第11話『夜の窓辺に君の描いた色彩を』(2)
現実の病室と精神の最も深い深淵を隔てる境界線は、一時的な感傷で跨ぎ越せるような生易しい閾では断じてなかった。
肉体を拘束する物理的な現実は極めて強固で、冷酷な力を持って私をこのベッドの上へと繋ぎ止めようとしていた。血管の隅々まで行き渡り、神経の末端から脳のシナプスに至るまでを完全に支配している鎮静剤は、恐ろしい重みを持った鉛となって、意識を泥の底へと引きずり込もうと絶え間ない圧力をかけ続けている。少しでも気を抜けば、その化学薬品の引力に絡め取られ、再びあの何も感じない、狂うことすら許されない絶対的な虚無の凪の中へと真っ逆さまに叩き落とされてしまう。
しかし今の内側で燃え盛っているのは、虚無の麻酔に身を委ねようとする生存本能の完全な放棄だった。
私は、自らの精神が引きちぎれることをも辞さず、一度完全に焼き切れて機能停止したはずの脳髄の回路に命そのものを薪にくべるようにして、強制的な再起動の火を放った。
静まり返っていた深夜の病室の空気を、突如として無機質な電子音が切り裂き始めた。
無価値な命の継続を単調に計量するだけだった心電図のリズムが、異常な心拍数の跳ね上がりと脳波の劇的な乱高下を検知し、切迫した危険を知らせるけたたましい警告の連呼へと性質を変えたのだ。一定だった緑色の波形が、狂い悶える蛇のようにモニターの画面上で激しく上下に暴れ回っているのが、視界の端のぼやけた光の明滅からでも感じ取れた。
心臓が、肋骨の檻を内側から叩き割らんばかりの暴力的な質量を持って脈打っている。全身の血液が沸騰し、頭蓋骨という密閉された空間に向けて致死量を超える凄まじい熱量と圧力を一気に送り込んでくる。
痛い。脳髄が文字通り物理的な熱を帯びて焼け焦げていくような、発狂すら生ぬるい言語を絶する激痛が、頭部の内側から眼球の裏側に向けて猛烈に突き上げてきた。
かつて自らを慰めるために創り上げていた、あのはちみつ色の光に満たされた古い図書室。悲劇の主人公になりきって甘い自己憐憫に浸るために用意した、血と鉄錆の匂いが充満する絶望の森。
それらの幻影を脳内に構築することは、今にして思えばひどく容易く、何の精神的苦痛も伴わない安易な作業だった。なぜなら、それらはすべて「私が私自身を守るための都合の良い嘘」の集合体だったからだ。自分が親友を惨殺したという直視不可能な現実の重圧から逃れるために、罪悪感を希釈し、都合の悪い真実だけを巧妙に切り取って甘い絵の具で分厚く上塗りしただけの、腐臭を放つ防波堤。
嘘を重ね、現実を自らの都合の良いように理想化し歪曲することに魂の痛みは伴わない。そこにあるのは、真実の残酷さから目を背けることができるという甘美で怠惰な麻酔の快楽だけだった。私を肯定し、慈愛に満ちた微笑みを向けてくれる「優しい彼女」の偶像を創り出すことは、私が私を許すための最も手軽な精神的自慰行為に過ぎなかったのだ。
しかし。今この砕け散った脳髄の全機能と命を懸けて行おうとしている『真実の再構築』は、過去の逃避とは根本的に次元が異なっていた。
誤魔化しは一切許されない。自己弁護のための美化も、自分を被害者に見立てるための過剰な悲哀も、ただの一滴もこの意識のカンバスに混ぜ合わせることはできない。
あの日、あの時の、ありのままの現実の学校の冷え切った空気。
そして何よりも、私の身勝手な執着に心身を削られ、ひどく疲弊しきっていた彼女の真実の姿を、寸分の狂いもなく血肉を伴った完璧な鮮明さでこの脳裏に呼び覚まし、直視し続けなければならない。
それは、過去の記憶を思い返すというような生易しい行為ではない。
かさぶたで辛うじて覆われた最も深く醜い傷口を自らの爪で残酷に引き剥がし、剥き出しになって脈打つ神経の束に直接、粗い塩と焼けた砂を力任せに擦り込むような、魂に対する究極の自傷行為だった。
直視しなければならない彼女は、私に向けて優しい言葉を投げかけてくれる神聖な天使ではない。
紡ぐ暗く重苦しい言葉に息を詰まらせ、私の醜い嫉妬心と肥大化した自己愛に軽蔑の眼差しを向け。何よりも、私という凡庸で浅ましい存在そのものに深く傷つき、取り返しのつかないほどに摩耗し、静かに絶望していた、不器用で孤独な一人の少女の『本当の表情』だ。
私は、脳髄に鞭を打ち、強制的にその記憶の封印をこじ開けていった。
眼球の裏側で思い出してはならない真実の断片が鋭いガラスの破片となって、次々と精神の柔らかい粘膜を切り裂いていく。
美しく輝いていたはずの黒髪が、私の呪いのような言葉に生気を吸い取られ潤いを失ってパサついていたあの日の質感。
夜空の星のように澄み切っていた瞳の下に、どうやって私をこの泥沼から救い出せばいいのかと一人で悩み続けた孤独な夜の長さを証明する、濃く痛々しい疲労の隈が刻まれていたこと。
