第9話『剥落する約束(後編)』(4)
私は、物語を紡ぎ出す全能の創造主などではなかった。
人工的なオレンジ色の光に満たされた放課後の図書室で、万年筆を握りしめ、ブルーブラックのインクで思いのままに世界を支配していると思い込んでいた傲慢な神。親友の幻影を都合の良い人形として椅子に座らせ、自らの罪悪感を薄めるための免罪符として美しい物語を創り上げようとしていた、見せかけの作者。
それはすべて、自分自身の醜さを直視できないがゆえに脳髄で捏造した、吐き気を催すほどに薄っぺらい自己陶酔の空想に過ぎなかった。私の紡ぐ言葉のどこを探しても、そこには命の息吹など一滴も含まれてはいない。他人の美しい色彩を泥で汚し、自らの暗い情念の底へと引きずり込もうとする、腐臭を放つ執着の羅列。ただそれだけの、意味を持たない汚い染みの連なりだったのだ。
そして同時に、私は悲劇を背負った哀れな登場人物でもなかった。
残酷な運命の悪戯によって両腕を奪われ、光の届かない絶望の森の底を血の涙を流しながら這いずり回る孤独な少女『ステラ』。
私は、自分が犯した殺人の大罪から逃亡するために、被害者の顔という名の甘い仮面を被り、この動かない肉体を『理不尽な悲劇の証拠』だとすり替えようとした。ステラという架空の洗礼名に隠れ潜み、誰かから同情され、哀れまれることで、自らの罪が希釈され浄化されるのだと狂信的に信じ込もうとしていた。
しかし、その仮面もまた、記憶のヘドロが逆流したことによって完膚なきまでに粉砕され、剥がれ落ちた。
神でもなければ、悲劇のヒロインでもない。
そのどちらにも成り上がることのできない、ただの浅ましく卑小で、自らの力では何一つ美しいものを生み出すことすらできない空っぽの殺人鬼。
才能の光に嫉妬し、自らの暗い檻の中に親友を縛り付けようと呪詛を吐き、見捨てられる恐怖から錯乱して車道へと飛び出し、結果として、この世で最も私を愛し、底なしの慈悲で私を救おうとしてくれた美しい命を、大質量の車輪の挽肉へと変えて惨殺した。
それが、月城詩織という人間の、骨の髄まで腐りきった正体だった。
その絶対的で逃れようのない自己認識が、脳髄の中で完全に確定した瞬間。
私の精神を辛うじてつなぎ止めていた最後の器が、ガラスが砕け散るような音すら立てることなく、ただ泥の中に沈むようにして完全に消滅した。
それと同時に、人間の精神が耐え得る限界を何万倍も超越した、言語を絶するほどの『痛覚』が、魂の核から凄まじい勢いで爆発したのだ。
痛い。痛い。痛い。
それは刃物で肉を切り裂かれる痛みでも、炎で皮膚を焼かれる痛みでもない。自らの存在そのものがこの世界のすべての不浄を集めた絶対悪であるという事実が、子宮から脳天までを無数の錆びた鉄串で串刺しにし、内側から執拗にえぐり回すような、魂そのものの激痛だった。
その極限の激痛は、頭蓋骨という密室の中だけに留まることを許さなかった。
限界を超えた苦痛の信号は、完全に切断されているはずの首の奥の神経の断裂面を、まるで狂った濁流が崩れ落ちた橋を無理やりに飛び越えるようにして決壊させ、動かないはずの肉体全体へと恐ろしいほどの暴力性を持って一気に氾濫していった。
私の意思とは全く無関係に、灰色のシーツの上にだらりと投げ出されていた死肉のような右腕が、突然、陸に打ち上げられた魚のように異様な痙攣を引き起こした。
神経が繋がっていないはずの筋肉の繊維が、精神から漏れ出した狂気の信号を受信し、でたらめな収縮と弛緩を繰り返す。足の指が不自然な角度に曲がり、ふくらはぎの肉が波打つように引き攣り、硬く糊付けされた木綿のシーツが、その異様な動きによってカサリ、カサリと不気味な摩擦音を立てる。
しかし、私の血管の奥深くには、あの無機質な看護師によって強制的に流し込まれた強力な鎮静剤が、重たい鉛となって隅々まで充満している。
痙攣を起こして暴れ狂おうとする肉体を、冷たくて重たい化学薬品の枷が容赦なくベッドの底へと押し付ける。
動きたいのに、動けない。発狂して自らの肉体を無惨に引き裂きたいのに、薬の重力がそれを絶対に許してくれない。精神の底なしの激痛と、肉体を縛り付ける絶対的な麻痺。その二つの相反する極限の力が、私というちっぽけな肉体の内側で正面衝突を起こし、骨の髄を粉々にすり潰すような想像を絶する拷問を生み出していた。
「ひゅう……あ、かはっ」
