第11話『夜の窓辺に君の描いた色彩を』(1)
深夜の病室を支配する分厚い暗黒は、窓の向こうから容赦なく差し込んでくる冷たく青白い光の刃によって音もなく切り裂かれていた。
消灯時間をとうに過ぎ、看護師たちの硬い靴音すらも完全に途絶えた世界。
絶対的な静寂と孤独の空間において、動かない肉体はただシーツの海に沈み、重力と鎮静剤の檻に繋がれたまま、無意味な呼吸だけを単調に繰り返す死肉の塊として存在していた。
しかし。乾ききった眼球の端、ぼやけた周辺視野の領域だけは、この部屋のどこよりも鮮烈な光と影のコントラストによって、狂おしいほどの質量を伴って重たく張り詰めていた。
視界の右端にある冷たい金属のサイドテーブル。
そこに無造作に放り投げられ、血に汚れた栞の厚みによって中途半端に半開きにされた手漉き紙のスケッチブック。
昼間の人工的な蛍光灯の光の下では微細な凹凸として網膜に異物感を焼き付ける程度だったその『沈黙の痕跡』は、窓から真っ直ぐに差し込んでくる研ぎ澄まされた月光を斜めから浴びることで、恐ろしいほどの解像度を持って真の姿を浮かび上がらせていた。
インクの一滴すら乗っていない純白の余白。
そこに、親友が自らの命を削り出すような恐ろしい筆圧で刻み込んだ無数の深い傷跡。
鋭角に差し込む月光は、紙の繊維が断裂する寸前まで押し潰された深い溝の中に、漆黒の濃い影を落とし込んでいた。それはまるで、光と影だけが存在する無色の宇宙に、彼女の魂の輪郭そのものが立体的な浮き彫りとなって出現したかのような、圧倒的で痛々しいほどに美しい光景だった。
私は、首から下のすべての神経を絶たれ、拘束帯でベッドに縫い付けられたまま、ただ瞬きすら忘れた瞳孔で、月光に照らし出された無色の情念の渦をじっと見つめ続けていた。
死に絶えていたはずだった。
自分が親友を惨殺したという取り返しのつかない罪の重さと、抱えていた醜悪な自己愛の泥沼を直視させられたことで、魂は完全にすり潰され、一片の塵となって底なしの虚無へと消え去っていたはずだった。
悲しみも怒りも罪悪感すらも湧き上がらない。ただ呼吸をするだけの空っぽの肉袋として、時間の腐敗とともに風化していくことだけが許された永遠の罰であると受け入れていたのだ。
しかし、どうだ。
この白紙のページに刻まれた、凄絶なまでの『最後の意志』を前にして。
内側の最も深い、完全に干上がりきっていたはずの虚無の底から、ぽつり、と。一滴の熱い血の雫が滴り落ちるような、確かな生命の鼓動が響き始めたのだ。
ドク、ン。
錯乱状態に陥った時のように肋骨を叩き割る暴力的な動悸ではない。
もっと静かで、もっと深く、そしてこの世界のいかなる物理法則をもってしても決して止めることのできない、恐ろしいほどの執念を帯びた、魂そのものの脈動。
彼女は、私の醜い言葉に塗り潰され、息の仕方を忘れかけながらも、最後の最後までこの物語の結末を、私たちの約束を諦めてはいなかったのだ。
私が彼女の世界を汚すことができないように、憎悪が彼女の光を泥の中に引きずり込むことがないように。インクを使わず、誰の目にも触れない『無色の筆圧』という極めて孤独で悲痛な手段を用いてまで、彼女はこのページに本当の結末の光を宿そうとしていた。
その事実が、ただの死体になりすまそうとしていた空っぽの脳髄に、焼けた鉄串を突き刺すような強烈な痛みを伴って、再び魂の火を点火したのだ。
このまま虚無の海に沈んで許される存在ではない。
私が殺したのは、ただの才能ある少女ではない。この醜く卑小な寄生虫の魂を、その圧倒的な慈悲と祈りで最期の瞬間まで包み込もうとしてくれた、唯一無二の光なのだ。
その彼女が、命の炎を燃やし尽くして密かに遺そうとしたこの白紙の上の物語を。
誰にも読まれることなく、誰の瞳にも色彩を結ぶことなく、ただの『病室のゴミ』としていずれ焼却炉の灰へと還されてしまうのを、ただ黙って見過ごすことなど絶対にできるはずがなかった。
私には、義務がある。
美しい命を惨殺し才能を永遠の暗黒に沈めてしまった殺人鬼である私には。彼女が残した無色の絶叫を、自身の魂を代償にしてでも読み解き、彼女が本当に描きたかった『色彩』をこの空っぽの脳髄の中に見届けるという、凄絶で絶対的な贖罪の義務があるのだ。
私は拘束帯の下で身動き一つ取れない肉体の内側で、静かに、しかしすさまじい熱量を持って精神の深淵へと意識を沈み込ませていった。
かつて創り上げていた、あのはちみつ色の図書室の幻影とは違う。
あれは、自分が人殺しであるという直視不可能な現実から目を背け、罪悪感を薄めるために都合よく捏造した安っぽい防波堤に過ぎなかった。
しかし、今から向かおうとしているのはそんな甘ったるい逃避の箱庭ではない。
誤魔化しを一切排し、彼女に対する醜い嫉妬も凄惨な決裂の事実もすべてをありのままに背負い込んだ上で。あの日の、あの時間の、彼女の魂の震えそのものを狂気という名の坩堝の中で完全に再構築するための、自死にも等しい精神の投身なのだ。
血管の隅々まで行き渡った強力な鎮静剤が、冷たい鉛となって意識をベッドの底へ、現実の重力の下へと強引に繋ぎ止めようと容赦ない圧力をかけてくる。
薬効が脳のシナプスの活動を強制的にシャットダウンさせ、狂気の領域へと踏み入ろうとする思考回路に、分厚いコンクリートの壁を築いて立ちはだかる。
しかし、今の私にはその化学薬品の枷すらも焼き切るほどのすさまじい情念の炎が渦巻いていた。
痛い。脳髄が、文字通り熱を帯びて焼け焦げるような感覚が頭蓋骨を満たしていく。
一度完全に粉砕され焼き切れたはずの精神の回路に、自らの命そのものを薪にくべるようにして、私は無理やりに特大の火を放ったのだ。
限界まで見開かれた乾ききった眼球から、再び熱を持った涙の雫が溢れ出し、こめかみを伝って冷たいシーツへと吸い込まれていく。
悲しみの涙ではない。
それは、魂の形を保つためのすべてのリミッターを外し、自我を完全に解体してでも真実にたどり着こうとする、凄絶な集中と激痛によって絞り出された命の血の涙だった。
月光に照らされた病室の灰色の天井が、視界の中でぐにゃりと歪み始める。
心電図の無機質な電子音が、遠く深い海の底から聞こえてくる鈍い響きへと変質していく。
私は、動かない肉体の牢獄から魂の核だけを強引に引き剥がし、サイドテーブルの上のスケッチブックに刻まれた『沈黙の痕跡』という名の座標へ向かって、全存在を懸けた最後の大規模な精神の飛翔を開始した。
もう、嘘の微笑みは必要ない。
私という泥沼の中で、それでも必死に光を描こうとしていた、等身大の、不器用で、傷だらけの彼女の魂の震えを、この眼で直接見届けるために。
私は、月光の刃に自らの意識を貫かせながら、冷たい現実の境界線を越えて、果てしない狂気と贖罪の深淵へと真っ逆さまに身を投じていった。




