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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第8話『剥落する約束(前編)』(4)

 空の底が抜け落ちたかのような絶え間ない雨が、古びた校舎のトタン屋根を激しく、そして無慈悲に叩き続けている。

 旧校舎と新校舎を繋ぐ、薄暗く湿った渡り廊下。吹き込んでくる冷たい雨風が、私たちの制服の薄い生地を濡らし、皮膚の表面から体温という名の生きる熱を容赦なく奪い去っていく。

 私の世界と、私自身の罪を隠蔽するために創り上げたすべての美しい空想は、目の前に立つ彼女が薄い唇から吐き出したたった一言によって、音を立てて完全なる崩壊の道を辿り始めた。


「詩織。もう、絵本を描くのはやめるわ」


 雨の喧騒に掻き消されそうになるほど静かで、しかし決して聞き間違えることなどできない、冷徹な響きを持った宣告。

 彼女の口から零れ落ちたその言葉は、まるで氷の結晶のように冷たく研ぎ澄まされ、私の心臓の最も柔らかい部分を、一寸の狂いもなく正確に抉り抜いた。

 トタン屋根を叩く雨だれの音が、突如として耳元で爆発したように巨大な質量を持って反響し始める。

 私の脳髄が、その言葉の意味を理解し、受け入れることを本能的に拒絶し、耳の奥で激しい耳鳴りを響かせた。

 やめる。絵本を。あの日交わした、二人だけの特別な約束を。

 私という凡庸で惨めな存在を、彼女という天才の傍に繋ぎ止めておくための、唯一にして絶対の命綱を。彼女は今、自らの手で冷酷に断ち切ろうとしているのだ。


「じょ、冗談でしょう……? 私たちは、最後まで一緒にやるって……あんなに、あんなに言葉を交わして、一つの物語を創り上げるって、約束したじゃない……!」


 私が、喉の奥から絞り出すように、肺の空気をすべて吐き出しながら縋り付くように叫んだ。

 自分でも吐き気がするほどに、粘着質で、湿り気を帯びた、哀れで醜い懇願の声だった。

 しかし。私がどれほど必死に彼女の袖を掴もうと、どれほど惨めに瞳を揺らそうと、彼女の表情の筋肉はただの一度も、微塵も動こうとはしなかった。


 彼女が、あの琥珀色の光に満ちた幻影の図書室で見せていた、私を包み込んでくれるような『慈愛の微笑み』。

 そんなものは、最初からこの現実世界のどこにも存在していなかったのだ。

 すべては、私がそうであってほしいと願い、現実の冷たさに耐えきれずに脳内で合成した、吐き気を催すほどの自己欺瞞。醜い自己愛が創り出した、身勝手な偶像でしかなかった。

 今、この冷たい雨風の中で私を見下ろしている彼女の瞳に浮かんでいるもの。

 それは、親友に向ける温かな愛情でもなければ、才能のない私を気遣う優しさでもない。

 ただひたすらに純粋な、他人の吐瀉物や、這いずり回る汚い虫を見るような、ひどく冷徹で、一切の感情を剥ぎ取られた絶対的な『嫌悪感』だった。


「詩織」


 彼女は、風で頬に張り付いた濡れた髪を煩わしそうにかき上げ、私を真っ直ぐに、射抜くように見据えた。

 その視線には、私という存在に対する哀れみすらも枯れ果てた、完全な無関心の冷気が漂っている。彼女の美しい横顔をなぞる冷たい雨の雫すらもが、私という不純物をこの場から洗い流そうとしているかのように見えた。


「あなたは、何もわかっていないわ。私たちが創ろうとしていたのは、美しい絵本なんかじゃない。あなたが、あなた自身のどうしようもない孤独と空虚さを埋めるために、私という存在を縛り付けていた、ただのひどく重たい『呪い』よ」


 呪い。

 その二文字が、不可視の鋭利な杭となって、私の喉仏の真下を貫通した。

 息が止まった。

 彼女は、私のすべてを、私が言葉の裏に隠していたどろどろとした醜悪な本性のすべてを、最初から完璧に見抜いていたのだ。

 私が彼女の圧倒的な色彩の才能にどれほど嫉妬し、私がどれほど彼女の光を真っ黒な泥の中に引きずり込みたがっていたのか。私が「一緒に絵本を作ろう」と彼女の手を引くたびに、どれほど彼女の美しい翼をへし折り、私という狭くて息の詰まる暗い檻の中に永遠に閉じ込めようとしていたのかを。

 彼女は、そのすべてを理解した上で、私のその重苦しい執着に、ただひたすらに静かに、冷やかに耐え続けていただけだったのだ。


「あなたの紡ぐ言葉は、いつもそう。血や、絶望や、誰かの理不尽な死や、欠損ばかりを執拗に描く。言葉の端々に、私を支配したい、私を自分のレベルまで引きずり落としたいという、醜くて歪んだ執着を滲ませて」


 彼女の声は、激しい雨音の中でも決して掻き消されることのない、恐ろしいほどの静けさを帯びていた。

 声を荒らげることもなく、怒りに身を震わせることもなく。ただ淡々と、解剖学の学者が実験動物の腹を切り開くような冷徹な手つきで、私という人間の最も隠しておきたかった核心を、白日の下にえぐり出していく。