麻痺させられた喉の奥から、声帯の摩擦を一切伴わない、空気が漏れるような惨めな音が木霊した。
それは、言葉という形を成すことすら許されない、ただの声にならない絶叫だった。
肺は魂を切り裂く激痛に悲鳴を上げようと、限界まで酸素を取り込み、それを力の限り外部へと放出しようとしている。しかし、首から下の自由を奪われた声帯は、その空気を震わせて『音』に変換する機能すらも完全に破壊されていた。
叫びたい。自分の愚かさを、自分の醜さを、自分が彼女を殺してしまったという取り返しのつかない罪を、喉から血を吹き出しながら世界に向かって絶叫したい。そうしなければ、この頭蓋骨の内側に充満した痛みの圧力が、私自身を内側から破裂させてしまう。
しかし、いくら叫ぼうと足掻いても、漏れ出るのはただの生温かい呼気の塊と、気道が引き攣るかすれた摩擦音だけだった。
誰の鼓膜も震わせることのない、ただ頭蓋骨の内部だけで反響し続ける血の滲むような断末魔。自分の声すら自分自身で聞くことができないという圧倒的な無力感が、私の絶望をさらに深い暗黒の底へと叩き落としていく。
限界まで見開かれた両の眼球からは、感情という名の制御を完全に失った涙が、決壊したダムのようにどろどろと止めどなく溢れ出し続けていた。
熱を帯びた涙の滴が、瞬く間に目尻を越え、こめかみを伝い、耳の穴の中へと冷たく流れ込んでいく。同時に、麻痺してだらしなく半開きになった口の端からは、行き場を失った大量の涎が、粘り気を帯びた糸を引いてシーツへと垂れ落ちていく。
涙と涎、そして脂汗が混ざり合い、顔面は見るに堪えないほど醜く、どろどろに汚れきっていた。
拭うこともできない。顔を背けることすらできない。
普通の人間の身体であれば、これほどの極限の苦痛と絶望に襲われれば、自らの両手で顔を覆って泣き叫ぶことができる。シーツを指がちぎれるほど強く握りしめ、痛みを逃がすことができる。あるいは、その絶望から逃れるために、ベッドから転げ落ちて自分の頭を硬いコンクリートの壁に何度も打ちつけ、自らの命を強制的に終わらせることすらできるはずだ。
死んで、彼女に詫びる。その最低限の選択肢すらも、この動かない肉体と冷酷な鎮静剤の檻は、私から完全に奪い去っていた。
私には、死ぬ自由がない。
そして何より恐ろしいのは、私には『狂う自由』すらも残されていないということだった。
精神が完全に崩壊したというのに、意識の核だけは、この灰色の病室という名の現実の処刑台の上に、太い鉄の釘で打ち付けられたように鮮明なまま固定されているのだ。
鎮静剤が無理やりに思考の暴走を押さえつけ、私を『正気』の領域に繋ぎ止めている。
図書室の幻影という甘い逃げ道はもう二度と開かれない。絶望の森の少女になって痛みを誤魔化すことも許されない。
私は、自分が親友を惨殺し、その命を貪って生き残った醜い肉塊であるという絶対的な事実を、ただひたすらに、一秒の休みもなく正気で直視し続けなければならないのだ。
涙と涎にまみれた私の鼓膜を打つのは、ただ空間の隅で一定のリズムを刻み続ける、あの感情の欠片もない心電図の電子音だけだった。
その音は、私が今この瞬間も生きているという残酷な事実を、世界に向かって無慈悲に宣告し続けている。
彼女の美しい心臓は、あの日、大質量の車輪の下で原型を留めないほどにすり潰され、永遠にその鼓動を停止したというのに。彼女を殺した私の汚い心臓は、こうして冷たい病室のベッドの上で、機械の力に守られながら、何食わぬ顔で生き恥をさらし続けている。
鼓動が一度鳴るたびに、私の罪が一つずつ加算されていく。
機械音が一度響くたびに、血と泥にまみれた彼女のあの赤い栞の記憶が、眼球の裏側を鋭い刃物でえぐり抜いていく。
これが、私に与えられた罰だった。
死ぬことも許されず、狂うことも許されず、ただ自らの罪の巨大さに全身の骨の髄をすり潰されながら、永遠に続く時間の中で、声にならない悲鳴を上げ続けること。
ここは、月城詩織という殺人鬼のためだけに用意された、正真正銘の生き地獄だった。
私は、天井の醜いシミを見つめながら、自らの顔を汚物のように濡らしていく涙の冷たさの中で。もはや自分という存在のすべてが罪悪感という名の底なしの暗黒に飲み込まれ、二度と光の届かない虚無の深淵へと真っ逆さまに墜落していくのを、ただただ絶望の眼差しで受け入れることしかできなかった。




