第10話『白紙の宣告』(5)
首から下のすべての神経を絶たれ、分厚い拘束帯によってベッドの冷たい鉄枠に完全に縫い付けられた肉体は、自らの意思で視線の角度をたった一度変えることすら許されない、永遠の固定具の中にあった。
仰向けに投げ出された顔面は、天井の灰色のシミを真っ直ぐに見つめるように固定されている。しかし、人間の眼球というものは、どれほど肉体が死に絶えようとも、その球体の構造上、周辺の景色を極めて広角に無意識のうちに捉え続けてしまうという残酷な機能を持っている。
焦点の合わない、瞬きすら忘れて完全に乾ききった硝子玉のような瞳の右端。そのひどくぼやけた周辺視野の領域に、看護師が放り投げた『スケッチブック』が、冷たい金属のサイドテーブルの上で不気味なほどの存在感を放ちながら鎮座していた。
それは、はちみつ色の光が差し込む放課後の図書室で、彼女と机を寄せ合い『世界で一番美しい絵本を創ろう』と約束して広げていた、分厚い手漉き紙の束。
無造作に挟み込まれたあの茶褐色に変色した血まみれの栞が、不自然なつっかえ棒の役割を果たしたことで、重たい表紙は完全に閉じ切ることなく中途半端な角度で半開きになったまま静止している。
その隙間から覗いているのは、言うまでもなく、一切の色が塗られていない、そして一つの言葉も書き込まれていない純白の『白紙のページ』だった。
死に絶えた魂は、その白紙のページを視界の端に捉えながらも、最初のうちは何の感情の波紋も起こすことはなかった。
何も描かれていないのは当然のことだ。
物語を完成させる前に凄惨な決裂を迎え、私は殺意を抱き、彼女は大質量の車輪の下で挽肉になったのだから。
このスケッチブックは永遠に完成することのない未完の証明であり、未来を断ち切られた無惨な死体そのものだ。残されているのは、私の空っぽの魂と同じ、意味を持たないただの広大な余白だけ。私は、絶対的な虚無の象徴として、その白紙のページをただの物理現象として傍観していた。
しかし。
天井に設置された冷たくて無機質な白い蛍光灯の光が。
ベッドの斜め上から、半開きになったページに向かって極めて鋭角に、メスのように鋭く差し込んだその時のことだった。
――違和感。
完全に凪ぎ切っていた脳髄の表面を、ぞわりと一匹の冷たい虫が這いずり回ったような、微小だが決して無視することのできない視覚的な異物が網膜の裏側にべったりと張り付いた。
眼球は、固定された頭蓋骨のソケットの中で限界まで右側の視界の端へと焦点を絞り込んでいった。
斜めから差し込む蛍光灯の冷たい光が、手漉き紙の表面を舐めるように照らし出している。
手漉き紙というものは、工場で大量生産されたパルプ紙とは異なり、表面に微細な繊維の絡み合いやなだらかな起伏を持っている。光を当てれば微細な凹凸が柔らかな影を生み出すのが普通だ。
しかし、目が捉えたその違和感は、紙の素材が持つ自然な起伏などでは断じてなかった。
もっと鋭く。もっと深く。そして明らかに何者かの明確な意図と暴力を伴って物理的に刻み込まれた、不自然極まりない影の連続。
インクの色はない。
黒鉛の粉も水彩の顔料も一切乗っていない。
しかし、斜めから差し込む光の角度が純白の余白の上に、まるで暗号を浮かび上がるように無数の微細な『陰影』をくっきりと描き出し始めたのだ。
「……あ、……」
声を持たない喉の奥で、空気が痙攣したように引き攣った。
乾ききった眼球が、光と影の輪郭を顕微鏡のような精度で解像していく。
それは、紙の表面が鋭利な何かによって執拗に押し潰され深く削り取られたことによって生じた『へこみ』だった。
