、確かに私の隣に存在している……!)


 私は自分の体調不良のせいだと決めつけ、必死に論理の壁を補強し、世界のほころびを塞ごうとした。そうしなければ、この教室という空間そのものが、足元から音を立てて崩れ落ちてしまうという強烈な恐怖があった。

 隣の彼女は、私の視界の異常など気にも留めない様子で、青白い光の下で、依然として筆を動かし続けている。しかし、その滑らかだったはずの動作すらも、まるで古い映写機で再生された不格好な映像のように、カクカクと不自然に見え始めていた。筆が画用紙に触れるタイミングと、水音が鳴るタイミングが、ほんの少しだけズレている。


 そして、私の防壁を完全に打ち砕く、最後の致命的な異変が訪れる。

 教室の正面、黒板の上に掲げられた丸い壁掛け時計の音だ。

 今まで、放課後の静寂の中で『カチッ、カチッ』と規則的な歯車の音を正確に刻んでいたその乾いた音が、突如としてそのテンポと音質を崩し始めた。


 カチッ……。

 カ、チッ……。

 ……ポツッ。


 硬い部品が噛み合う機械音だったはずの音が、次第に丸みを帯び、重たい水気を孕み始めたのだ。


 ポツッ。

 ……ポツッ。


 それはもはや、時計の針が進む音ではなかった。何らかの少し粘り気のある液体が、限界まで膨らんでちぎれ落ち、小さなプラスチックの筒の底に等間隔で落下する、ひどく生々しく、湿った水音。

 秒針の刻む一秒よりもずっと長く、重たく、間延びした不気味な間隔。

 ポツッ、という音が鳴るたびに、水面に落ちた波紋のような低い響きが私の頭蓋骨の内側にべったりと張り付き、こめかみを締め付けるようなひどい頭痛を引き起こす。


(水滴の音……? 違う、これは時計の音。私の耳が、蛍光灯のノイズと聞き間違えているだけよ! もし本当に水音だとしたら、教室の後ろにある手洗い場だわ。誰かが水道をきつく閉め忘れて、古くなった蛇口から水が漏れているのよ。水滴が流し台に落ちて、その音が教室に大きく響いているだけ。そう、ただの水漏れなのよ……!)


 私は万年筆を握る右手をガタガタと震わせながら、なおも哀しい言い訳にすがりついた。消毒液の匂いも、青白い光も、この水滴の音も、すべて『古い学校の教室』という空間で偶然が重なれば起こり得る現象だ。そう、強引に、血を吐くような思いでこじつけようとした。


 しかし、私の聴覚は残酷なほどに正常に機能していた。

 その『ポツッ』という音の響きは、開けた空間でステンレスに水が当たるような音ではない。もっと密閉された、直径わずか数センチの小さな透明な筒の中で、水滴が水面に衝突しているような、くぐもった、逃げ場のない嫌な音だった。

 それは間違いなく、教室の後ろからではなく、私の耳のすぐ真横、数十センチの距離から鳴っている。


 ポツッ。……ポツッ。


 一定のリズムで律儀に滴下するその音は、まるで私の心臓の鼓動を強制的に支配するための、外部から繋がれた機械の音のように私の耳を完全に支配していく。


「やめて……」


 私は声に出して呟いたつもりだったが、喉の奥がカラカラに乾ききり、かすれた空気の漏れる音しか出なかった。

 視界の端から、黄金色だったはずの世界がどす黒く変色し、剥がれ落ち始めていた。ノートの上に書いた私の美しい文字が、まるで大量の水に落としたかのようにぐにゃりと歪み、紙を溶かしながら流れていく。

 隣にいるはずの彼女の姿が、激しいノイズの海に沈み、その色彩を急速に失っていく。


(お願い、いかないで。私からこの美しい世界を、大好きな彼女を奪わないで……!)


 私はノートの上に放り出した万年筆を無視し、震える右手で、ノイズにまみれて消えかかっている彼女の腕を掴もうと、虚空に向かって手を伸ばそうとした。

 しかし、私の肩から先の身体は、全く別の冷たい物質にすり替わってしまったかのように、微動だにしなかった。

 私は心の中で絶叫し、右腕に向かって『動いて。お願いだから、彼女に手を伸ばして』と強く念じた。しかし、私の想いは肩の付け根あたりで、まるで見えない断崖絶壁から突き落とされたように行き場を失い、身体のどこにも到達しなかった。私の腕は、一ミリの痙攣すら起こさず、ただ机の上に死んだ肉の塊として横たわっているだけだった。


 ツンとした強烈な消毒液の匂いが、防壁を失った私の心を直接侵食し、溶かしていく。

 ポツッ、という点滴の落ちる音が、鼓膜の真横で巨大なスピーカーを鳴らしたように暴力的に響き渡る。

 青白い蛍光灯の光が、網膜を焼き切るような絶対的な閃光となって視界を真っ白に染め上げ——。


 次の瞬間、私の心が耐えられる限界を超え、世界は主電源を落とされたように、完全な暗闇と無音の底へとブラックアウトした。

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