第8話『剥落する約束(前編)』(3)
降りしきる雨の冷たさが、私の皮膚を直接焼くように突き刺してくる。
そこは、私たちが通っていた如月学園の、旧校舎と新校舎を繋ぐ渡り廊下だった。図書室の幻影の中で見た、あの甘い琥珀色の光などどこにもない。窓の外に広がるのは、鉛色に淀んだ空から絶え間なく吐き出される冷たい雨と、校庭の土を泥に変えていく容赦のない湿気だけだ。
私の脳髄の奥底に封印されていた、あの事故当日の朝。
私は、自分が創り上げた『図書室の優しい彼女』という偶像の首を、自らの手でゆっくりと絞め落としていくことになった。
私たちが互いに才能を認め合い、対等な友人として絵本を紡いでいた——そんな物語など、最初から存在しなかったのだ。
すべては、私の精神を保つためだけに機能していた、歪な自己防衛の捏造。
この渡り廊下に漂う、カビ臭い湿気と冷たい空気こそが、私たち二人の関係を支配していた、ありのままの『現実』だった。
彼女は、私の横で雨音を聞きながら、無機質な視線を校庭に投げかけていた。
その横顔は、図書室の幻影で見せていたような、慈愛に満ちた柔らかなものではない。そこには、私の紡ぐ言葉の重苦しさ、私の執着のしつこさに対する、隠しようのない嫌悪と倦怠が張り付いていた。
私にとって、彼女は『絵本を共に作るかけがえのない親友』などではなかった。
彼女は、私の劣等感を鏡のように突きつけてくる、憎むべき『怪物』だった。
私が全身全霊を込めて紡ぎ出した、あの暗くて重い、魂の断末魔のような物語。それを一目見た瞬間に、彼女は笑ったのだ。あざ笑ったのではない。ただ、あまりのつまらなさに、同情のような哀れみの眼差しを向けたのだ。
彼女の指先が動くたびに、私の言葉は、ただの汚いインクの染みに成り下がった。
彼女が描き出す色彩は、私がどれだけ長い時間をかけて絶望を言葉に変えようとも、一瞬でそれを白日の下に焼き尽くしてしまうほどの、圧倒的な輝きを放っていた。
彼女の描く『星』を見た時、私は激しいめまいを覚えた。私の紡ぐ『絶望の森』は、彼女の隣に並べられた途端、ただの湿った腐敗の残骸にしか見えなくなったのだ。
悔しかった。死ぬほど悔しかった。
あんな風に、光を自在に操れたらどんなにいいだろう。私の心の奥底に渦巻く、どうしようもない醜い感情の数々を、あんな風に美しい絵にして、世界中から賞賛されたらどんなに清々しいだろう。
私にはない。私には、その才能が、決定的に欠けている。
その事実を突きつけられるたびに、私の心臓は嫉妬という名の錆びた針で無数に刺し貫かれた。彼女に対する好意など、そのどろどろとした劣等感の海に沈む、小さな小石ほどの重さも持っていなかった。
私は、彼女が好きだったのではない。彼女の才能を、私というちっぽけな容器の中に閉じ込めて、私だけのものにしたかっただけなのだ。
「ねえ、約束したじゃない。最後まで一緒に、絵本を描き切るって」
私は、絞り出すような声で彼女にそう言った。
自分でも驚くほど、粘着質で、湿り気を帯びた言葉だった。
渡り廊下の冷たい空気に溶け出すその言葉は、彼女を縛り付けるための、重くて硬い枷だった。
『二人で絵本を作ろう』。
その言葉は、私から彼女へ送る愛の誓いなどではなかった。それは、才能の輝きを失うことのない彼女に対し、私という凡庸な存在を『唯一の理解者』としてセットで繋ぎ止めておくための、呪いの合図だった。
彼女がどれほど空に憧れ、どれほど広い世界へ飛び立ちたがっていようと、この約束がある限り、彼女は私という泥沼の中に立ち止まっていなければならない。
彼女の色彩を、私の紡ぐ暗い言葉という名の重石で縛り付け、泥にまみれさせること。
それが、天才に対する凡人である私の、せめてもの復讐であり、生き残るための生存戦略だった。
