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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第10話『白紙の宣告』(3)

 私が沈み込んでいる底なしの凪の静寂は、外部からの無慈悲な物理的干渉によって規則的に破られる。

 分厚い病室の扉の向こう側から、キュッ、キュッという、乾いたリノリウムの床を擦る白いゴム底の靴音が近づいてくる。その足音には、患者の容態を気遣うような温かみや切迫感は微塵も含まれていない。工場でライン作業に従事する機械の一部のように、定められた時刻に、定められた手順をこなすためだけに駆動する、ひどく事務的で冷徹な足音だった。


 ガチャン、と重たい金属のノブが回され、扉が開く。

 病室の空気に滑り込んできたのは、糊の効いた白衣を纏い、顔の半分をサージカルマスクで覆い隠した無表情な看護師だった。

 彼女は、拘束帯に縛り付けられ、天井のシミを見つめたままピクリとも動かない私を一瞥する。そのガラス玉のような瞳には、一人の人間の少女に対する同情や哀れみなど、最初から存在していない。

 彼女の目から見れば、私はもはや月城詩織という名前を持った人間ではない。自発呼吸と心拍だけは維持しているものの、自らの意思では何一つ生み出すことのできない、ただ定期的なメンテナンスを必要とする『管理されるべき有機物の塊』。それが、この部屋における私の絶対的な存在定義だった。


 看護師はベッドの脇へと滑るように近づくと、慣れた手つきで私を縛り付けている拘束帯の金具に手を掛けた。

 ギチリ、という不快な金属音とともに、胴体と両腕を押さえつけていた分厚い布の圧迫感が、一時的に取り払われる。

 しかし、拘束が解かれたからといって、自らの意思で腕を持ち上げたり首を振ったりすることは物理的に不可能だ。肉体は、重力という絶対的な理に完全に屈服したただの重たい死肉の塊として、シーツの上にだらりと投げ出されたままだ。

 看護師は、何の言葉も掛けない。『体の向きを変えますよ』という形式的な声かけすらも省略されている。私が何の反応も示さない完全な虚無へと陥っていることを、彼女は日々の業務の中でとっくに理解しきっているからだ。


 無機質な両手が、肩と腰の骨を、重たい丸太でも転がすかのような無造作な手つきで掴んだ。

 そして力任せに、肉体を横向きへと引き倒す。

 ゴロン、と。人間の身体が発するべきではない、鈍くて重たい肉と骨の摩擦音がシーツの上に響く。

 それは、首から下の自由を奪われた患者の皮膚が、自らの大質量によって長時間圧迫され、血流が阻害されて腐死していく褥瘡を防ぐための、極めて機械的で義務的な体位変換の作業だった。

 意思とは無関係に関節が不自然な角度に曲がり、張り付いていた皮膚がシーツから乱暴に引き剥がされる。痛覚を持たない身体は、その乱暴な扱いに悲鳴を上げることも、苦痛に顔を歪めることもない。横倒しにされた眼球は、ただ視界の端を通り過ぎていく白いエプロンのシワを、焦点の合わないぼんやりとした網膜の機能だけで、意味もなく映し出し続けていた。


 肉体を転がされた後、さらに待っているのは、人間としての尊厳を最も根底から破壊する絶対的な屈辱の儀式だ。

 看護師の手が、下半身を覆っている薄い布を無造作にめくり上げる。

 そして、自らの意思でコントロールすることすらできず、ただ生理現象として垂れ流されただけの排泄物の処理を、無感動な手つきで淡々と開始するのだ。

 冷たい清拭用の布が皮膚を擦り、強烈なアンモニアの臭いと、それを打ち消すための消毒用アルコールの悪臭が、鼻腔の奥深くまで暴力的に侵入してくる。

 本来であれば、十七歳という自意識とプライドが最も鋭利に研ぎ澄まされている年齢の少女にとって、見ず知らずの他人に自らの汚物を処理され、下半身を無防備に晒し物にされるというこの行為は、舌を噛み切って死にたくなるほどの凄まじい羞恥心と屈辱を伴うはずのものだ。

 かつての私であれば、その光景に耐えきれず、顔を真っ赤にして涙を流し、声にならない絶叫を上げてのたうち回っていたことだろう。他人の才能に嫉妬し、自らの優位性を誇示しようとしていたあの肥大化した自尊心が、この絶対的な惨めさを許容できるはずがなかった。


