第8話『剥落する約束(前編)』(5)
彼女の薄い唇から決定的な拒絶の言葉が放たれ、その残響が渡り廊下の湿った空気に完全に溶け切った、次の瞬間だった。
私の内側で、何か決定的なものが、太い音を立てて断裂した。
それは、親友に拒絶されたことによる悲しみでもなければ、共に物語を紡ぐ夢が破れたことへの絶望でもなかった。そんな美しくて人間らしい感情は、私の濁りきった魂のどこを探しても、ただの一滴も残されてはいなかった。
私の腹の底、五臓六腑が蠢く最も暗く生臭い場所から、ドロドロと沸騰しながらせり上がってきたもの。それは、自らの唯一の存在意義――『物語の創造主』としての絶対的な優位性――を、ただの寄生虫の妄想に過ぎないと完全否定されたことに対する、醜悪極まりない『怒り』と『憎悪』だった。
悲しみなどない。あるのは、私の凡庸さを白日の下に晒し、私の肥大化した自尊心を土足で踏み躙った彼女への、殺意にも等しい猛烈な怒りだけだ。
私は、自分が惨めな寄生虫であるという事実を、彼女の口から突きつけられたことが許せなかった。
私がブルーブラックのインクで紡ぐ言葉こそが主人であり、彼女の描く色彩はそれに傅くためのただの美しい奴隷でなければならない。その絶対的な主従関係こそが、私がこの息苦しい世界で呼吸をするための唯一の酸素だったのだ。
それを奪われるということは、私にとって死を意味する。
ならば、奪われる前に、引き剥がされる前に、目の前のこの美しい偶像を、完膚なきまでに叩き壊して、私と同じ醜い泥の底へと引きずり落としてやらなければならない。
「うぬぼれないでよッ!!」
気がつけば、私は自らの声帯が引きちぎれるほどの、ひどく甲高く、そして醜悪な絶叫を、冷たい雨の降る渡り廊下に轟かせていた。
喉の奥の粘膜が裂け、鉄錆のような血の味が口の中に広がる。私は、夜叉のように顔の筋肉を引き攣らせ、眼球がこぼれ落ちそうなほどに見開きながら、数歩先で静かに立ち尽くす彼女に向かって、狂犬のように吠え猛った。
「うぬぼれるな! 私の言葉が泥だって!? 息が詰まるだって!? ふざけないでよ! 私がいなければ、私があんたに物語という名の意味を与えてやらなければ、あんたの描く絵なんて、ただ綺麗な色を塗りたくっただけの、中身のない薄っぺらな『落書き』じゃないの!!」
唾液が飛び散り、雨風に混じって虚空へと消えていく。
もはや、そこには理性も、友情の欠片も、人間としての最低限の品性すらも存在しなかった。ただひたすらに、自らのちっぽけなプライドを守るために、他者の価値を地の底まで貶めようとする、卑小な獣のむき出しの悪意があるだけだった。
「あんたはいつもそうやって、高いところから私を見下ろしていた! 私の暗い言葉を嫌悪しながら、それでも私と一緒にいたのは、自分より才能のない惨めな人間を隣に置いて、自分の才能の輝きを確認して優越感に浸りたかったからでしょう!? 才能をひけらかしているだけの、醜い偽善者! 私の孤独を利用していたのは、あんたの方じゃないの!!」
息継ぎすら忘れて、私は呪詛の言葉を乱射した。
それは、私自身が彼女に対して抱いていた醜い本性そのものを、そっくりそのまま彼女へと鏡写しに責任転嫁しただけの、ひどく幼稚で、見苦しい責任逃れの罵詈雑言だった。
しかし、理性を失った私の脳髄は、その汚い言葉の泥を彼女に浴びせかければ浴びせかけるほど、奇妙な全能感と熱い興奮に支配されていった。
もっと傷つけろ。もっと貶めろ。彼女のあの涼しげな顔を、怒りと屈辱でどろどろに歪ませてやれ。
「裏切り者ッ! 私を一人で泥の中に置き去りにして、自分だけ綺麗な羽を広げて空に飛んでいこうだなんて、絶対に許さない! あんたのその綺麗な手も、その偉そうな目も、全部、全部真っ黒に腐ってしまえばいいのよ!!」
私は、両手を振り乱し、獣のように肩で息をしながら、限界まで彼女を罵倒し尽くした。
冷たい雨だれの音が、私の醜い絶叫の余韻を不気味に吸い込んでいく。
これだけひどい言葉の刃を突き立てたのだ。さすがの彼女も、怒りに顔を真っ赤にして私を罵り返してくるか、あるいは傷ついて涙を流すはずだ。
私は、荒い呼吸を繰り返しながら、彼女の反応を待った。彼女が私と同じように、感情を剥き出しにして醜悪な罵り合いに応じてくれることだけが、私が彼女と対等であると証明できる最後の手段だったからだ。
しかし。
私の視線の先に立つ彼女は、怒りもせず、泣きもせず、ただ静かに、そこにあった。
彼女の瞳に宿っていたのは、私への憎悪ですらなかった。
それは、道端で無惨に車に轢き潰され、内臓を撒き散らしながら痙攣している哀れな虫の死骸を見下ろすような。絶対的な温度の欠如。完全なる、絶対零度の『侮蔑』だった。
「……落書き、か」
彼女の薄い唇が、微かに動いた。
その声は、私の金切り声とは対極にある、ひどく静かで、透き通った、そして背筋が凍るほどに冷酷な響きを帯びていた。