彼女はゆっくりと、私の方へ首を向けた。
その瞳に宿っていたのは、友情でも、信頼でもない。
もっと冷酷で、もっと真実を見抜いた、底なしの退屈だった。
彼女は知っていたのだ。私の言葉の中に光がないことを。そして、私が彼女の才能を心から愛しているのではなく、その輝きを剥ぎ取りたいと願う、ひどく卑小な獣であることを。
「詩織。ねえ、あなたには、自分の言葉がそんなに高尚なものに見えるの?」
彼女の冷たい問いかけが、雨音を切り裂いて私の耳元に届いた。
私は、反射的に口を開いたが、適切な言葉が出てこない。
彼女は、私のその沈黙を『肯定』と受け取ったのか、それとも最初から答えなど期待していなかったのか、深く、深いため息をついた。
その息遣いだけで、私は自分の全人格が否定されたような、耐え難い屈辱を感じた。
彼女の瞳に映る私が、どんどん小さく、卑しく、醜い影のように歪んでいく。
「あなたが紡ぐのは、救いじゃないわ。ただの、他人の不幸を肴にするだけの、自己満足の落書きよ。私はもう、疲れたの」
彼女の言葉は、氷のナイフのように私の皮膚を滑り、脂肪を通り越し、骨にまで達した。
図書室で彼女が微笑んでくれていた記憶が、一瞬にして鮮やかな赤錆を帯びて崩壊していく。
そうか、彼女は最初から私を軽蔑していたのだ。
私の言葉を、私の情熱を、そして私の『友人でありたい』という願いすらも。彼女にとっての私は、才能の光を泥の中に引きずり込もうとする、卑劣な寄生虫でしかなかったのだ。
雨が強くなっていた。
廊下の隅には、湿った空気に耐えきれなくなったカビが、ひっそりと黒い斑点を広げている。
私は、自分が今、どれほど惨めな格好で彼女の前に立っているのかを想像して、胃の腑が逆流するような吐き気に襲われた。
才能の差。生まれ持った光の量。そして、私という存在が、彼女の美しい絵画を汚すためだけに存在する、不要な背景であるという絶対的な現実。
私が彼女を殺そうとしたのは、事故ではないのかもしれない。
あの日、あの渡り廊下で、彼女が私のプライドを完全に踏み潰し、私を永遠の凡人として突き落とした時。私の脳髄のどこかでは、すでに『彼女を殺さなければ、私が死ぬ』という、殺意にも似た熱い衝動が芽生えていたのかもしれない。
私は、雨粒の冷たさを感じながら、目の前の彼女を凝視した。
彼女の美しい黒髪が、雨の湿気を吸って白い首筋にべったりと張り付いている。
そのうなじを、あの日、私はどんな気持ちで見つめていたのだろうか。
私の才能のない汚い手で、彼女という輝ける太陽を、この湿った泥の中に引きずり落とし、永遠に私の手の中で飼い殺すことだけを考えていたのではないか。
「お願い、やめないで。私には、あなたが必要なの……!」
そう叫んだ私の声が、自分で聞いてもひどく空疎で、聞き苦しいものに聞こえた。
彼女の美しい横顔は、私の方を向くことすらしなくなった。
私の言葉は、彼女という完璧な作品を汚染するための、濁った汚水でしかない。それなのに私は、その不浄を彼女に飲ませ続けようと、必死に手を伸ばしているのだ。
この、嘘と醜い嫉妬に満ちた渡り廊下こそが、私たちの始まりであり、終わりだった。
彼女が私に見せていたあの優しい微笑みは、私の醜さを隠すための厚い覆いだったのか。それとも、私がそうあるべきだと妄想し続けた、一方的な幻想だったのか。
今の私には、もうどちらでもよかった。
ただ、この冷たい雨の中で、彼女の瞳から自分が消えていくのを、私はただ震えながら、全身の神経を逆立てて感じ取っていた。
ここから、私たちの『絶望の森』は始まっていたのだ。
インクの染みとして描かれる前の、生身の、そして何よりも冷酷な殺し合いの時間が。




