第8話『剥落する約束(前編)』(2)
仰向けに固定された肉体に囚われた私の眼球は、逃げ場を完全に失い、ただひたすらに病室の灰色の天井を見つめ続けていた。
無数に散らばる原因不明のシミ。それはまるで、私の頭蓋骨の内側で粉々に砕け散った精神の破片が、冷たいコンクリートの表面にそのまま投影されたかのような、醜く歪んだ絶望の星座群だった。
化学薬品の重たい軛が血流を支配し、私の肉体から一切の自由と抵抗する権利を奪い取っている。指先を動かすことも、まぶたを固く閉じてこの残酷な現実から逃避することすら、今の私には許されていない。電子音が一定の冷酷なリズムで命の残り時間を計量し続ける中で、私の内なる世界では、ある恐ろしい『崩壊』が、決して逆らうことのできない決定的な足音を立てて始まろうとしていた。
私の精神が、自らが犯した耐え難い大罪から逃れるために。そして、親友を殺した醜い殺人鬼である自分自身を慰めるために、本能の最も深い奥底で必死に構築し、すがりついてきたあの『美しい箱庭』。
はちみつ色の光が優しく差し込む、放課後の古い図書室。
穏やかな静寂と、手漉きの紙が擦れる温かな音。
そして、私に向かって優しく微笑みかけてくれる、才能に溢れた美しい親友の幻影。
私が直視できない『現実』を塗り潰すために創り上げたその見せかけの虚構の装飾が、今、高熱に焼かれてドロドロに融解した脳髄と、強制的に神経を麻痺させる冷たい薬品の化学反応によって、確かな重みと熱を伴って溶け落ちようとしていたのだ。
最初に致命的な異変を起こしたのは、嗅覚だった。
私の鼻腔を辛うじて満たし、病室の冷え切った死臭や、絶望の森の血と泥の腐臭から私を守るための強固な防壁となっていた、あの『人工的な柑橘の匂い』。それが、まるで強い酸性の毒液を浴びせられたかのように、急速にその性質を歪ませ、おぞましく腐敗し始めたのだ。
爽やかで甘かったはずの香料の匂いが、突如として鼻の奥を鋭く突き刺すような、酸鼻を極める異臭へと変質し、肺の奥底でチリチリと焼け焦げるような感覚を伴って消滅していく。防波堤がメキメキと音を立てて崩れ去った私の気道から、虚構を維持するための匂いが一滴残らず揮発し、無慈悲に奪い去られていく。
それに連動するように、視界に焼き付いて離れなかった『毒々しいオレンジ色の西日』の残滓が、無惨な剥落を開始した。
網膜の裏側にべったりとこびりついていたオレンジ色の光の膜が、まるで長年の風雨に晒されて劣化した安い顔料か、あるいは重度の火傷を負った皮膚の表面が極度に乾燥してひび割れるように、ピキッ、ピキッという微細で不快な音を立てて無数の亀裂を生じさせていく。
ひび割れた光の膜は、端の方からめくれ上がり、薄皮が剥がれるようにポロポロと脆く崩れ落ちていく。剥がれ落ちたオレンジ色の破片は、空中に舞う暇すら与えられず、鎮静剤の重力に引かれて暗黒の底へと落ちて跡形もなく消え去った。
私を温かく包み込んでくれていた偽りの夕日は、肉を剥がされるような痛みを伴って無慈悲に引き剥がされ、後には何の色彩も持たない、ただただ荒涼とした真実の風景の『下地』だけが、残酷なまでに剥き出しにされていく。
嘘の装飾が完全に剥がれ落ちた私の鼻腔と、無防備な肺の奥底に、代わって暴力的な質量をもって雪崩れ込んできたもの。
それは、無菌室の消毒用アルコールの匂いでもなければ、排泄物の匂いでもなかった。
もっと冷たく、もっと鋭く、もっと現実的で逃れようのない、私の魂を直接切り裂くような生々しい記憶の匂い。
――むせ返るような、『雨に濡れたアスファルトの匂い』だった。
ズブッ、と。
ひどく冷たくて重たい灰色の空気が、私の気道を容赦なく侵した。
空の底が抜けたような冷え切った雨粒が、無数の鋭い針となって固いアスファルトの地面を激しく打ち据え、そこに溜まっていた這いつくばるような土埃と、車の排気ガスの微粒子を空中に巻き上げる、あの特有の鉱物的で生臭い匂い。
