第10話『白紙の宣告』(4)
私が底なしの凪の中で、ただ呼吸を繰り返すだけの肉の塊として永遠にも似た停滞を貪っていた時。
病室の冷たい静寂は、再び外部からのひどく無機質で物理的な干渉によって破られることとなった。
扉が重たい音を立てて開かれ、白衣とサージカルマスクで人間性を覆い隠した看護師が音もなく滑り込んでくる。目的は肉体のメンテナンスではなかった。彼女の冷徹な視線は、拘束帯でベッドに縫い付けられた私の死肉のような身体を素通りし、ベッドの脇、リノリウムの床の一部へと真っ直ぐに向けられていた。
そこには、私が痙攣を起こしベッドから転げ落ちたあの時の『落下の爪痕』が放置されていた。
衝撃でサイドテーブルから転げ落ち、中身を床に吐き出したままになっている小さな遺品の箱。そこから無惨に散らばり、埃とアルコールの匂いがこびりついた冷たい床の上に投げ出されている、交差点での凄惨な事故の残骸たち。
看護師からすれば、それは単なる『病室の衛生環境を損なう、片付けるべき散乱物』でしかない。彼女は私のベッドの脇へと歩み寄ると、面倒なゴミ拾いでもこなすような、一切の感情を排した機械的な動作で床へとしゃがみ込んだ。
視界は仰向けに固定されているため、彼女の足元で何が行われているのかを完全に捉えることはできない。
しかし、限界まで見開かれ乾燥しきった眼球の端、そのひどくぼやけた周辺視野の領域に、彼女の真っ白で無機質な手が、床の上の『ある物体』へと伸びていくのが映り込んでいた。
白い指先が、一切の躊躇いもなくつまみ上げたもの。
それは、あのはちみつ色の光が差し込む図書室で、共に笑い合いながら完成させたあの『栞』だった。
大質量の車輪の下で挽肉の塊と成り果てた彼女が、最期の瞬間まで自らの血肉に代えても握りしめ続けていた、唯一の約束の証。そして、私の醜い嫉妬心が彼女という光を惨殺したことを証明する、この宇宙で最も重たく、おぞましい絶対的な遺物。
雨の交差点で泥水を大量に吸い込んでふやけ、波打つように醜く歪んだその厚手の紙片の表面には、完全に酸化してどす黒く変色した『茶褐色の生血の染み』が、腐敗の紋様のようにべったりとこびりついている。
しかし。
看護師の目には、その茶褐色のおぞましい染みが、一人の天才少女の命の残骸であることなど知る由もなかった。
たとえそれが血の痕跡であると気づいていたとしても、『不衛生な汚れた紙切れ』という以上の意味を持たなかったのだろう。彼女は、その栞がどれほどの絶望と無償の愛と殺意を吸い込んでいるかなど微塵も想像することなく。まるで靴の裏にこびりついた枯れ葉でも拾い上げるかのような、ひどく無感動で雑な手つきで、その血まみれの栞を二本の指で摘み上げた。
その光景は、言語を絶するほどの『冒涜』だった。
私という人間の魂を完膚なきまでに木端微塵に粉砕した、あの絶対的な因果の結晶が。一人の看護師の『病室を綺麗にする』という日常業務の過程において、路傍の石ころ以下の価値しか持たないゴミとして扱われている。
私がどれほど狂い悶えようとも、この冷酷な世界においては、彼女の死も私の罪も、ただの『片付けられるべき物理的な汚れ』でしかない。その圧倒的な無関心の世界の理が、眼球の端で淡々と実行されていく。
かつての私であれば。
神聖な栞がゴミのように扱われる光景を目撃すれば、発狂して喉を掻き毟り、その手を離せと声にならない絶叫を上げて暴れ狂っていたことだろう。自らの罪の象徴を冒涜されることに対する激しい怒りと耐え難い自己嫌悪で、魂が千切れるほどの痛みを味わっていたはずだ。
しかし、今の内側からは、一滴の怒りも一筋の涙も溢れ出すことはなかった。
魂は、すでに完全に死に絶えている。
栞がゴミのように扱われようと、彼女の命の残骸が冒涜されようと、ただ『無機質な手が、汚れた紙をつまみ上げている』という物理的な事実の羅列としてしか網膜は処理しない。
悲しみも罪悪感もすべては底なしの凪の中に沈み込んでいる。私はただ、焦点の合わないガラス玉のような瞳で、自らの罪が路傍のゴミとして処理されていく過程を、一切の感情を交えずに傍観し続けるだけの空っぽの器だった。
看護師は、血に汚れた栞を片手に持ったまま、同じく床に散らばっていたもう一つの物体へと手を伸ばした。
分厚い表紙を持った、手漉き紙の『スケッチブック』だった。
あの放課後、『世界で一番美しい絵本を創ろう』と約束し広げていたものだ。私の暗い言葉と彼女の美しい色彩が交わるはずだった真っ白な器。しかし、凄惨な決裂によって一つの物語も完成することはなく、ただの無意味な紙の束として残されてしまった未完の亡骸。