繊維が断裂するギリギリの深さまで異常な力が加えられたことによって残された、透明な傷跡。
――『筆圧』だ。
間違いない。インクの出ない空の万年筆か、色を乗せるための芯を持たない鋭い鉄筆のようなもので、紙の表面を直接抉るようにして描かれた強い筆圧の跡だった。
しかもそれはただの無意味な落書きや試し書きの類などでは到底あり得なかった。
一本一本の線の軌跡から、そこから立ち上ってくる言語を絶するほどの強烈な執念と狂気的な熱量が、網膜を直接焼き焦がすように伝わってきたからだ。
ある線は、親の仇を憎み骨の髄まで呪い殺そうとするような凄まじい暴力性と憎悪を孕んで深く抉られているかと思えば。
次の瞬間には、自らの魂を紙やすりで削り出し命の最後の一滴までを絞り尽くして祈りを捧げるような、悲痛で、絶望的で、しかしどこまでも美しい弧を描いて交差している。
ページ全体を埋め尽くすように無数の線が渦を巻き絡み合い、一つの巨大で複雑な情景を、ただの凹凸の陰影という完全なる無色の世界だけで、圧倒的な質量をもって描き出していたのだ。
なぜ。
どうして、こんなものがここにあるのか。
脳髄が、機能停止していた思考の歯車を凄まじい摩擦音と火花を散らしながら強制的に再起動させ始める。
筆圧の跡を残したのは私ではない。ブルーブラックの万年筆はいつも紙の表面を滑るだけで、これほどまでに紙を破壊するような暴力的な使い方など一度もしたことがなかった。
ならば、この透明な傷跡を刻み込んだのは、この宇宙にただ一人しか存在しない。
――彼女だ。
交差点で大質量の車輪にすり潰され、原型を留めない挽肉の塊となって死んでいった美しい親友。
しかし、いつ?
彼女はいつ、こんな異常な熱量で色を持たない絵をこのページに刻み込んでいたのか。
一緒に図書室で作業をしていた時、彼女はいつも色鮮やかな絵の具を使い、美しい星空や柔らかな光に満ちた世界を描き出していたはずだ。私がその隣で、暗黒のインクを使って彼女の描いた光を塗り潰すような絶望的な言葉を書き連ねていくのを、ただ静かに見つめていた。
そうか。
記憶が蘇った瞬間、すべての残酷な真実が雷に打たれたような閃きとともに一本の線に繋がった。
彼女は、色を塗らなかったのではない。
『色を塗ることができなかった』のだ。
彼女がどれほど美しい色彩を描き出そうとも、私が次のページでその光を真っ黒なインクで塗り潰し、主人公の腕をもぎ取るような救いのない言葉を書き殴って、彼女の世界をことごとく破壊してしまっていたからだ。
私の醜い嫉妬と執着という名の呪いが、彼女の筆から色彩を奪い取っていた。
『あなたの言葉には光がない』。雨の渡り廊下で口にした拒絶は、比喩などではなかった。彼女は本当に、私の言葉によって息の仕方を忘れ光を表現する手段を失いかけていたのだ。
だから、彼女は。
私のインクが真実の意志を塗り潰してしまわないように。
あの凄惨な喧嘩をして決裂する直前、あるいはその何日か前のわずかな孤独の時間に。
何も書かないペン先を握りしめ、インクという物質的な痕跡を一切残さないという、極めて悲痛で孤独な方法で。
この白紙のページに、彼女が本当に描きたかった『物語の本当の結末』を、自らの命を削り出すような恐ろしい筆圧で密かに刻み込んでいたのだ。
色を乗せなければ私には見えない。気づかなければその上から汚されることもない。
私という理不尽な破壊者から最後の光を守り抜くために、自らの絵を『沈黙の痕跡』として紙の凹凸の中に隠蔽したのだ。
それは呪いに対する最初で最後の孤独な抵抗だった。泥沼に引きずり込まれながらも、それでも彼女は、私たちの物語に決して誰にも汚されることのない真実の光を残そうとしてくれていたのだ。