「私の絵が落書きだとしても、あなたのその腐臭を放つ泥のような言葉よりは、ずっと生きて呼吸をしているわ。……詩織、あなたは本当に可哀想な人ね。他人を呪い、他人を引きずり下ろすことでしか、自分の存在を証明できないなんて。あなたの中には、最初から最後まで、何もなかったのよ。空っぽの、ただの暗い穴ぐら。私が今までそこに付き合ってあげていたのは、友情なんかじゃなく、ただの哀れみだったと、どうして気づかなかったの?」
哀れみ。
その三文字が、私の全身の血液を一瞬にして凍結させた。
彼女は、私の放ったありったけの悪意を、まるでそよ風でも受けるように無傷で受け流し、そして、私の魂の最も柔らかい中心部を、一本の冷たい銀の針で正確に貫き通したのだ。
私が最も恐れていた真実。
私が彼女にとって『脅威』ですらなく、ただの『哀れみの対象』に過ぎなかったという、圧倒的なまでの格の違い。
私の罵倒など、彼女の心にはかすり傷一つ負わせることはできなかった。泥を投げつけた私の手だけが真っ黒に汚れ、彼女の衣服は一滴の泥はねすら受けていない。その絶対的な事実が、私の自尊心を完全に、そして永遠に息の根を止めた。
「もういいわ。あなたとは、これ以上言葉を交わす意味がない」
彼女は、まるで汚いものから距離を置くように、一歩、後ろへと退いた。
その足元で、水たまりがピチャリと冷たい音を立てる。
見せかけの友情は完全に崩壊し、むき出しの悪意すらも一方通行で空を切り、二人の関係は、もはやいかなる奇跡をもってしても修復不可能なまでに、決定的な破綻を迎えた。
これ以上、何を言っても無駄だ。
彼女はもう、私の方を振り返ることはない。彼女の世界から、私という存在は、たった今、不要なゴミとして完全に消去されたのだ。
私は、冷たいコンクリートの床に縫い付けられたように動けなくなり、ただ激しく歯の根を鳴らしながら、彼女の顔を睨みつけることしかできなかった。
雨風が強さを増し、横殴りの冷たい雨が渡り廊下の屋根の下まで容赦なく吹き込んでくる。
互いの顔を覆い隠すほどの薄暗い雨のヴェールの向こう側で、彼女は背を向ける直前、最後に、私に向かってこう言い放った。
それは、私の生涯を永遠に縛り付けることになる、冷たくて、重たい、絶対的な『呪いの言葉』だった。
「――こんなことなら、出会わなければよかった」
出会わなければよかった。
その言葉の残響が、冷たい雨の喧騒に溶け込み、私の鼓膜から脳髄へと、まるで消えない焼き印のように深く、深く刻み込まれていく。
ドクン、と。
私の心臓が、異常なほどの重さを持って一度だけ脈打った。
出会わなければよかった。私が、彼女という才能の塊に。彼女が、私という名の空虚な泥沼に。
その言葉を最後に、彼女は私に完全に背を向け、迷いのない足取りで、雨の降る通学路へと向かって歩き出した。
白い制服のブラウスが、灰色の雨の風景の中に吸い込まれ、少しずつ小さくなっていく。
私は、追いかけることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。
彼女の背中を見つめながら、私の頭蓋骨の中では、先ほどの「出会わなければよかった」という呪いの言葉が、ドロドロに溶けた鉛のように渦を巻いていた。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
私をこんなにも惨めな泥の底に突き落として、自分だけが綺麗なまま立ち去るなんて、絶対に許さない。私がいなければ生きられないように、その足を、その腕を、根こそぎ奪い取ってやりたい。
そんな、正気の沙汰とは思えないおぞましい殺意が、私の体温を急激に上昇させ、冷たい雨の湿気を肌から蒸発させていくのを感じた。
私は、まるで目に見えない太い糸で操られる木偶人形のように、ぎこちない動きでゆっくりと足を踏み出した。
向かう先は、彼女の背中が消えていった、あの冷たい雨の降る通学路。
重たいトラックが絶え間なく行き交い、雨に濡れたアスファルトが鈍い黒光りを放っている、あの『交差点』だ。
ザアアアアアッ、と。
世界を塗り潰すような凄まじい雨音が、私の鼓膜を支配する。
これが、真実だ。
これが、私が決して思い出したくなかった、私の魂の最も醜悪な記録。
美しい図書室の幻影も、仲睦まじい絵本作りの約束も、すべてはこの凄惨な決裂と殺意を隠蔽するための、ただの安っぽい上乗りに過ぎなかった。
現実の私は、才能に嫉妬して親友を呪い殺そうとした、ただの醜い殺人鬼に過ぎないのだ。
私の意識は、冷たい雨の降るあの日から抜け出せないまま、決定的な破滅の瞬間――彼女の美しい肉体が、大質量の車輪の下で無惨にすり潰される、あの最悪の悲劇へと向かって、取り返しのつかない重たい足取りで引きずられていく。
熱に浮かされた現実の病室で、鎮静剤に縛り付けられた私の肉体は、ただ声にならない絶叫を上げながら、絶望の涙をシーツに染み込ませることしかできなかった。
もはや、引き返す道はどこにもない。
剥落した約束の残骸を踏み砕きながら、狂気の歯車は、凄惨な血の結末へと向かって、軋み声を上げながら最期の回転を始めていた。