バサリ、と。
看護師がスケッチブックを持ち上げると、床の埃を払うために無造作にその表紙が叩かれた。
乾いた音が病室の空気を震わせる。
彼女は拾い上げた二つの物品をどう処理するか、ほんの一瞬だけ手を止めて考えたようだった。散らばった遺品の箱に再び丁寧にしまい直すには、箱そのものが床に落ちて歪んでしまっており手間がかかる。
脳内で下された結論は、極めて合理的で残酷なものだった。
彼女は、片手に持っていた血まみれの栞を、もう片方の手で持っていたスケッチブックのページの中に、まるで不要なレシートでも挟み込むかのように、適当な位置で乱暴に押し込んだのだ。
ザリッ。
乾燥して波打った紙片が、純粋な手漉き紙の隙間へと強引にねじ込まれ、不快な摩擦音を立てる。
呪いの象徴であり命の残骸であるその栞は、共に描くはずだった未来の束の中に、一切の敬意も感傷も伴わずに、ただの物理的な『しおり』としての機能だけを強制されて無慈悲に閉じ込められた。
汚れが移るとか、血が滲むとか、そんなことは意識の片隅にも存在しない。ただ散らばった二つのゴミを一つにまとめておけばテーブルの上が片付く。ただそれだけの、ひどく冷え切った計算による行動だった。
そして。
看護師は立ち上がると、栞を挟み込んで少しだけ不自然に分厚くなったそのスケッチブックを、視界のすぐ右端、ベッドに備え付けられた金属製のサイドテーブルの上へと、片手で放り投げるようにして戻した。
ガタンッ!
重たいスケッチブックが金属の天板に激突し、鋭く冷徹な音を病室に響かせた。
丁寧に置かれたわけではない。業務の一環として『そこにあったものを、元の場所らしき空間に放り投げた』だけの乱暴な着地。
その衝撃で、適当に挟み込まれていた栞の厚みと歪みがつっかえ棒の役割を果たし、スケッチブックの分厚い表紙は完全に閉じることなく、中途半端に半開きになった状態のままテーブルの上で静止した。
パラリ、と。
綴じられた手漉き紙の数ページが、空調の微かな風と落下の反動を受けて、力なくめくれる音がした。
看護師は、テーブルの上が一応の体裁を取り戻したことを確認すると、それ以上その遺品たちに目を向けることはなかった。
彼女にとっては、これで『不衛生な散乱物の処理』というタスクが一つ完了したに過ぎない。再びゴム底の靴音を響かせながら拘束帯の様子を一瞥し、入ってきた時と同じように一切の感情を排した無言のまま、病室の分厚い扉を開けて出ていった。
ガチャンという重たいノブの音が響き、病室は再び絶対的な静寂と、心電図の機械音だけが支配する冷酷な牢獄へと逆戻りした。
仰向けのまま、天井のシミを見つめていた。
いや、正確には、見つめていた『つもり』だった。
サイドテーブルにスケッチブックを放り投げたあの鋭い音の余韻が、乾ききった眼球を、ほんのわずかに無意識の反射として右側へと引き寄せていたのだ。
拘束されて首を動かすことはできない。しかし視界の右端、そのぼやけた領域のすぐ数十センチ先には、乱暴に放り投げられたスケッチブックが天板の上に鎮座している。栞の歪みによって中途半端に半開きにされたままの、分厚い手漉き紙の塊。
魂は死に絶え、感情はすべて虚無へと沈み込んでいた。だからこそ、そのスケッチブックの存在に対して目を背けるという防衛本能すらも働かせることなく、ただ無機質なレンズとして、それを視界の端に捉え続けていた。
病室の天井から降り注ぐ、冷たくて白い蛍光灯の光。
それが、半開きになったスケッチブックのページに向かって、斜め上から容赦なく差し込んでいる。
本来であれば、そこには何の色も、何の言葉も存在しないはずだった。
絵本を完成させる前に決裂し、彼女は死に、私は殺人鬼となった。だからそのページは、未来永劫、何も描かれることのない純白の『白紙』のままであると思い込んでいた。
何も描かれていない、ただの未完の証明。
しかし。
感情を失い、焦点の合わない死んだ眼球が、その斜めから光を浴びた『白紙のページ』の表面を、ただの物理現象として無意識になぞった、まさにその瞬間のことだった。
網膜に、ある『異物』の存在が、黒いノイズとなって張り付いたのだ。
一滴の涙も流すことなく、完全に動きを止めていた心臓が。
ドクン、と。
本来であれば絶対にあり得ない、肋骨を内側から叩き割るような凄まじい質量を持った、おぞましい鼓動を一つ鳴らした。




