第9話『剥落する約束(後編)』(5)
限界を遥かに超越した魂の激痛は、もはや頭蓋骨という極小の密室に収まりきるものではなかった。
血管の隅々まで行き渡った鎮静剤の鉛に支配され、自らの意志では産毛の一本すら動かすことのできなかった肉体が、内側からの大爆発に耐えきれず、目に見えない巨大な手に乱暴に揺さぶられるようにして異様な痙攣の頂点を迎えた。
細かな筋肉の震えが全身の骨格を軋ませ、関節を外さんばかりの大きなうねりへと変貌していく。
硬く糊付けされた灰色のシーツの上で、ただの死肉に等しい身体が、己の意志とは無関係に陸に打ち上げられた魚のように激しく跳ね回る。
そして。その最も激しい魂の痙攣が、私という物体の重心を、ベッドの安全な領域から、虚無の境界線である縁へと決定的に押し出した。
不意に、背中と後頭部を支えていた確かなシーツの感触が無慈悲に消失した。
重力という絶対的な理が、無防備な肉体を真下へと強引に引きずり込み、冷え切った空気を切り裂いて、肉と骨が硬い床に叩きつけられる、ひどく重たく鈍い落下音が響き渡った。
冷たいリノリウムの床に、顔面の右半分と肩の骨が、受け身をとることすら許されないまま暴力的に激突する。
肺の中に残っていたわずかな空気が、その衝撃によって喉の奥から無様に吐き出された。
同時に、私の肉体を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた無機質な命綱が、乱暴に引きちぎられる。
静脈に深く突き刺さっていた点滴の鋼鉄の針が、固定されていた医療用のテープごと皮膚と肉を無惨に引き裂きながら抜け落ちる。心臓の微弱な鼓動を拾い続けていた無数の電極パッドが、粘着音を立てて胸元から剥がれ落ちる。
規則正しいリズムで静寂を保っていた病室に、突如として命の危険を知らせる鋭い警告の電子音が、狂った鳥の悲鳴のように鳴り響き始めた。
しかし、鼓膜を劈くようなその不快な警告音すらも、私の意識の奥底にはもはや届いていなかった。
ベッドから転げ落ちた衝撃で、視界は九十度、真横へと完全に横倒しになっていた。
私を圧殺しようとしていた灰色の天井のシミは視界から消え去り、代わりに眼球を覆い尽くしたのは、埃と消毒用アルコールの匂いがこびりついた冷たいリノリウムの床の表面と、ベッドの冷徹な鉄の脚だった。
痛みは、感じなかった。
首の骨が折れ、神経が完全に絶たれた肉体は、床に叩きつけられた衝撃による物理的な苦痛すらも伝達してはくれない。ただ、頭蓋骨に響いた鈍い振動だけが、ベッドという境界線から墜落したという事実を知らせていた。
しかし、その物理的な落下の衝撃は、肉体を冷たい床に叩きつけただけでは終わらなかった。
身体が重力に引かれて落ちた反動で、だらりと投げ出されていた右腕が、ベッドの脇に置かれていた簡素な金属製のサイドテーブルの脚に激しくぶつかった。
金属同士がぶつかる不快な音とともに、テーブルの上が大きく揺れる。
そして、その天板の上に置かれていた一つの小さな箱が、バランスを崩して宙を舞い、床へと落下した。
それは、雨の降る交差点での凄惨な事故の現場から回収され、残酷な現実を直視させるための罰として無造作に置かれていた、数少ない『現実の残骸』を収めた箱だった。
箱の蓋が開き、中からいくつかの無機質な物品が冷たいリノリウムの床に向かって吐き出される。
その中から、他のどんな物体よりも軽く、しかし私の魂にとってはこの世界のどんな大質量よりも重い『一枚の紙切れ』が、力なく虚空を舞い、横倒しになった眼球のほんの数センチ先の床へと、音もなく舞い落ちた。
それは、はちみつ色の光が優しく差し込む図書室で、彼女の美しい指先が色彩を描き出し、私が不器用な言葉を添えて二人で完成させた、手作りの『栞』だった。
あの日、大質量の車輪の下で挽肉の塊へと変わり果てた彼女が、最期の最期まで、その美しい命の炎が永遠の暗黒に飲み込まれる最後の瞬間まで、自らの血肉に代えても固く握りしめ続けていた、私と彼女の唯一の約束の証。
目の前の冷たい床に落ちたその栞は、かつて共に笑い合った放課後に放っていた眩しい色彩の輝きなど、完全に失っていた。
泥水を大量に吸い込んでふやけ、乾燥させられたことによって、紙の表面は醜く波打つように歪んでしまっている。
そして何よりも、表面に描かれていた美しい星空の色は、べったりと付着した巨大で不浄な汚れによって、無惨に塗り潰されていた。