 それは、私の魂の根幹を、錆びたノコギリでゆっくりと削り取るような、残酷極まりない真実の刃だった。


「私がどんなに明るい色を塗っても、私がどんなに希望のある星空を描いても。あなたは次のページで、その星空を真っ黒なインクで塗り潰すような、陰惨で救いのない言葉を書き連ねる。私が描いた主人公から、腕を奪い、光を奪い、泥の中を這いずり回らせる」


 彼女の言葉が、図書室の机の上に広げられていたあのノートの記憶を、現実の冷たい風景の中に叩きつける。

 そうだ。私は、彼女の描く完璧な世界が憎かった。

 私には決して描くことのできない、あの眩しい光が、私の凡庸さを浮き彫りにするから。だから私は、ブルーブラックの万年筆を握りしめ、彼女の描いた美しい世界を、私の言葉という名の毒で汚染し、破壊することに無意識の暗い悦びを見出していたのだ。


「あなたのその暗い情熱を向けられるたびに、私は自分の輪郭が泥に溶けていくような、ひどい吐き気に襲われていたの。あなたが私に向ける感情は、友情なんかじゃない。ただの、私という光を食い殺そうとする、寄生虫の貪欲さよ」


 寄生虫。

 その言葉が、私の両膝からすべての力を奪い去った。

 私は、冷たいコンクリートの床に崩れ落ちそうになる体を、壁に手をついて必死に支えた。

 彼女の言葉は、一言一句が完璧な真理だった。私は彼女の才能という光がなければ、自分一人では何も生み出すことのできない、ただの薄暗い影でしかない。

 影は、光がなければ存在すらできない。だから私は、彼女という光源にべったりと張り付き、その光を私だけのものとして独占するために、「約束」という鎖を彼女の首に巻きつけていたのだ。


 彼女は、壁に手をついて震える私を、どこまでも冷めた、感情の死に絶えた瞳で見下ろした。

 そして、私の存在意義のすべてを、この宇宙から完全に抹消するための、最後の、そして決定的な死刑宣告を口にした。


「詩織、はっきり言うわね」


 雨の音が、一瞬だけ遠のいたように感じた。

 彼女の唇から紡がれるその言葉だけが、絶対的な物理法則となって私の脳髄に直接刻み込まれていく。


「あなたの紡ぐ言葉には、本当の光がどこにもないの。どんなに美しい言葉を並べ立てようと、その根底にあるのは、他人の才能への嫉妬と、自分自身の空虚さへの言い訳だけ。一緒にあの真っ白なノートに向かっていると、私まで、あなたのその底なしの泥の中に引きずり込まれて、息の仕方を忘れてしまいそうになる」


 息が、できない。

 私と一緒にいると、息が詰まる。泥に引きずり込まれる。

 その宣告は、私という存在に対する最大限の軽蔑であり、絶対的な拒絶だった。

 彼女にとっての私は、才能を分かち合う友人などではない。

 彼女という美しい才能の結晶を、底なしの悪臭を放つ泥沼へと引きずり込み、窒息死させようとする、厄災そのものだったのだ。


「だから、もう終わり。私はもう、あなたの言葉の添え物になるのは御免よ」


 彼女はそう言い捨てると、私から完全に視線を外し、雨の降る校庭の方へと顔を向けた。

 そこには、私に対する未練も、過去の思い出を慈しむような感傷も、一切存在していなかった。

 ただ、重たい汚物からようやく解放されたという、冷酷なほどの安堵だけが、彼女の横顔に張り付いていた。


 私の世界は、完全に破壊された。

 彼女が私に見せていた微笑みも、二人で机を寄せ合って過ごした放課後の時間も。すべては、私の醜い執着が彼女を無理やりに縛り付けていたからこそ生じていた、痛々しい悲劇の延長戦に過ぎなかった。

 彼女に突き立てられた真実の刃は、私の心臓を貫き、魂の根幹を無惨に引き裂き、私という人間の自尊心を、冷たい雨の降る渡り廊下のコンクリートの上に、醜い汚濁の塊として撒き散らした。

 私は、彼女の才能を愛していたのではない。彼女の才能を汚し、壊し、自分と同じ泥の中に引きずり落とすことでしか、自らの凡庸な命を肯定することができなかったのだ。

 その浅ましく、おぞましい私の本性が。最も知られたくなかった、たった一人の『親友』の口から、これ以上ないほど残酷な言葉となって解剖され、目の前に突きつけられた。


『本当の光がない』

『泥の中に引きずり込まれる』


 その言葉が、熱に浮かされた現実の病室のベッドの上にいる私の脳髄の中でも、無限の木霊となって反響し続ける。

 私が物語の底で這いずり回らせていた、両腕のない少女。あの暗黒の森。

 あれはすべて、私自身が彼女に押し付けようとしていた、私自身の心の中の醜い風景そのものだったのだ。

 偶像は完全に砕け散った。

 残されたのは、降りしきる冷たい雨と、他人の才能に寄生することしかできない自分自身の、耐え難いほどの醜悪な悪臭だけだった。私は、ただ無言で立ち尽くす彼女の背中を見つめながら、自らの魂が、音を立てて真っ黒な泥濘でいねいへと崩れ落ちていくのを、どうすることもできずに感じ続けていた。

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