第9話『剥落する約束(後編)』(3)
私を永遠の底へと引きずり込んでいた血の海と、冷たく降り注いでいた灰色の雨の情景が、巨大な断裁機にかけられたかのように突如として断ち切られた。
網膜の裏側にこびりついていた凄惨な交差点の記憶が、水に落ちた顔料のように激しく滲み、ぼやけ、そして見えない暴力的な力によって強引に拭き取られていく。代わって眼球を力任せに押し潰してきたのは、圧倒的な閉塞感と消毒液の匂いを伴う、あの見慣れた灰色の天井だった。
病室だ。
私は、ヘドロのように逆流してきた逃れようのない真実の記憶から、再びこの冷酷な『現実』のベッドの上へと強引に引き戻されたのだ。
血管の奥深くまで巡らされた強力な鎮静剤が、冷たい鉛の重みとなって肉体を内側から完全に支配していた。動かない首から下の身体は、ただの死肉以上に重く、糊付けされた木綿のシーツの奥底へと、私という存在を永遠に縫い付けようとしている。
「あ……、あぁ、あ……」
限界まで見開かれた両目を閉じることすらできず、痙攣する喉の奥から、肺に溜まった空気がひゅっ、ひゅっ、と惨めに漏れ出し続けていた。
感情の欠片もない心電図の規則的な電子音が、静まり返った病室の空気を等間隔に切り裂いている。その無機質な音の羅列は、私が狂い死ぬことすら許されず、この現実の牢獄に生きたまま繋ぎ止められていることを証明する、絶対的な看守の足音だった。
私は、目を剥いて天井のシミを見つめながら、自らの頭蓋骨の内側で、音を立てて完全に崩落していく巨大な『虚構の城』の残骸を、ただ黙って直視し続けることしかできなかった。
はちみつ色の光が優しく差し込む、放課後の古い図書室。
机を寄せ合い、ひとつの美しい物語を紡ぎ出そうと笑い合っていた、あの甘美で温かな空間。
そして何よりも、私の言葉を肯定し、私に向けて慈愛に満ちた柔らかな微笑みを向けてくれていた『優しい彼女』の姿。
あれはすべて、私が自分自身を騙すために脳髄で練り上げた、吐き気を催すほどに醜悪な『偶像』だったのだ。
本当の彼女は、私を泥だと言い捨てて冷酷に拒絶した。そしてその直後、私という最低の寄生虫の命を救うために、自らの美しい肉体を大質量の車輪の下へと投げ出し、挽肉となって死んでいった。最後に、私との約束の証であるあの栞を、血まみれの指で固く握りしめながら。
私の魂は、その『彼女の圧倒的な慈悲と、それを踏みにじった自分の浅ましさ』という、あまりにも巨大で直視不可能な現実の前に、完全に圧死しそうになっていた。
人間の精神というものは、自らの罪の重さに耐えきれなくなった時、発狂を防ぐために無意識のうちに現実を歪曲し、都合のいい幻影へと逃げ込もうとする。
私が見ていた図書室の風景は、まさにそれだった。
自分が親友を惨殺したという事実から。そして何より、『彼女が私を愛し、命を捨てて私を守ってくれた』という、殺意以上に残酷な永遠の負債から目を背けるために、自らの脳髄に分厚い蓋をしたのだ。
交差点で私をかばって死んだ彼女の血の海を、人工的な柑橘の香料と毒々しいオレンジ色の西日で上塗りした。
そして、『彼女はまだ生きていて、私と一緒に絵本を作っている』という狂気の箱庭を頭の中に捏造し、そこに逃げ込むことで、自分が人殺しであるという事実を無かったことにしようと足掻き続けていた。
図書室の彼女が見せていたあの微笑みは、彼女自身の感情などではない。
私が、『彼女から許されたい』『彼女に愛されたい』と身勝手に願う心が生み出した、ただの精巧な人形。私という卑劣な犯罪者を無罪放免にするためだけに用意された、哀れな自己防衛の防波堤に過ぎなかったのだ。
しかし、私の自己欺瞞の醜さは、逃避の幻影を創り出したという次元にすら留まらなかった。
記憶のヘドロが完全に晴れ渡った今、私は、自分がどれほどおぞましい精神のすり替えを行っていたのかを、完璧な絶望とともに理解してしまった。
