第10話『白紙の宣告』(2)
「一つ、二つ、三つ……」
拘束帯でベッドの冷たい鉄枠に縫い付けられた肉体は、ピクリとも動くことを許されず、ただ仰向けの姿勢のまま、病室の灰色の天井を無限に広がる不毛の空として見上げていた。
極限の絶望と精神の崩壊の果てに、狂うことすらできず死ぬことすら許されなかった頭蓋骨の内側に残されたのは、ただ単調な反復行動だけだった。
完全に乾ききった眼球をわずかに動かし、網膜は、灰色の天井にこびりついた不規則な『シミ』の数を、ただ機械的になぞり続けている。
薬品が跳ねたような黒ずんだ斑点。長年の湿気が壁紙の奥から滲み出したような、薄汚れた黄褐色の地図。私は、その一つ一つに視線を合わせ、声を持たない喉の奥で、ただ無機質に数字を割り当てていく。
「四つ、五つ、六つ……」
意味など、どこにもない。
シミの数を正確に数え上げたところで、拘束が解かれるわけではない。過去の罪が許されるわけでも、死んだ親友が生き返るわけでもない。
完全に空っぽになってしまった意識という巨大な空洞を、何か別の『意味を持たない記号』で埋め合わせておかなければ、私という人間の輪郭そのものが物理法則を無視して空気中に霧散してしまいそうだったからだ。
いや、それすらも明確な理由ではないのかもしれない。ただ、首から下の自由を奪われ、視界を天井に固定された動物が、己の眼球の機能がまだ生きていることを確認するための、ひどく惨めで無意識の反射運動に過ぎなかった。
「三十八、三十九、四十……」
冷たい蛍光灯の光が、乾いた瞳孔を容赦なく射抜いている。
しばらく数え続けていると、やがて視界の端から輪郭がぼやけ始め、どこまで数えたのか、どのシミをすでに数え終えたのかが、ドロドロに混ざり合って分からなくなってくる。
「七十三……、あれは数えたか。じゃあ、七十四……いや、六十……」
数字の連続性が途切れ、記憶が滑り落ちていく。
普通の人間であれば、そこで微かな苛立ちを覚えたり、退屈による深い溜め息を吐いたりするはずだ。しかし、内側からは、もはや何の感情のさざ波も起きることはなかった。
数え間違えても、忘れても、どうでもよかった。
間違えたなら、また『一つ』から数え直せばいい。それを永遠に繰り返したところで、失うものなど何一つ残されてはいない。
苛立ちもない。虚しさすらない。
ただ、天井のシミという無機質な物理の模様と、数字という冷徹な記号だけが、頭蓋骨という密室の中で意味を持たないまま無限のループを繰り返している。それは生きている人間の思考などではなく、油の切れた歯車が錆びついた音を立てて惰性だけで回り続けているような、恐ろしいほどの精神の停滞だった。
かつて、頭蓋骨の中は過剰なまでの『音』と『色彩』と『情動』で溢れ返っていた。
あのはちみつ色の光が差し込む図書室で、私に向かって優しく微笑みかけてくれていた穏やかで温かい声。冷たい雨の降る渡り廊下で、『あなたの言葉には光がない』と冷酷に突き放した凍りつくような罵倒の声。そして交差点の雨音を切り裂いて轟いた、巨大なトラックのブレーキの絶叫と、美しい肉体が大質量の車輪にすり潰される、あの骨と肉の破壊音。
脳髄は、それらの記憶の欠片に絶え間なく責め立てられ、罪悪感と自己嫌悪の業火に焼かれながら、のたうち回るような激痛を味わい続けていた。
しかし。今、頭蓋骨の内側には、完璧なまでの『静寂』が広がっている。
耳を澄ましても、彼女の優しい声はどこからも聞こえてこない。私を罵る冷たい声すらも完全に途絶えてしまった。
幻影の彼女は消え去り、真実の彼女すらもが、意識の奥底から完全に姿を消してしまったのだ。
試しに、あの交差点での凄惨な光景を、無理やりに思い描こうとしてみた。
自分の命を救うために身代わりとなり、真っ赤な血の海の中で挽肉の塊と成り果てていた亡骸。そして、血まみれの指で固く握りしめられていた約束の栞。かつてであれば、その情景を思い浮かべるだけで胃袋が裏返るほどの激しい吐き気と、魂が千切れるような絶望に襲われ、声にならない悲鳴を上げていたはずの、絶対的なトラウマの記憶。