そして、私の存在が重荷となり、薄い唇が見えない鎖に耐えるように固く結ばれ、時には悲痛な微細な震えを帯びていたという、ずっと見落とし、意図的に無視し続けてきた残酷な真実のディテール。
自分がどれほど彼女を苦しめ、息をする自由を奪っていたのか。
その絶対的な罪の事実を、表情の歪みや私を拒絶した時のあの冷たくて静かな声のトーンの一つ一つとして、完璧に脳内で再現する。
それは自らの魂を解剖台の上に縛り付け、その最も醜悪で残酷な部分を、言い逃れの一切できない白日の下に晒し続けることと同義だった。
激痛が走る。頭蓋骨の中で、許容量を超えた情報と自己嫌悪の猛毒が大音響で爆発を繰り返す。
あまりの精神的苦痛に、声帯の麻痺した喉の奥から空気を引き絞るような生々しい摩擦音を絶え間なく漏らし続けた。息ができない。肺が酸素を拒絶し、心臓が破裂しそうなほどの圧力で内側を打ち据える。
しかし、その地獄のような激痛から決して逃げようとはしなかった。逃げることなど絶対にできなかった。
この魂が千切れるような痛みこそが、美しい命を泥の底に沈めてしまった私に唯一許された正当な罰なのだ。そして、彼女が最後に遺した白紙の上の『本当の結末の光』に触れるために支払わなければならない、最低限の通行料だった。
さらに深く、さらに強く、自らの命の炎を脳髄の炉へと放り込んだ。
極限まで酷使された思考回路が、ついに物理的な限界を超えて悲鳴を上げる。完全に乾燥しきっていた眼球の奥底で、視神経が焼き切れるような白熱した火花がバチバチと音を立てて無数に弾け飛ぶのが見えた。
そのすさまじい精神の軋轢と情念の爆発は、鎮静剤の鉛に支配され完全に沈黙していた肉体にすら、抗いようのない強烈な物理的影響を及ぼし始めていた。
意思とは全く無関係に、シーツに深く縫い付けられていた両腕と両脚の筋肉が、高圧の電流を直接流し込まれたかのように不自然で微細な痙攣を連続して引き起こす。
指先が痙攣し、硬く糊付けされた木綿のシーツをわずかに擦る。膝の関節が意思を持たないまま跳ね上がり、拘束帯の分厚い布地と金属の留め具が、肉体の異様なうねりを受けてギチリ、ギチリと不気味な軋み声を上げる。
心電図の警告音がさらにピッチを上げ、死の淵を彷徨う魂の限界をけたたましく世界に知らせ続けている。遠くの廊下から、異常を察知した夜勤の看護師たちの慌ただしい靴音が複数、こちらに向かって急接近してくるのが研ぎ澄まされた聴覚にはっきりと捉えられた。
だが、もはや遅かった。
いかなる物理的な制止も、いかなる化学薬品の追加も、この限界を超えて加速した精神の投身を食い止めることは不可能だった。
限界を突破した魂の異常な熱量が、私を閉じ込めていた病室の現実の風景を内側から完全に打ち破ったのだ。
網膜を容赦なく覆い尽くし、圧殺しようとしていたあの無数のシミがこびりついた灰色の天井。そこに鋭角に突き刺さっていた深夜の月光が、突如としてすさまじい熱量を持った光の刃へと変貌を遂げる。
月光の刃に切り裂かれたコンクリートの表面が、高熱に炙られた飴細工のようにどろどろと音を立てて融解し始めたのだ。
天井のシミが崩れ落ち、無機質な剥き出しのパイプが熱に溶けてひしゃげ、病室という現実の牢獄が眼球のすぐ目の前で形を失い、液状化して崩壊していく。
それに連動するように、鼻腔の奥深くまでこびりついて離れなかったむせ返るような消毒用アルコールと薬品の冷え切った匂いが、目に見えない巨大な暴風によって一掃される。
肺の底まで満たされていた冷たい空気がすべて抜き取られ、代わりに気道を激しく満たしながら雪崩れ込んできたもの。
それは、幾千もの生徒たちの長年の歩みによって磨り減り、表面のニスが剥げ落ちた古い木材の床の匂い。
換気の悪い淀んだ空間に絶え間なく舞い続け、呼吸をするたびに肺の奥を微かにざらつかせる、ひどく乾いたチョークの粉の匂い。
そして全ての生徒が帰路につき、誰もいなくなった放課後の校舎特有の、薄暗くてどこか息苦しく、外界から完全に切り離されたような圧倒的な静寂の気配だった。
病室の壁が完全に崩落し、月光に照らされた灰色の天井が、深い影を落とす古い校舎の板張りへと姿を完全にすり替える。
心電図のけたたましい電子音も、廊下を走る看護師たちの硬い靴音も、すべては遠い異世界のノイズとなって鼓膜から急速に遠ざかり、完全に遮断された。
意識は、動かない肉体の牢獄と現実の病室を完全に置き去りにしたまま、かつて共に時間を過ごし、そして決定的にすれ違ってしまったあの真実の場所。
嘘も理想化も都合のいい幻影も一切介在しない、ただ残酷なまでの真実だけが剥き出しにされた『旧校舎の空間』の最も暗い深淵へと、音もなく完全に沈み込んでいったのだった。