肺の奥深くまで吸い込まれたその匂いは、氷のように冷たく、私の内臓を直接冷たい手で鷲掴みにして凍りつかせるような、すさまじい現実感を持っていた。
私は今、病室のベッドの上に仰向けに寝かされているはずなのに。私の皮膚は、制服の薄いブラウスを容赦なく突き抜けてくる冷たい雨の湿気と、頭上をどんよりと垂れ込めた分厚い雨雲がもたらす『冷たい灰色の空気』を、はっきりと、物理的な重痛い感触として感じ取っていたのだ。
「あ……、あぁ……やめ、やめて……っ」
声帯を完全に麻痺させられた私の喉の奥から、空気が引き絞られるような惨めで掠れた音が漏れる。
わかっている。この匂いが、この息が詰まるような冷たい空気が、私の人生のどの時間、どの場所に属しているものなのかを、私の脳髄は完璧に理解している。
私の狂った精神は、その圧倒的な絶望の記憶を直視しないために、図書室という都合のいい箱庭を創り出し、必死に分厚い蓋をして隠蔽し続けていたのだ。
しかし、精神の器が粉々に砕け散り、鉛のような鎮静剤によって意識の抵抗力すらも完全に剥奪された今の私には、その記憶の封印を維持するための力など、塵一つ残されてはいなかった。
胃の奥底。五臓六腑の一番深く、暗く、決して光の届かないどん底から。
ドス黒くて、ひどく重たく、鉄錆と胆汁の味がするヘドロのような『真実の記憶』が、ゴボッ、ゴボボッ、と不気味な音を立てて逆流し始めた。
それは、食べたものを吐き出すような単純な生理現象などではない。私が目を背け、無かったことにしようと土に埋めていた『あの日』――親友の美しい肉体がトラックの無慈悲な車輪によって挽肉のように引き裂かれた、あの凄惨な事故の当日の朝の真実が。どろどろの真っ黒な流動体となって、私の食道を焼きながら這い上がってくるのだ。
見たくない。思い出したくない。
あの朝、本当は何があったのか。私と彼女の間で、どんな醜い言葉が交わされたのか。
その真実に触れてしまえば、私は二度と、図書室の幻影という甘い自己欺瞞の世界に逃げ込むことができなくなってしまう。私が私を許すための唯一の言い訳が、木端微塵に粉砕されてしまうのだ。
(お願い、見せないで。私は何も知らない、ただ彼女と絵本を作りたかっただけなの……!)
狂乱する私の意識は、必死に記憶の逆流に抗おうと、存在しない幻の手で自らの食道をかきむしり、まぶたを太い糸で縫い合わせようと足掻き狂った。
しかし、鉛のように重たい鎮静剤に完全に支配された現実の肉体は、指の第一関節すらピクリとも動かすことはなく、ただ仰向けの無防備な姿勢のまま、せり上がってくる記憶のヘドロを黙って受け入れることしかできない。
逃げ場のないベッドという名の処刑台の上で、私の防衛本能という名の脆いダムは、ついに巨大な音を立てて完全に決壊した。
黒いヘドロが、私の喉を越え、脳髄の隙間をドロドロに埋め尽くし、眼球の裏側から視界全体へと一気に溢れ出した。
病室の灰色の天井のシミが、冷たい雨に濡れそぼったコンクリートの壁へと変貌する。
心電図の機械音が、規則正しく地面を叩く冷たい雨だれの音へとすり替わる。
私は、強制的に見開かれた内なる瞳の奥で、自分自身がひた隠しにしてきたあの朝の光景――冷え切った雨が容赦なく降りしきる、薄暗くて人気のない学校の渡り廊下の真ん中に、自分が立ち尽くしているのを、はっきりと認識してしまった。
もう、嘘で塗り固められた甘いおとぎ話には戻れない。
ここから始まるのは、才能への醜い嫉妬と、身勝手な執着と、そして取り返しのつかない決裂という名の、残酷で血生臭い『真実の記録』なのだ。
私は、鎮静剤に麻痺した肉体の奥底で、これから始まる地獄の再演にただひたすらに怯え、声にならない絶叫を上げながら、真っ黒な真実の雨に打たれ続けることしかできなかった。