だが、脳裏に浮かび上がったその記憶の映像は。
まるで、長年強烈な直射日光に晒され続け、すべての色彩と陰影が完全に飛び去ってしまった、ひどく古い一枚の白黒写真のように、極めて平坦で何の色も匂いも持たないただの『記録』へと摩耗してしまっていた。
血の赤さは、ただの灰色の染みへと変色している。
引き裂かれた肉の生々しさは、ただの幾何学的な模様の崩れにしか見えない。
あんなにも濃密に鼻腔を犯していた鉄錆のような血の匂いも、アスファルトの冷たさも、神経には一切伝わってこない。彼女が私を愛し、命を賭して私を救ってくれたという圧倒的な自己犠牲の事実すらも、もはや遠い昔に読んだ見知らぬ他人の伝記の一行のように、私から完全に切り離された『どうでもいい出来事』へと成り下がっていた。
消滅してしまったのだ。
私の中に存在していた、『彼女』という人間の偶像そのものが。
愛し、嫉妬し、殺し、そして私を底なしの絶望へと突き落としていたあの親友の存在が、精神の完全なる死とともに、一片の塵すら残さずに綺麗に拭き取られてしまったのだ。
記憶という名のキャンバスから、彼女の描いた美しい色彩はおろか、私が万年筆で書き殴った呪いの言葉すらもが、すべて完全に漂白されてしまった。残されたのは、インクの一滴すら垂らされていない、広大で無機質な『白紙』だけだ。
親友を惨殺したという事実を前にして、罪悪感すら抱くことができない。
それがどれほど恐ろしく、どれほど人間としての魂が腐りきった状態であるかを、論理的には理解できる。しかし、それを『恐ろしい』と感じる感情そのものが死滅しているため、ただ『自分は感情を失ったのだ』という事実を、冷徹な物理現象として観測しているに過ぎない。
悲しみがない。怒りがない。罪悪感がない。
重たい拘束帯に縛り付けられた肉体は、ただ酸素を吸い込み、二酸化炭素を吐き出し、静脈から流し込まれる栄養分を消化して、無意味な命の活動を継続している。
心臓がポンプのように収縮し、血液を循環させている。
肺がふいごのように膨らみ、しぼんでいる。
ただそれだけの、極めて単純で無価値な有機物の塊。私は、生きて呼吸をしているだけの、正真正銘の『死体』だった。
内側を満たしているのは、底なしの凪だ。
風は吹かず、波は立たず、潮の満ち引きすら存在しない、完全に動きを止めた死の海。
水面は鏡のように平坦で、どこまでも重たく、濁っている。その底知れぬ深淵には、かつて抱いていたすべての欲望も、執着も、後悔も、冷たい泥の中に深く沈んで石のように固まり、二度と浮上してくることはない。
この絶対的な虚無感こそが、月城詩織という殺人鬼に行き着いた最終形態だった。
狂うという逃げ道すら与えられず。悲しむという人間らしさすら奪われ。ただ己の存在がこの世界に何の意味も持たず、誰の記憶にも残らず、天井のシミの数を数え続けるだけの肉の塊として、永遠にこのベッドの上で腐り落ちるのを待つだけ。
「百八、百九、百十……」
病室の空調が、微かな低い唸り声を上げている。
冷たい空気が頬を撫でていくが、瞬きすらせず、ただひたすらに天井のシミを見つめ続けていた。
自分が今、息をしているのかどうかも分からない。自分が月城詩織という名前の人間であったことすらも、ただの無意味な音声の羅列に感じられ始めていた。
私は無だ。
何者でもなく、どこにも存在せず、ただこの灰色の空間に配置された、一つの醜い物体。
心電図の機械音が、ピッ、ピッ、と、存在の無価値さを嘲笑うように、等間隔の冷たいリズムを部屋の隅から響かせ続けている。その音だけが、この宇宙という巨大な物理空間の中で、まだ完全に消滅しきってはいないということを、残酷に証明し続ける唯一の足音だった。
私は、焦点の合わない瞳孔を見開いたまま、永遠に続く底なしの凪の底で、ただ音もなく、静かに、ひたすらに自分という存在を風化させていくことしかできなかった。




