第9話『剥落する約束(後編)』(2)
鼓膜を完膚なきまでに塗り潰す凄まじい雨音だけが、世界に取り残された唯一の環境音だった。
大質量のエンジンが放っていた咆哮も、タイヤが濡れたアスファルトを乱暴に削り取る不快な摩擦音も、そして骨と肉が砕け散る言語を絶する破壊の響きも。すべては最初から幻聴であったかのように、冷たい空気の中に溶け落ちている。
這いつくばる私を包み込んでいるのは、果てしなく降り注ぐ灰色の雨と、鼻腔の奥深くまで暴力的に侵入してくる濃密な鉄錆の匂いだけだった。
私が爪を立てている横断歩道の先には、かつて美しい親友であった少女の残骸が横たわっている。
私は、アスファルトの鋭い粒子に手のひらと膝の皮膚を削り取られ、熱い血液が泥水と混ざり合うのを感じながらも、目に見えない重たい鎖に首を引かれるようにして、その肉の塊へと向かってじりじりと這い進んでいった。
立ち上がれなかったのではない。二本の足で立つ資格など、私にはもう永遠に失われてしまったのだ。自らの浅ましい殺意によって唯一の光を死に追いやり、その命を貪って生き延びた醜い獣に許された移動手段は、冷たい泥水と他人の血を舐めながら地を這いずり回ることだけだった。
数メートル這い進むごとに、雨水に溶け出した赤黒い液体が、私の制服の膝と掌をべったりと汚していく。
ひどく生温かい。恐ろしいほどに、熱を帯びている。
つい数分前まで、彼女の静脈を絶え間なく巡り、あの白い皮膚に美しい生命の血色を与えていた命の源泉。それが今はただの不浄な汚水となって、排気ガスと泥にまみれたアスファルトの溝を虚しく満たしている。
彼女の亡骸のそばに辿り着いた時、私の喉の奥から、ひゅう、と空気が漏れるような惨めな音が鳴った。
そこにあったのは、もはや人間の形を一切留めていない、巨大な暴力によって徹底的に蹂躙された肉と骨の堆積物だった。
何トンもの車輪に轢き潰された胴体は無惨に薄く引き伸ばされ、純白だったブラウスは内臓の破片と大量の血液を吸い込んで、毒々しい真紅のぼろ布へと成り果てている。私に冷たく背を向けたあの美しい横顔も、すべてを見透かすような涼しげな瞳も、アスファルトの硬い地面に叩きつけられて完全に砕け散り、雨粒が容赦なくその原形を洗い流そうとしている。
彼女の美しい髪だけが、唯一生前の面影を残したまま、血の海の中で黒い海藻のように濡れて広がっていた。
私は、自分が引き起こした罪の巨大さに、全身の骨の髄から震え上がった。
私が殺したのだ。
私が彼女をこの交差点に追い詰め、私が彼女の命を奪ったのだ。
彼女が私を突き飛ばさなければ。私が醜い嫉妬に狂って車道に飛び出さなければ。彼女は今も、あの足で冷たい雨の降る通学路を真っ直ぐに歩いていたはずなのだ。
彼女の未来、彼女が描くはずだった無数の美しい色彩、彼女がこの世界に降り注ぐはずだった眩しい光のすべてを。私という空っぽの闇が完全に飲み込み、すり潰してしまったのだ。
罪悪感という言葉では到底足りない、魂そのものがどろどろに溶けて崩れ落ちるような絶対的な恐怖と絶望が、私の息の根を止めにかかる。
その時だった。
血と泥の海に沈む彼女の亡骸の傍らで、私の視線が、ある一点に強烈に吸い寄せられた。
それは、車輪の直撃を奇跡的に免れ、胴体からわずかに離れた場所に投げ出されていた彼女の『右手』だった。
私には決して生み出すことのできない美しい色彩を魔法のように紡ぎ出し、そして最期の瞬間に私の肉体を全力で突き飛ばして命を救った、白魚のように細く美しい右の掌。
その手は、冷たい雨に打たれながらも、まるで何かを必死に守り抜こうとするかのように、指先を内側に丸めて、固く、強く握りしめられていたのだ。
死後硬直ではない。
それは明らかに、巨大な車輪に命を圧殺されるその直前、意識が永遠の暗闇に沈みゆく最期の刹那に、彼女自身の強靭な意志によって握りしめられた形跡だった。
私は、痙攣する手を伸ばし、彼女の冷たくなりつつある右手に触れた。
指先から伝わってくるのは、もはや命の熱を失い、雨と同じ温度にまで冷え切った死者の皮膚の感触だった。
「ごめ、なさい……ごめんなさ……っ」
意味を持たない謝罪の音声記号を壊れた玩具のように繰り返しながら、私は、彼女の固く結ばれた指を、一つずつ、ゆっくりとほどいていった。