あの白いマスクの看護師が、私のことを『ステラ』と呼んだ理由。
それは、私が看護師に対し、自分の名前を『ステラ』と呼ぶように狂乱して強要していたからに他ならない。
ステラ。
両腕を根こそぎ失い、光の届かない絶望の森の底を這いずり回る、孤独で哀れな少女。私たちが創ろうとしていた絵本の主人公。
私は、事故の衝撃で首から下の神経を絶たれ、指一本動かすことのできない不自由な肉体となって、このベッドに縛り付けられた。
その身体的な喪失感と、親友を殺したという耐え難い罪悪感を前にして、私の精神は最も卑劣で許されざる『すり替え』を行ったのだ。
私は、自分の犯した大罪を、絵本の中の架空の設定へと意図的に混同させた。
月城詩織は、親友をトラックの車輪の下へ突き飛ばした加害者だ。しかし、ステラならば。ステラは残酷な作者のペン先によって両腕を奪われた、無力で可哀想な被害者になれる。
親友を死に追いやった本物の加害者であるにもかかわらず。私は自らを絵本の中の不幸なヒロインである『ステラ』に重ね合わせることで、自分が受けているこの肉体的な罰を、『誰かに与えられた理不尽な悲劇』へと変換してしまったのだ。
『私は両腕を失って泥の中を這いずり回っている可哀想な少女なのだから、同情されるべきだ』
『私がこんなに苦しんでいるのだから、私の罪はもう許されているはずだ』
そんな、ヘドロよりも濁った自己憐憫に浸りきり、悲劇のヒロインの顔をして涙を流し、自分の罪の重さを絵本の物語の中に溶かして希釈しようとしていたのだ。
「あ、が、あぁぁぁっ」
吐き気がした。
胃の腑を直接雑巾のように絞り上げられるような、言語を絶する激しい吐き気が、私の全身を痙攣させた。
しかし、鎮静剤に支配された肉体は、胃液を吐き出すことすら許してくれない。喉の奥で熱くて酸っぱい胆汁が上下に暴れ回るだけで、自らの内側に溜まった汚物を外に排出することさえできないのだ。
醜い。あまりにも醜悪だ。
私は、彼女の美しい命を奪っておきながら、その死を悼むことすら放棄し、ただ自分自身が傷つかないためだけに彼女の存在を都合の良い偶像へと貶め、自らを悲劇の主人公に仕立て上げていた。
他人の才能に寄生しようとした浅ましさ。拒絶された腹いせに殺意を抱いた卑劣さ。命を救われたにもかかわらず、その事実から逃亡した臆病さ。そして、被害者の顔をして自己陶酔に浸っていた底知れぬ腐敗。
月城詩織という人間を構成するすべての要素が、この世界のどんな汚物よりも不浄で、救いようのない悪臭を放っている。
病室の冷たい空気が皮膚に張り付き、その罪の輪郭を浮き彫りにしていく。
もう、どこにも逃げ道はない。
琥珀色の図書室は、防波堤の崩壊とともに完全に木端微塵に消え去った。絶望の森の血の泥濘すらも、私が悲劇に酔うために用意した安っぽい舞台装置でしかなかったことが暴かれた。
残されたのは、冷徹な事実だけだ。
私はステラではない。月城詩織だ。
両腕を失った可哀想な少女ではなく、自らの足で車道に飛び出し、最も愛する人を挽肉に変え、その結果として首の骨を折って永遠に動けなくなった、ただの自業自得の殺人鬼。
私という人間の輪郭が、一切の言い訳を剥ぎ取られ、最も残酷な形で完全に確定してしまったのだ。
視界の隅で、心電図の緑色の線が、私の浅ましい命の波形を冷酷に描き続けている。
彼女の美しい命を代償にして、私はこの冷たいベッドの上で、無価値な呼吸を繰り返している。
自己嫌悪の刃が、私の子宮から脳天までを何千回、何万回と串刺しにしていく。
ごめんなさい。許して。殺して。今すぐ私を殺して。
頭の中で血を吐くように絶叫しても、誰の耳にも届くことはない。
私は、自分が創り上げたすべての幻影と偶像を失い、丸裸の罪人として、この灰色の天井の下で、永遠に自らの魂を自らの牙で食い破り続けるという、真の無間地獄へと落ちていったのだった。