汚れではない。
それは、大質量の車輪に潰された彼女の体内から噴き出し、この栞を真っ赤に染め上げた、彼女自身の『生血の痕』だ。
時間が経過し、空気に触れて完全に酸化した血の染みは、今はもう生々しい真紅色ではなく、どす黒く変色した茶褐色の腐敗の色となって、紙の繊維の奥深くまでこびりついている。
それはまるで、私という存在の醜い嫉妬心が、彼女という美しい光を内側から食い破り、腐らせてしまったことを証明する、絶対的な呪いの紋様のように見えた。
焦点の合わない、瞬きすら忘れて完全に乾ききった両の眼球で、目の前の床に散らばったその茶褐色の血の染みを、ただじっと見つめ続けた。
私が殺した親友の、干からびた血の痕。
醜悪な殺意の証明であり、彼女の底なしの慈悲の象徴である、最も残酷な現実の遺物。
本来であれば、その血に染まった栞を目にした瞬間、精神は耐え難い自己嫌悪と罪悪感の業火に焼かれ、喉が裂けるほどの声にならない絶叫を上げて完全な発狂へと至らなければならないはずだった。
「ごめんなさい、私が殺したの、私が悪かったの」と血の涙を流して懺悔し、のたうち回らなければならないはずだった。
しかし。
内側の最も深い場所からは、もはや何の感情も、一滴の熱すらも沸き起こってはこなかった。
悲しみは、なかった。
親友を永遠に失った喪失の涙は、自らを悲劇のヒロインに見立てるための安い小道具として使い果たし、完全に枯れ果てていた。
怒りは、なかった。
才能に対する醜い嫉妬も、凡庸さに対する憎悪も、すべては限界を超えた魂の激痛の果てに燃え尽きて、ただの冷たい灰の山と化していた。
そして、息の根を止めようとしていた巨大な罪悪感すらも、魂を内側から食い破る重圧に耐えきれず、罪悪感を感じるための精神の器そのものが木端微塵にすり潰され、この冷たい病室の空気の中へと永遠に霧散してしまっていた。
心が、死んだのだ。
苦痛から肉体を守るための防衛本能でもなければ、現実から目を背ける逃避でもない。
月城詩織という魂そのものが、すべての機能を完全に停止し、いかなる奇跡が起きようとも二度と蘇ることのない、絶対的で不可逆な『死』を迎えたのだ。
ただ生命を維持するための心臓や肺といった臓器だけが、憎むべき肉体の内側で、機械的に血液を送り出し無意味な酸素の交換を続けているに過ぎない。
冷たい牢獄の中に、誰もいない空っぽの空間だけが広がっている。
残されたのは、圧倒的な、そして底なしの『虚無』だけだった。
もう美しい図書室の幻影に逃げ込むことはできない。万年筆を握り、都合の良い物語を紡ぎ出す創造主になることは二度とできない。
絶望の森の少女ステラになりきって涙を流し、誰かに同情を乞うような自己欺瞞も許されない。
ならば自分の罪の重さに耐えかねて、病室の壁に何度も頭を打ちつけて狂い死ぬことができるかといえば、首から下の神経を絶たれ、完全に死に絶えた空っぽの精神しか持たない私には、自ら命を絶つという最低限の救済すら永遠に不可能なのだ。
物語を紡ぐこともできない。他人に愛されることもない。発狂して狂気に逃げ込むことも、死んで罪を償うこともできない。
希望がないのではない。絶望すらないのだ。
光もなく、闇という概念すら存在しない、温度も音も匂いも持たない完全なる無の世界。
自分が人間であるかどうかの認識すらも曖昧に溶けていく中で、ただ呼吸をするだけの冷たい肉の塊として、リノリウムの床の上に転がっている。
けたたましく鳴り響き続ける命の警告音。
そして異常を知らせる音を聞きつけ、慌ただしく廊下を走ってくる無機質な看護師たちの複数の足音が、何重もの分厚いガラス越しに聞くように、ひどく遠く、くぐもって聞こえる。
横倒しになった顔のすぐ目の前には、彼女の命の残骸である茶褐色に汚れた約束の栞が、ただの無機質な紙切れのゴミのように落ちている。
私の目は、それを物理的な視覚情報として網膜に映し出しながらも、もはやそこから何の意味も、何の感情も読み取ることはない。
大きく見開かれたまま、瞬きをすることすら忘れ、一切の水分を失って乾ききった両の瞳。
生命の輝きも、狂気の濁りも、絶望の涙も存在しない完全な硝子玉のようなその瞳の表面に、灰色の天井から降り注ぐ冷たくて白い蛍光灯の光だけが、ただ無機質に、何の感情も持たず、どこまでも冷酷に反射し続けていた。