 しかし。

 内側からは、一滴の羞恥心も、一片の屈辱すらも沸き起こってはこなかった。

 羞恥心という感情は、『自分という存在が人間である』という自我の認識と、他者からの評価を気にするプライドが残っていて初めて成立する、高度で人間らしい機能だ。

 その自我という名の器そのものが、あの茶褐色に変色した約束の栞を目にした瞬間、底なしの虚無の圧力によって完全にすり潰され、塵となって消滅してしまったのだから。

 今の私は、自分が他人に汚物を拭き取られているという事実を、ただの『物理的な摩擦の連続』としてしか観測できない。

 そこに恥ずかしいという概念はない。情けないという涙もない。

 自分が人間としての尊厳を完全に剥奪され、ただの管の通った肉袋へと成り下がった事実を、一切の抵抗もなく、ただ底なしの凪の中で静かに受け入れているだけだった。

 私は人間ではない。だから、恥を感じる必要もないのだ。

 この絶対的な虚無感こそが、私をあらゆる精神的苦痛から隔離する、最も強固で、そして最も残酷な麻酔として機能していた。


 排泄物の処理が終わると、次は命を強制的に長らえさせるための、暴力的なまでの栄養の注入が始まる。

 看護師は、鼻腔から胃の腑へと直接突き刺さっている不快な医療用のプラスチックチューブに、大きなシリンジを接続した。

 その中には、人間の食事の喜びをすべて削ぎ落とし、ただ細胞を生存させるためだけの化学物質をドロドロに溶かし込んだ、黄色く濁った不気味な流動体が満たされている。

 押し子が無慈悲に押し込まれると、その冷たくて重たい人工的な液体が、鼻の奥から食道を通り、麻痺した胃袋の中へと直接、ボトボトと音を立てて雪崩れ込んでくる。

 味わうことも、咀嚼することも、飲み込むことすら許されない。ただ生命維持という絶対的な目的に従い、内臓が強制的に満たされていく物理的な圧迫感だけが、動かない肉体の内側に気味悪く広がっていく。


 やめて。

 これ以上私の中に何も入れないで。

 心臓を止め、細胞を飢えさせ、この無価値な肉の塊を、一刻も早くただの冷たい腐肉へと還して。

 かつての私であれば、心の中で叫び、栄養の注入に必死に抗おうとしたかもしれない。親友を惨殺したという罪悪感に苛まれ、死んで償うことだけを望んでいた時期ならば。

 しかし、今の私は、そんな生存の拒絶すらも思い浮かべることはない。

 流し込まれるなら、流し込まれればいい。

 胃袋が膨れ上がり、消化器官が機械的にそのドロドロの液体を分解し、血液の中に糖分とタンパク質を運んでいく。その結果として、この醜い心臓がさらに何万回、何十万回と無意味な拍動を続けようとも、私にとってはもはやどうでもいいことだった。

 死ぬことも生きることも、完全な虚無の前ではもはや等しく価値のない事象でしかなかったからだ。

 魂はとうの昔に完全に死に絶えているというのに、この忌まわしい肉体だけが、医学という名の冷徹な技術によって、ただ盲目的に細胞の分裂と新陳代謝を強制され続けている。

 生命としての尊厳の喪失。それは、死ぬことよりも遥かに残酷で、生きたままの解剖台の上に放置されるような凄惨な光景だった。


 すべての機械的なメンテナンスが終了すると、看護師は再び肉体を仰向けに転がし、分厚い拘束帯を元の位置へと戻した。

 ギチリ、ギチリと、金具が限界まで締め上げられ、身体は再び、ベッドの上の永遠の牢獄へと完全に縫い付けられる。

 彼女は綺麗に整えられたシーツのしわを無感動に伸ばすと、一瞥もくれることなく、入ってきた時と同じように一切の足音を立てずに病室から出ていった。

 ガチャン、という重たい金属音が、この部屋を再び世界から完全に隔絶する。


 残されたのは、圧倒的な静寂。

 そして、視界を容赦なく覆い尽くす、あの灰色の天井と不規則なシミの群れだけだ。

 肉体は綺麗に洗浄され、栄養を満たされ、褥瘡を防ぐために正しい姿勢へと整えられた。外から見れば、それは極めて適切に管理された、模範的な医療の成果であるかのように見えるだろう。

 しかしその実態は、中身を完全にえぐり取られた空っぽの器にすぎない。

 悲しみも、怒りも、罪悪感も、そして羞恥心すらも完全に喪失した、ただ呼吸を繰り返し排泄物を垂れ流すだけの、ひどく精巧に作られた肉の人形。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。


 静まり返った空間の隅から、感情の欠片もない心電図の機械音だけが、等間隔のリズムで冷ややかに響き渡っている。

 その無機質な音の連なりだけが、この部屋に置かれている「管理されるべき有機物の塊」に、まだ生命活動の火が灯っているという物理的な事実を、世界に向かって無意味に証明し続けている。

 乾ききった眼球は瞬きすらせず、その音を聞き流しながら、再び天井のシミへと視点を合わせた。

 一つ、二つ、三つ……。

 意味のないカウントが、再び頭蓋骨という密室の中で、単調なループを再開する。

 私は、自分が人間としての尊厳のすべてを剥ぎ取られたという事実の前にすら、いかなる感情の波紋も起こすことなく、ただ永遠に続く凪の底で、ひたすらに、ただひたすらに、己という存在を無へと溶かしていく残酷な静寂の時間を享受し続けていた。

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