第8話『剥落する約束(前編)』(1)
気がつくと、私は果てしなく暗く、そして息が詰まるほどに重たい暗黒の底に沈んでいた。
私の頭蓋骨の内側には、未だに煮えたぎるような熱の泥が滞留している。
精神の器が砕け散ったことによって引き起こされた、あの地獄の業火のような致死的な高熱は、どうやら辛うじて鎮められたようだった。しかし、焼け焦げてドロドロに融解した脳髄の残骸は、冷え切らない熱を帯びたまま、出口のない真っ暗な沼の底で無惨に横たわっている。
熱い。だが、身体は恐ろしいほどに重く、冷たい。
なぜ私が、あそこまで完全に沸騰しきっていたにもかかわらず、命の活動を停止させずにこの場所に繋ぎ止められているのか。
それは、私の意思などではない。あの白いマスクで顔を覆った無機質な看護師が、私の静脈から強力な鎮静剤という名の『暴力的な重り』を強制的に流し込んだからに他ならなかった。
動かない肉体の血管の中を、冷たくて、ひどく重たい化学薬品が、水銀のようにぬらぬらと這い回っていくのがわかる。
首の奥で断絶した神経の空隙すらも嘲笑うかのように、血流に乗ったその冷え切った鉛の薬液が、熱を持った脳髄の奥深くへと直接侵入してくる。それは、苦痛を取り除くための癒やしなどという生易しいものではなかった。
無理やりに脳の熱を奪い、思考しようとする意識の上から、巨大な鋼鉄の塊を容赦なく叩き落として押し潰すような、吐き気を催すほどの圧倒的な『肉体の支配』だった。
漂白されたシーツに縫い付けられた私の身体は、もはやただの死肉以上に重く、薬品の作り出す底なしの重力に向かって、ひたすらに沈み込んでいくことしかできない。
ヘドロのように濁った意識の底で、私はかろうじて残された思考の欠片を掻き集めようと足掻いていた。
私は、誰だ。
親友を殺した、月城詩織なのか。
それとも、絶望の森を這いずり回る両腕のない少女、ステラなのか。
疑問の形を成そうとしたその言葉の輪郭は、しかし、脳内で意味として結像するよりも早く、血管を巡る冷たい鉛の薬品によって強引に叩き潰され、霧散させられた。
思考がまとまらない。言葉が、二文字以上繋がらない。
まるで頭蓋骨の中に、生乾きの重たいセメントを流し込まれ、そのまま固められてしまったかのように。私が何者であるかという根源的な問いすらも、薬の力によって絶対的な暗黒の底へと強固に封じ込められてしまったのだ。
狂うことすら、許されない。
自分が誰なのかを叫びながら発狂することすら、この重たい薬品の鎖が許してくれない。
『ステラ』という架空の洗礼名で私を呼んだあの看護師の冷たい声が、鼓膜の奥で微かに反響している。自分が現実の人間なのか、それともインクで書かれた設定に過ぎないのか。その絶望的な認識の混濁を抱えたまま、私はただ声の出ない喉をひくひくと震わせることしかできなかった。
そんな、熱の泥と冷たい鉛に満たされた密室の静寂を、規則正しく切り裂く音があった。
私の心臓の鼓動を、ただの無機質な線として空間に刻み込み続ける、感情の欠片もない心電図の電子音だ。
ピ、ピ、ピ、と、等間隔の冷たいリズムが部屋の隅から響いている。
重たい泥の中でも、鉛の支配の中でも、その音だけは、恐ろしいほどの鮮明さを持って私の鼓膜を一定の冷たいリズムで叩き続けている。
その冷酷な機械音の連なりは、私にひとつの残酷な真実を突きつけていた。
あのはちみつ色の光が差し込む、美しい図書室はもうない。
赤黒い血の泥が降り注いでいた、あの絶望の森もない。
ただ、この灰色の病室という名の『現実』だけが、私を永遠の棺桶の中に閉じ込め、冷え切った理のもとに私を無理やりに生かし続けている。
私は、ピクリとも動かない青白い右腕をシーツの上に投げ出したまま、重たくて冷たい薬の沼の底で、ひゅっ、ひゅっ、と、陸に打ち上げられた魚のように惨めに浅い息を繰り返し続けることしかできなかった。