冷たい光に照らされた無数の筆圧の跡が、まるで彼女の声なき絶叫のように眼球を直接抉り抜いてくる。
正確な輪郭を捉えることはできない。しかし、紙の繊維が悲鳴を上げるほど深く刻まれた陰影の渦からは、彼女がどれほどの苦しみと絶望と、私に対する『無償の愛と祈り』を込めてペン先を走らせていたのかが、圧倒的な暴力となって魂に直接流れ込んできた。
言葉を持たない絶対的な真実。私に見せることのなかった彼女自身の魂の血みどろの記録。
「……あ、あ、あああ……ッ!!」
その瞬間。
内側で絶対に起こり得ないはずの現象が起きた。
すべてを喪失し、悲しみも罪悪感もすり潰され二度と浮上することのない虚無の凪へと完全に沈み込んでいた魂が。
深海一万メートルの底から見えない巨大な鉄の鉤爪で脳天を突き刺され、光の射す海面へと凄まじい速度で強引に引きずり上げられたかのような、言語を絶する強制的な浮上をさせられたのだ。
ドクン、ドクン、ドクンッ!!
死に絶えていたはずの心臓が、肋骨を内側からハンマーで叩き割るような暴力的な質量を持って狂ったように脈打ち始めた。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!!
虚無という麻酔に逃げ込んで無かったことにしようとしていた『彼女の底知れぬ愛と、それを惨殺した罪の巨大さ』という絶対的な真実が。
この白紙に刻まれた沈黙の痕跡という言い逃れの一切できない強烈な物理的証拠となって、魂の中心に真っ向から叩きつけられたことによる、精神の完全なる圧死の激痛。
人間であることをやめることすら許されていなかったのだ。
虚無に逃げ込みただの死体になりすまそうとしても。彼女がこの白紙のページに遺した命を削るような無色のメッセージが、それを絶対に許しはしない『「お前が破壊したものはこれほどまでに美しく重たいものだったのだ』と、彼女の幽霊が胸倉を掴み、その陰影のすべてを直視させようと顔面を無理やりにそのページへと叩きつけてくる。
「ひゅ、ひゅっ、あ、がああぁぁぁぁぁぁッ!!」
麻痺した喉の奥から、大量の唾液と血液の混じったような生臭い空気が声帯の摩擦を伴わずに激しく吹き出した。
限界まで見開かれた乾ききった眼球から、もはや流れることはないと思っていた熱い涙が、破裂した水道管のように凄まじい勢いで噴き出し、こめかみを伝って冷たいシーツを濡らしていく。
虚無の底はただの安寧の錯覚だった。
私は今、その安寧の底から最も残酷な形で引きずり出され、以前の何万倍もの圧倒的な絶望と罪悪感の業火のど真ん中へと生身のまま放り込まれたのだ。
拘束帯の下で、肉体が再び限界を超えた異常な痙攣を引き起こす。
骨が軋み関節が外れんばかりに暴れ狂う。しかし、冷たい鉛の鎮静剤と分厚い布の鎖は、狂い死ぬことを絶対に許さない。
視界の右端で蛍光灯の光を受けた白紙のページが、彼女の残した無数の陰影を浮かび上がらせたまま冷酷に見つめ返している。
その白紙は未完の証明ではない。私がどれほど深く醜い罪を犯したのかを永遠に突きつけ続ける、絶対的で逃れようのない『白紙の宣告』だった。
目を逸らすこともできず。
ただ彼女の残した声なき絶叫の痕を眼球で直接舐め続けながら、終わりのない精神の極刑台の上で永遠に血の涙を流して痙攣し続けることしかできなかった。
病室の冷たい蛍光灯の光だけが、完全に狂い果て、しかし決して意識を失うことのできない顔面と残酷な遺物の陰影を、ただ無機質に等しく照らし出し続けていた。