泥と血にまみれた細い指の隙間から、何かの端が覗いた。
それは、厚手の紙片だった。
雨水を吸ってふやけ、彼女の生血で赤黒く染まり、半分以上が泥に汚れてしまっている小さな紙の破片。
それを見た瞬間、私の頭蓋骨の内部で、今まで私を縛り付けていたすべての認識の器が、音を立てて木端微塵に粉砕された。
見間違えるはずもない。
かつて、はちみつ色の光が優しく差し込む放課後の図書室で。
私と彼女が、まだお互いの間にどす黒い嫉妬や劣等感の泥沼を抱える前。『一緒に、世界で一番美しい絵本を創ろう』と笑い合いながら、二人で少しずつ色を塗って完成させた、手作りの『栞』だった。
私の紡ぐ言葉と、彼女の描く色彩が、初めて一つの小さな紙の平面の上で調和し、交わり合った、あの奇跡のような放課後の結晶。私と彼女を繋ぐ、たった一つの、そして最も純粋な約束の証。
なぜ。
どうして。
私の心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりに狂ったように脈打った。
彼女は、たった数分前、あの冷え切った渡り廊下で、私に向かって『もう絵本は描かない』と冷酷に言い放ったはずだ。『あなたの言葉には光がない』『私を縛り付ける呪いよ』と、私という存在を完膚なきまでに否定し、ゴミのように捨て去ったはずだ。
それならば、なぜ彼女は、私の呪いであるはずのこの栞を、制服のポケットの中に密かに忍ばせていたのか。
なぜ、巨大な鉄の車輪に全身をすり潰され、命の灯火が永遠に消え去ろうとするその極限の苦痛の中で。自らの命を惜しむのではなく、私との約束の証であるこの小さな紙切れを、誰にも奪われないように、これほどまでに強く、大切に握りしめていたのか。
答えは、あまりにも残酷で、あまりにも明白だった。
彼女は、私を見捨ててなどいなかった。
私という存在の醜さ、暗さ、底なしの嫉妬心をすべて見抜いた上で。それでも彼女は、あの図書室で共に過ごした時間と、私と交わした約束を、心の底から愛し、大切に思い続けてくれていたのだ。
あの渡り廊下での冷たい拒絶は、私を泥の底に突き落とすためのものではない。私がいずれ自らの狂気に押し潰され、完全に破滅してしまうことを見抜き、私をこれ以上醜い嫉妬の鎖で縛らないように、自らが悪者となって関係を断ち切ろうとした、彼女なりの、不器用で、悲痛な『慈悲』だったのだ。
――あ。
私の喉の奥で、声帯が完全に千切れる音がした。
人間の声帯から発せられるべきではない、獣の咆哮のような絶叫が雨の交差点に迸る。
雨音すらも切り裂くその叫びは、私の魂が完全に真っ二つに引き裂かれ、永遠の地獄へと墜落していく断末魔の響きだった。
私は、何ということをしてしまったのだ。
彼女は私を救おうとしていた。私の魂がこれ以上濁らないように、自ら身を引こうとしていた。そして最後の最後まで、私との絆の証であるこの栞を、自らの命よりも大切に握りしめてくれていた。
それなのに私は。
その彼女の底知れぬ無償の愛と慈悲を、自分のちっぽけなプライドと、ドス黒い自己愛という汚濁で完膚なきまでに汚し、呪詛の言葉を浴びせ、ついには大質量の車輪の下へと叩き込んで惨殺してしまったのだ。
私が殺したのは、私を軽蔑する親友ではない。
この世界で唯一、私の空っぽの魂を丸ごと包み込み、底なしの慈悲で救済しようとしてくれた神のような存在を、私自身の汚れた手で、挽肉の塊へと変えてしまったのだ。
血と泥にまみれた栞を握りしめ、私はアスファルトの上に崩れ落ちた。
降り注ぐ冷たい雨が、私の顔を激しく打つ。
罪悪感が致死量を遥かに超え、私の五臓六腑を内側から食い破り、溶かしていく。
私が彼女の命を奪ったのではない。私が彼女の愛を、私の醜い嫉妬で蹂躙し、惨殺したのだ。
その絶対的で、永遠に償うことの許されない真実が、私の精神を完全に圧殺した。
もはや、涙すら出ない。
私は、彼女の血で真っ赤に染まった冷たい雨の海の中で。ただひたすらに自らの魂が無限の針の山に串刺しにされ、永遠に終わることのない責め苦を味わい続けるのを感じながら、声にならない悲鳴を上げ続けることしかできなかった。
血溜まりに咲いたその赤い栞は、私が決して逃れることのできない永遠の罪と罰の刻印として、私の網膜の奥底に、決して消えることのない鮮烈な火傷を負わせたのだった。




